第三章 もうひとつの神話(2)

 満月集会なる行事が存在することをステラは知らなかった。というより、『調査団』の中でそれを知っていたのは、ナタリーとトニーだけだった。
 ラフェイリアス教の礼拝のひとつ。毎月、満月の夜に教会などで祈りを捧げるのだそうだ。多くの信徒が必ず参加する行事だが、学生や仕事の都合で行けないような人々は、自由参加でいいらしい。
「なんで満月の夜なのかなあ、って不思議だったんだけど。『銀の選定』のことを聞いた今なら、納得だわ」
 ――というのは、ナタリーの言だ。
 本当にそれで申請が通るものなのか。ステラやレクシオは半信半疑だった。しかし、悩んでいられる時間はない。とりあえず、申請を出すだけ出してみようということで、話がまとまった。
 そして、翌日。
「いやあ。こんなにあっさり許可が出るとは思わなかったわ」
 レクシオがふにゃりとした笑顔で差し出した書類を見て、ステラもまったく同じことを思った。
 時は放課後、場所は第二学習室。『クレメンツ怪奇現象調査団』の集まりの最中だ。レクシオのその発言を受けて、椅子を寄せてきた寮生二人も、揃ってうなずいた。
「俺も通ったよー」
「僕も問題なかったよ。これで準備は万端だね」
 トニーが制服には似合わない帽子を弄び、ジャックが優雅に手を振る。その、ジャックの向かいで、ナタリーが顔をしかめた。
黄の月フラーウスの満月って、明日よね? 慌ただしいなあ」
「まあ、そこはしゃーない。腹くくっていこうぜ」
 トニーが猫目を細めて笑う。その言葉は、『調査団』の基本方針のようなものだ。不要な未来の心配はしない。最終的には伊達と酔狂と勢いだけで、目の前のことに挑むのだ。
「では、明日の夜。まずは教会に集合だね」
 ジャックの一声に、全員が「了解」と応じた。

 同好会グループの集まりの後。孤児院に戻る前に、ステラは教会に顔を出した。エドワーズに当日の夜のことを話すと、彼は得心したようにうなずいた。いわく、エドワーズも当日は満月集会に顔を出してから『選定』の祈りへ向かうらしい。ステラたちもそこへ乗じれば問題なさそうだ。
 準備はすべて整った。当日の確認も済んだ。思いがけず知ってしまった神話のことと、突然決まった夜の護衛のことを考えると、背筋がすっと冷えて、気持ちが引き締まる。
 張り詰めた気持ちを抱えて帰宅したステラを出迎えたのは、温かい笑い声だった。
「じゃあじゃあ、レクシオ兄ちゃんもここで料理してたのか?」
「そうよ。そのときから、お料理もお掃除もみんなでしていたからねえ」
 ミントおばさんに年少の子たちがじゃれついているのは、いつもの光景だ。しかし、今日は年長の子たちも多く集まっている。何より話題に出ている人の名前が、ステラの興味をひいた。
「ただいま。レクがどうかしたの?」
「おかえりなさい、ステラ」
 ミントおばさんは、いつものおっとりとした笑顔で応じる。「院長先生」に倣って、子どもたちも、おかえりー、と手を振ってくれた。彼らに手を振り返していると、ミントおばさんが先の疑問に答えてくれる。
「この間、レクシオが来てくれたんでしょう? 会えなくて残念だったわ」
「ああ、そうそう。珍しく自分から『顔出しに行く』って言ってね」
 彼と武道場で話した日のことだ。ずいぶん前のように感じるが、冷静に数えれば、それほど日は経っていない。ステラは妙な気分で、その日のことを思い出した。諸々の出来事を知らないミントおばさんは、いつもどおりの調子だ。
「それでね。まだレクシオにあんまり会ったことのなかった子たちが、興味を持ったみたいだから、当時のことを話してたのよ。ほら、そうでなくても、今の子たちはここにいた頃の彼を知らないでしょう?」
