鐘の余韻が消えぬうちから、馬蹄の響きと人の声が交錯する。大陸西を席巻する「帝国」の都の朝は、おおむね騒がしい。
帝都の片隅。貴族の館のような風格を持つ建物の中で、さらにかしましい朝の一幕が繰り広げられていた。
二階から三階に点在する扉がばたばたと開かれる。間もなく、肌色も髪色もさまざまな子どもたちが一斉に飛び出した。今のところ、四歳から十六歳までで構成されているこの建物――孤児院の住人たちは、慌ただしく身支度を整えて、一階に向かっていた。中でも今日一番にせわしないのは、最年長・十六歳の少女だ。長い栗毛を整えた彼女は、しばらくぶりに学生服に袖を通し、脇に抱えた鞄の中身を確かめる。その間じゅうずっと、泣きついたり飛び付いたりしてくる子どもたちの世話もしているのだから、器用なものだ。
「ステラー、目ざまし止まんないよう、どうしようー」
「ええ? スイッチの場所教えなかったっけ? ま、いいや、とりあえず貸して!」
「ねえねえステラ、七時のはんぶんだよ。がっこ、大丈夫?」
「そうだねー。ちょっと大丈夫じゃないから急ごう。髪引っ張らないでね、リーエン」
もうすぐ七歳になるリーエン嬢は、右耳の上で結んだばかりの栗毛をぐいぐいと引っ張ってくる。少女はそれを引きはがすと、手渡された時計のアラームを一瞬で止めて、最後のボタンを留めた。
「さあ後輩たち! さっさと下りた下りた! ミントおばさん待ってるよ!」
「はーい」
少女――ステラの号令に、仲良く返事をした子どもたちが、階段を駆け下りてゆく。ほどよい距離を保ってそれについていったステラは、一階に辿り着くなり、子どもたちを集めている女性に駆け寄る。いいところにいてくれた。
「ミントおばさん、ごめん! 今日は朝ごはん一緒に食べれなさそう!」
「あら大変。そういえば、初日は少し早く行かなくちゃいけないんだったわね」
ミントおばさん、と呼ばれている女性は、ふっくらとした頬に手を添え、厳しげに目を細める。それでもなお、おっとりとした表情が消えないのは、彼女が持つ生来の気質のおかげだろう。彼女はすぐさま厨房に入り、戻ってくると、自分の通称と同じミント色の小袋をステラに差しだした。ずしりと重いそれを受け取り、ステラは子どもたちの間をすり抜ける。
「行きがけに食べなさい。気をつけてね」
「ありがと、行ってきます!」
答えるなり、彼女はつま先で床を蹴って駆けだした。
「行ってらっしゃーい」
元気に重なる声を背に受け、少女は帝都へ飛び出す。
クレメンツ帝国学院の夏季休暇が明けた、最初の日。ステラ・イルフォードの出立は、おそらく同じ学生の誰よりも、にぎやかで慌ただしかった。
高きに輝く太陽の光を存分に受け、澄みわたる空の下。赤煉瓦がまぶしい学び舎の前に、濃紺の制服をまとった学生たちがひしめき合っている。夏の盛りには静まり返り、ほどよい上品さを醸していた場所だ。だが、並木道は今や、高い話し声と人の熱気に彩られていた。
制服の群にひと息で飛び込んだステラは、とりあえず遅刻をしなかったことに安堵した。ほっと息をついたそのとき、しかし調子のよい男子生徒の群と鉢合わせ、その中の一人とぶつかってしまった。相手も久々に友人と会って浮かれていたのだろう。ステラが声を上げたのに気づくと、慌てた様子で謝ってきた。
その間にも転びかけていた少女は、無意識のうちに受け身をとろうとする。が、寸前で腕をつかまれ、制服の群から引き出された。ひととき呆然としたステラは、すぐそばで名を呼ばれると、黒茶の瞳で声の主を見上げた。
「あれ? レク。ありがとう」
「よう。相変わらずそそっかしいお嬢様だな」
「そそっかしくて悪かったわね」
ステラが童女のようにむくれると、先ほどぶつかってきた男子生徒よりわずかに背の低い少年は、片目をつぶって笑いかける。彼女の一番の学友であるレクシオ・エルデは、最後に会ったときとあまり変わっていないように見えた。雑に切られた黒髪の下で、新緑色の双眸が悪戯っぽく光っている。その顔立ちは端正な部類に入るのであろう。だが、表情のせいで幼さはぬぐいきれない。
飄々としているようで、時に子どもっぽくステラをからかうことのある彼は、ひと息つくと彼女の腕を離した。短く言葉を交わした後、二人は並んで制服の群の中に戻る。
「で、どうだった? その後の夏休みは」
「どうも何も、後半はほとんど合宿漬けだったじゃない」
「デイヴィッドの班、悪くなかったろ」
「ああ、そういう話ね。――うん、人によっていろんな戦い方があるなあって、勉強になったわ」
入学当初からの付き合いである二人は、『武術科』という学科に所属している。その名のとおりあらゆる武術・戦術と兵学を専門に扱う学科で、在籍する生徒のほとんどが軍人もしくは騎士志望だ。二人は武術科の中でも剣術を専攻しているが、先の合宿では専攻の枠を越えてさまざまな生徒と班を組むことになっていた。例えば、銃を持ち出していたアーネストなどは、弓術・銃火器の専攻だったはずだ。剣の訓練をしてばかりいるステラにとっては、彼らの立ち居振る舞い一つひとつが、新鮮に映ったものだった。
夏季休暇の話題に花を咲かせているうち、校舎が近づいてきた。久しぶりに聞く教師の声が、風に乗って流れてくる。
