第三章 もうひとつの神話(1)

 ラフィアには、妹がいるという。
 妹は、名をセルフィラといった。ラフィアと同じく、大きな力を持った女神だった。
 ラフィアとセルフィラは、初め、仲良く世界を見守っていた。しかし、いつの頃からか、方針と価値観の違いから争うことが増えた。
 簡単に言うと、ラフィアは世界へ干渉するべきでないという主義主張だった。対してセルフィラは、世界は神が管理すべきと主張していたのだ。
 幾度かの争いのすえ、とうとうセルフィラは幾柱かの神族を従えてラフィアのもとから去った。
 それから、ラフィアとセルフィラ、それぞれに従う神々どうしが幾度も争った。あるときセルフィラ側が大敗を喫し、いずこかへ姿を消した。
 しばらくして、セルフィラは『世界』に姿を現した。そして、世を乱しはじめた。時に破壊活動をし、時には人をそそのかし、世界に不和と争乱を生んだ。
 不干渉を唱えるラフィアも、こうなっては無視できない。自分が世界に干渉するその代わりに、人の中から心正しい者を二人選び、その者に神の魔力を与えて、混乱を収めてもらおうと考えた。
 これが『女神の選定』のはじまりである。
 やがて、神に選ばれた人々は、彼女が持つ翼になぞらえて、『銀の翼』『金の翼』と呼ばれるようになった。

「つまり、その……。この手紙? を書いた人は、『翼』を選ぶ『選定』のことを言ってたってことですか」
「そうですね」
 神父は静かにうなずいた。ナタリーはしかめっ面で、自分のもとに来た紙を見つめなおしている。
「通常は、『銀の翼』を選ぶ『銀の選定』が最初に行われます。行われる日に周期性はありませんが、ひとつだけ条件があります。満月の夜であることです」
 学生四人は、顔を見合わせた。つまり『銀の月の夜』というのは満月の夜という意味だったのだ――おそらくは。ナタリーとトニーはしんどそうに頭をかいて、レクシオだけが感心したふうにうなずいている。相変わらずな幼馴染から視線を外し、ステラは前を向きなおした。
「つまり……教会の落書きや私たちのところに来た紙には、『銀の選定を妨害してやるぞ』と書かれていたわけですね」
「おそらく、そういうことでしょう。それを書いた方が、なぜこの話をご存じだったのかはわかりませんが……」
 ステラは顔をしかめて考え込む。
 人魂探しの夜、エドワーズが動揺していたわけがようやく理解できた。聖職者しか知らないはずの話――そこを見知らぬ人間につつかれれば、青ざめもするだろう。それはそれとしても、なぜ鎌の青年は『女神の選定』のことを知っていたのか。
「実は元・聖職者だったとか」
 人差し指を立てたナタリーが、得意げに目を輝かせる。それに対して、トニーが「ええ……」と顔をしかめた。
「だとしたら、教会に落書きなんかしないんじゃね?」
「嫌なことがあったとか、同じ聖職者をめちゃくちゃ恨んでた、とかだったらやりそうじゃない?」
「ふうむ、どうだろうねえ」
 話し合ったところで明確な結論が出るわけではない。ナタリーとトニーは、仲良く首をかしげたまま、押し黙ってしまった。
 彼らのことを何気なく見渡したステラは、ふっと唇を広げる。
「もしくは……神族だった、とか?」
 深く考えたわけではない。口をついて出た言葉、だった。しかし、エドワーズ神父の表情がこわばったのを見て、すっと頭の中が冷える。
「そ、それはさすがにないか」
 慌てて笑顔を取り繕ったが、場の空気は奇妙に凍りついたままだった。ステラは、なんとかこの雰囲気を壊せないか、と頭を回転させる。しかし、悩んでいるうちに、ステラよりもよほど頭の回転が速い少年がのんびりと口を開いた。
「ま、犯人の素性は、今は置いておくとして。大きな問題は二つだな。ひとつ、『具体的に何をしてくるか』。ひとつ、『なぜ俺たちのもとに紙が届いたか』」