「そりゃあねえ」
 レクシオが孤児院にいたのは、学院に入学する前のことだ。加えて、孤児院にいられるのは原則十五歳まで。ステラは十六歳の今もここを家にしているが、それは院の手伝いをするという条件付きで許された特例である。
「そういえば、あたしも入学前のレクのことは知らないな」
「あら? ステラはよく会ってたじゃない」
「へ?」
 ステラは目を丸くした。初耳だし、そんな記憶もない。彼女が戸惑っている横で、話題に食いついた子どもたちがざわついた。
「そうだったの? そんな話聞いたことないよ?」
「ステラとレク兄って、まじの幼馴染だったのか」
「ちーさいステラって、どんなだったのー? おこるとこわかった?」
「――ちょ、ちょっと待って! 本当に覚えてないんだけど!?」
 慌てふためく少女を見て、ミントおばさんがおもしろげに笑っている。内心で歯ぎしりをしつつ、ステラは彼女を見上げた。
「まだあなたがここに来たばかりの頃にねえ。よくレクシオが、食事や飲み物を運びにいってくれていたのよ。ほかの子たちは貴族の女の子に委縮して近寄らなかったけど、レクシオは気にしてない感じでねえ」
 それを聞いて、ステラはもやもやすると同時に納得もした。自分が孤児院に行きついた当時の記憶は、もとより曖昧なのだ。レクシオのことをあまり覚えていなくてもしかたがない。あの頃は、本当に――自分の内側を見るのに精いっぱいで、外側を見ていなかった。しかし、なんとなく自分のもとに牛乳や食べ物を持ってきてくれた子がいた気がする。あれがレクシオだったのだろうか。
「だとしたら……なんで何も話さないんだろう?」
「まあ、レクシオはそういうことを誇示しない子だしねえ」
 顔をしかめるステラとは対照的に、ミントおばさんはどこまでも穏やかだった。子どもたちは首をかしげていたが、雰囲気から楽しい話題だと思ったのだろう。みんな、にこにこしていた。そんな彼らを見渡して、ミントおばさんは手を叩く。「はいはい、そろそろ晩ご飯作りましょう~!」と彼女が声を上げると、子どもたちは、わっ、と散っていった。厨房に駆け込む彼らを見送りながら、ステラはふと口を開く。唇の隙間からこぼれ出たのは、ずっと気になっていたことだった。
「ねえ、ミントおばさん」
「なあに?」
「おばさんは、レクのお父さんについて、何か知ってる?」
 ミントおばさんは、少し首をかしげる。
「いいえ。私もほとんど知らないわ。あの子、家族のことは全然話さないから」
 その表情に、嘘偽りは感じられない。ステラは軽く肩をすくめて、「そっか、ありがとう」と返して自分も厨房に入った。

 青年は上衣の裾をさばいて、空をにらみつけた。紫紺の布をめいっぱい広げたような空には、ふくらんだ月が浮かんでいる。その光はいつにも増して強く、周囲を彩る星の輝きすらも打ち消してしまうほどであった。
 奇妙にも、銀色に輝く月。それを見ていると、青年の中には黒々とした苛立ちが募る。一発、鋭く舌打ちをしたところで、彼は近づく者の気配に気づいた。
「戻っていたのか、ギーメル」
「……やれやれ。うるさいおっさんに見つかったな」
 青年は被きの下の三白眼を細めて、振り返った。彼の後ろに立っていたのは、壮年の男だ。ごつごつとした面立ちに似合わぬ、白銀の髪を短く切りそろえていて、平時でも灰色の礼服を身にまとっている。いかにも堅物、というこの男に、彼は案外と好感を抱いていた。
「どうだった? 反応」
「怒っている様子はなかった。むしろ、おまえの仕事に干渉した人間たちに、興味を抱いていたようだったが」