玄関口に差し掛かったところで、レクシオが急にステラを振り返って、人懐こい笑みを浮かべる。
「そうだステラ、ジャックから伝言。『今日の放課後、第二学習室に集合』」
心底楽しげなささやきを聞き、ステラは軽く目をみはる。変わらぬ笑顔の幼馴染をまじまじと見て、思わず口もとに拳を当てた。
「新学期初日からやるの? 新しい『怪奇ネタ』が見つかったのかな」
「そうなんじゃね? ま、行けばわかるって」
首をかしげる少女に、少年は軽い返事を投げて寄越した。それから、たまたま目に入った教師に無邪気な笑顔で挨拶をする。ステラは、その横顔を見るともなしにながめていた。
新学期の始まりというのは、ステラにとってそれほど劇的なものではない。学院長のありがたいお話を拝聴し、課題を提出し、生徒たちと薄っぺらな再会の言葉を交わし、今期の大まかな予定を頭に入れる。思い出を語り合う相手がレクシオくらいしかいないせいで、薄っぺらだと感じるのかもしれない。
ともかく、ステラにとってはこれからが本番だ。普段の授業日よりもいくぶんか早く放課の時を迎えた彼女は、足早に約束の場所へ向かっていた。教室からまっすぐ歩き、最初の角を左に曲がる。それからまた少し歩いたところで、『第二学習室』の看板が見えた。真面目そうな名前がついてはいるが、決まった役割がある部屋ではない。教師に申し出てお許しが出れば、誰でも使える部屋だ。行事の打ち合わせをしたり、教室に行きにくい生徒が一人になったりと、その目的も多岐に渡る。今は、数人の高等部一年生の集合場所になっているはずだ。
扉の前に立つ。三度叩いて、開ける。
「ようこそステラ。君は三番乗りだ!」
扉の開閉音が消えると同時、陽気な声が奇妙な言いまわしで出迎えてくれた。ステラは苦笑して室内に滑り込むと、後ろ手に扉を閉める。
「久しぶり、団長。変わらず元気みたいで安心したわ」
「ああ。君も、レクシオくんもな」
ステラにまぶしいほどの笑みを向けたのは、学習室の窓辺に立つ少年だった。首のあたりまで黒髪を伸ばした彼は、名をジャック・レフェーブルという。まっすぐ通った鼻筋といい、切れ長の目といい、その長身といい……舞台俳優と言っても通用しそうな容姿だ。ただ、そんな彼の本性は、陽気な怪奇好きであった。幽霊や怪談、怪しい噂が大好きで、絶えず情報を集めているというから驚きである。レフェーブル家は伝統ある帝国議員の名家だが、本人にそれを鼻にかける様子は一切ない。
平常運転のジャックを、隣で椅子に身を預けていたレクシオが見上げた。
「いやあ、ジャック団長は新学期初日でも輝いてんな」
「そう見えるかい? 久々におもしろい話を見つけてしまったものでね」
「休暇中に首突っ込んだ『人形の館』も、相当おもしろい話だったと思うけど。……で、今回はどんな怪談なんで?」
「それは全員揃うまでのお楽しみ、さ!」
悪童のような表情を向ける「団員」に対し、ジャックは片目をつぶってみせる。ステラは、目を瞬いた。
「そういえば、トニーとナタリー、遅いわね」
彼らが第二学習室に集まっているのは、学院の同好会活動のためだ。講義などとは別に、生徒たちが数人の集団で専門分野の研究などに取り組むためのもので、正式に認められた活動のひとつである。
学習室にいる彼らの活動内容は、ずばり「怪奇現象や怪談の調査」。単なる遊びと笑われそうなものだが、そうとも言い切れない。夏季休暇の前半に泊まりこみで探検した古い館では、本物の幽霊と戦っているのだ。怪談などという曖昧なものを調べている割に、結構『あたり』を引くのが、この同好会の恐ろしいところだった。
団員はジャックとステラ、レクシオ、そしてまだ来ていない二人だ。その二人の影をステラが気にしていたとき、勢いよく扉が開いた。
「やっほう、遅くなってごめーん!」
元気のいい叫びとともに転がり込んできたのは、少女一人と少年一人。二人を見やったステラたちは、ほっと息を吐いた。
「やあ、ナタリーくん、トニー。元気そうでよかったよ」
「いや、すまんね団長。魔導学の論文の採点が厳しくて、なかなか解放してもらえなかったんだ」
ジャックの呼びかけに応えた少年トニーは、癖の強いこげ茶色の髪をかき、印象的な猫目を細めて苦笑する。その横で、短く切りそろえた黒髪を整えながら、最後の一人が息をついた。
五人が揃ったところで、ステラがジャックの方を見やれば、彼は腰に手を当てて、自信満々の笑みを浮かべる。
「久しぶりだね、諸君! クレメンツ帝国学院の新学期が始まり、我々『クレメンツ怪奇現象調査団』もこうして再び集ったわけだ。歴史あるこの学院のいち同好会として、さらなる飛躍を遂げようではないか」
「その同好会の名前、どうにかならんもんかねえ……」
小声で呟いたのは、猫目の少年トニーである。ステラとレクシオは、曖昧な笑みを浮かべてそれを聞き流した。
もう一人の少女、ナタリー・エンシアが身を乗り出す。
「『さらなる飛躍を遂げ』るための、最初の活動はなんなの、団長?」
「よくぞ聞いてくれた」
楽しげにもったいぶったジャックは、全員を順繰りにながめると、大仰な手ぶりとともに宣言した。
「新学期最初の活動は、ずばり――『教会裏の人魂』探しだ!」