「一つ目の答えは、わかっています」
 エドワーズが、やわらかくほほ笑む。その笑顔のまま、胸に手を当てた。
「神父を殺すつもりでしょう」
 誰かが息をのんだ。「どういうことですか」と問う代わりに、ステラは神父をじっと見つめる。視線に気づいてもらえたかどうかは、わからない。ただ、神父はあくまで穏やかに続ける。
「『銀の選定』が行われるという夜、神父たちは必ずある儀式を行います。その儀式は、多数の聖職者が同時に行わなくてはならないのです」
 ゆっくりと足を踏み出したエドワーズは、壁画の前からステラたちのもとへと、歩いてくる。靴音が規則的に響いて、消えた。
「儀式が、ラフィア神とこの世界を繋ぐといわれています。『銀の選定』を行う上では、なくてはならない重要なものです。儀式を行う神父が一人でも殺されれば――『選定』それ自体が行われなくなる」
 なるほど、とうなずいたトニーが、帽子を弄びながら彼を見上げた。
「神父さんを殺すことが妨害になるのか。でも、それって別にエドワーズさんじゃなくてもよくないですか?」
「ええ。ですが、今回標的にされたのは私でしょう。壁の文章のことがあります」
「なるほど。あれって、殺害予告みたいなものだったんですね」
「おそらくは」
 トニーの言葉は容赦がなかった。ナタリーがそれを鋭くたしなめたが、神父は「いい例えですよ」とほほ笑む。繊細な見た目の印象とは裏腹の発言に、ナタリーが目を瞬いた。ステラとレクシオは、無言で顔を見合わせる。
「一つ目は解決ってことでいいですかね。で、もう一つは――」
「おそらくはレクシオさんの読み通りでしょう。犯人――先日の方は、あの場に居合わせたあなた方のことを警戒している。その手紙は、警告でしょうね」
「『痛い目に遭いたくなければ余計なことをするな』ってか」
「もしくは『邪魔をするつもりなら相応の覚悟をもって来い』という意味でしょうか」
 学生たちは、きょとんと目を見開いて、笑顔の神父を凝視する。トニーが、にやりと笑った。
「へえ。神父さん、わかってらっしゃるじゃないですか。俺たちが大人しく引き下がる質じゃないって」
「合っていますか?」
「ばっちり、合っているとも」
 トニーがやや不遜な返答をすると、エドワーズは優しげな笑声を立てる。
「それはよかった。――でも、それだけではないんですよ。当日の守りを頼む口実ができたと、私も安心しているんです」
「当日の守り? 護衛ってことですか?」
 ステラは、神父の口から出た思いがけない言葉を拾って、身を乗り出す。彼はあくまでも穏やかに目を細めて、ええ、とうなずいた。
「恥ずかしながら、私一人で妨害に対処することは難しいと思っています。命の危険もあるでしょう。ですから、『銀の選定』が近いと判明した以上、どなたかに守りをお願いしなければと思いました。しかし、『選定』の件は極秘事項なので……軍や警察の力をお借りすることはできません」
「なるほど……それで私たちに、ですか」
「もちろん、護衛も命の危険は大きいです。無理強いをしたくはありませんし、断っていただいても、問題はないです」
 冬の朝のごとく、沈黙が落ちかかる。学生たちは、ほんの一時だけ視線を交わしあった。教会へ行く前のように、明確に意見をぶつけたわけではない。それでも、ステラは確信していた。自分たちの中で、すでに答えは決まっている、と。ほかの三人も、同じだろう。
「私は、構いません。むしろ、喜んでお引き受けします」
 ステラが静かに口を開くと、すぐさまトニーが手を挙げた。
「右に同じー!」
「俺も。断る理由がないですし」
「私ももちろん行きます。最後まで見届けないと、気が済まないし」