「ほー、そうか。つまんねえの」
 ギーメルは吐き捨てるように呟くと、その場に腰を下ろす。傾斜のついた屋根の上なのだが、彼の動作に危なげはなかった。隣で見ていた男も、動じないどころかため息をついている。
「ギーメルさあ。自分で報告しに行けばよかったのに」
 突然、甘ったるい声が夜気を切り裂いた。ギーメルは、眉を寄せて男をにらみつける。――正確には、男の陰から顔を出した少女のことを。
「ラメドになんでも押し付けないでよね。神父を殺せなかったのはギーメルでしょ?」
「うるせえぞ、ガキ」
「あー、怒ってる。ずぼしってやつ?」
 少女は、ギーメルを指さしてけたけたと笑った。彼は、全身をどろどろしたものが満たしていくのを感じる。この子どもの笑声は嫌いだった。耳障りだ。聞いているだけで腹が立つ。ギーメルは立ち上がりかけたが、その寸前で男――ラメドが口を開いた。
「やめなさい。年長者に対して、その態度はあまりにも失礼だ」
 礼服の男は、ずっしりと重い声で少女を諭している。少女は、両耳の上で束ねた朱色の髪を揺らしてそっぽを向いた。しかし、少しして「ごめんなさい」と答える。声色はふてくされたときのそれだったが、ラメドに対してだけ素直なのは、相変わらずのようだった。
「それと、私はこいつに押し付けられて報告に行ったわけではないよ。私も別の場所で同じ仕事をしていたから、ついでにまとめて伝えにいっただけだ。――さあ、もう帰っていなさい」
「はあい」
 ラメドに優しく肩を叩かれると、少女は身をひるがえして、夜陰の中へと姿を消す。少しして、その気配が消失したのを確認すると、ギーメルはうんざりとため息をついた。
「相変わらず腹の立つガキだ。おまえ、よくあんなのの面倒を見ていられるな」
「……彼女を『こちら』に連れてきたのは私だからな。責任は取らねばなるまい。それに、アインは素直で良い子だ」
「ああ、はいはい。そうですか」
 義理堅いだけかと思えば、そういうわけでもないらしい。だが、ギーメルは「親バカの娘語り」には一切興味がなかった。ラメドから視線を逸らし、街をぼんやりとながめる。そのとき、ふとあることを思い出して、ラメドに呼びかけた。
「なあ。『選定』の日にヴィントは来ると思うか」
「可能性はある。あの男はどこからか、我らの動向をうかがっているようだからな。突然、どうした」
帝都ここの教会に行ったとき、奴によく似たガキに出くわした」
 ラメドが、目をみはる。その顔を、ギーメルは思わずながめてしまった。彼が表情を動かすことはめったにない。見られるときに楽しんでおかなければ損というものだ。
「子がいたのか」
「意外だよな」
 それはそれとして、ギーメルはうなずいた。ラメドの声にこもった驚き、その意味は理解できるからである。その後、何やら神妙に考えはじめた男を見上げ、青年は口の端をゆがめた。
「……目の前で息子をいたぶってやったら、どんな反応するだろうねえ。あの鉄仮面」
 ラメドは、すぐには何も返さなかった。青年を見下ろす目もいつもどおりだ。この場に先の少女がいたならば「わあ、悪趣味!」などと騒ぎ立てたところだろうが。
 静寂の中。遠くで梟が鳴いた。ラメドは、その音にかぶせるように、呟く。
「本来の目的を忘れるなよ、ギーメル。我々はあくまでも――」
「わかってるさ。やるとしてもついでだ。ついで」
 ひらりと手を振って、彼はまた街並みに視線を戻した。夜景を映す瞳に、不機嫌の色はもうない。あるのは、好奇心に満ちた子どものような、無邪気な光だけである。
「『銀の選定』か。何が起きるか楽しみだねえ。――俺たちを退屈させるなよ、ラフィア様」