 レクシオとナタリーも、迷わず追随した。それぞれの答えを聞いて、四人は一斉に笑声を立てる。エドワーズ神父も、心底ほっとしたように笑っていた。
「あとは、うちの団長にお伺いを立てないとだな」
「確か――ジャックさん、ですね」
「はい。けど、団長も同意見だと思います」
 今回の件は、怪奇現象とはなんの関係もない。しかも、身の危険がともなう。団長はむしろ難色を示すのでは、とステラは踏んでいたが、エドワーズにそう返すトニーは、確信に満ちた笑みを浮かべていた。

 結局、ジャックと合流できたのは陽が落ちかけてからのことであった。今日も明るい団長は、孤児院のそばで四人に出会うと、大げさに驚いた顔をする。ナタリーの家と教会で起きたことを報告すると、彼は神妙に考え込んだ。明るさが奥へ引っ込むと、俳優さながらの面立ちが際立って、見る者を緊張させる。
「隠されたラフィア神話に『銀の選定』……。なるほど、今回の殺人事件の裏側に、そんな事実があったとはね」
 二枚の紙を見つめていたジャックは、視線を上げて、四人を順繰りに見た。
「実は、僕のところ――というより、男子寮にも似たような紙が届いていたんだ。つい二時間前に見つけたばかりだけれどね」
 ステラは息をのんだ。思わずトニーを振り返る。彼は目を丸くしていた。その表情を隠すかのように、帽子をつまんで引き下げている。
「ちょいちょい。団長、それって」
「うん。おそらく、僕とトニーに宛てたものだろう。……これまでの展開から言えば」
 二人はしばらく、名状しがたい色の視線を小さな紙に注いでいた。しかし、ジャックはかぶりを振って、紙をステラとナタリーに返してくれる。ステラがどぎまぎしながら受け取るのをよそに、彼は顔にかかった髪を払った。
「『銀の選定』に護衛として立ち会うという話、僕個人としては賛成だ。その手紙が僕たち五人のもとへ届いたというのには、意味と意図があるだろうからね。それを確かめておきたい、という気持ちがある。それに、君たちにはそれぞれに、気になっていることがあるんじゃないかい?」
 笑ったジャックはそれから、ナタリー、トニー、ステラを見つめ――レクシオの前でしばらく目を留めた。事情を正確に知っているステラは、肩をこわばらせたが、レクシオ本人はいつものようにほほ笑んでいるだけだ。何も、言わなかった。ジャックも、一切追及しなかった。いつもの声色で言葉を続ける。
「ただ、ひとつ問題がある。どうやって学院の寮を出るか、という話だ」
 その言葉に寮生たちは幾度もうなずき、通学生であるステラとナタリーは目を瞬いた。きょとんとしている二人に対し、補足をしたのは、レクシオだ。
「人魂調査のときは『同好会(グループ)活動』のため、っていう名目があったから、あっさり許可が下りたんだよ。大人も一緒にいたことだしな。でも、今回の件は怪奇現象関係ないから、同じ手は使えない。さてどうするか……というわけだ」
「なるほど、寮生はそういう問題があるのね」
「そうそう。ただでさえ、夜間外出に関してはうるさいからなあ」
 まあ、悪いことではないんだろうけど――とレクシオは両手を挙げる。彼は相変わらずの飄々とした笑顔だが、問題は深刻だった。少なくとも、ステラたち学生にとっては。
 どうしたものかと首をひねる寮生たち。それを見つめていたナタリー・エンシアがおずおずと手を挙げたのは、空の上に座していた太陽が少しばかり下へ降りて、黄金色の光の剣を突きつけてきた頃であった。
「あのー。それなら、私にひとつ考えがあるんだけど」
 ステラを含め、四人が一斉に振り返った。八つの目に見つめられた少女は、前髪を耳にかけながら、提案する。
「『宗教活動への参加』っていう理由なら、夜間外出の申請、通るんじゃない? もちろん、『銀の選定』のことは秘密だから――満月集会に参加する、っていうことにすればいいよ」