序章 針の音

 時計の秒針の音だけが、部屋に響き渡っている。その音を聞きながら、ジャック・レフェーブルは窓辺にもたれていた。
 殺風景な第二学習室。ジャックがここを同好会グループの拠点として確保できたのは、近頃この部屋が誰にも使われていなかったからだ。
 そういう部分は、運がよい。だが、その運のよさは別のところで発揮したかった。
 胸中で嘆息しつつ、ジャックは長年の友人を待つ。
 秒針の音が、いやに大きい。そう思うときは気が急いているのだと、ジャックは自分で知っていた。
 針の音しかない世界。それを壊したのは、少しずつ近づいてくる足音だった。耳になじんだそれを聞きつけ、ジャックは静かに上体を起こす。
 学習室の扉が開いた。
「お待たせ、ジャック」
 少年が顔を出す。短い茶髪に、猫みたいな目の小柄な少年。彼は今日も、変わらぬ笑顔をジャックに向ける。だが、その笑顔がいつもよりほんの少しぎこちないことに、ジャックは気づいてしまった。
「やあ、トニー」
 彼もいつものように声をかける。そして、続けた。
「どうだった?」
 トニーは、無言で首を振る。それはジャックにとって、何よりも明快な答えだった。「そうか」と息を吐いた彼は、けれども肩を落とさない。
「君から話してもらえればもしかしたら……と思ったんだけれど。だめだったか」
「取り付く島もなかったぜ。どうしたんだろうね、オスカーの奴。『おまえが同好会グループをやるなら、俺はそこに入る』って、前はあんなに張り切ってたのに」
 首をかしげるトニーは、心底不思議そうだ。親友に、ジャックは曖昧な笑みを向ける。いつも溌溂としている彼には、珍しいことだった。
 オスカー――もう一人の親友が豹変した理由には、一応心当たりがあるのだ。それをトニーに告げないのは、自分の中で確信を持てていないから。他人の内面という繊細な問題に関して、憶測でものを言うことをジャックはしたくなかった。
 ただ、彼の「憶測」が真実であった場合、責任の一端はジャックにある。いずれはオスカーと真正面からぶつかることになるかもしれない。
 今はまだ、その時ではないだろう。オスカーの方が、ぶつかることを拒んでいるのだから。であれば、まずはジャックにできることからするしかない。
 感傷を退けて、ジャックは両手を叩いた。乾いた音が、第二学習室にこだまする。
「まあ、断られたものはしかたがない。オスカーをうちに入れるのはあきらめよう」
「そうだな。でも、どうするか。ほかに入ってくれる人がいるといいけど」
 トニーが帽子を手もとで弄びながら、笑う。その笑みは少し引きつっていた。ジャックの趣味が高じすぎた結果、生まれた同好会グループである。その活動に時間を割いてくれる酔狂な人間がいるのかどうか。トニーの方は自信が持てずにいるのだった。一方、ジャックの方はそのあたりを心配してはいなかった。彼はかつて、オスカーという趣味仲間を見つけたのだ。怪奇現象の調査に興味を持ってくれる人はほかにもきっといるだろう、と信じて疑っていない。
「さて。明日からは本腰を入れて団員探しだ。頼むよ、トニー」
「頼まれるのはいっこうに構わないけど。どうやって探すか。ほかのところみたいに、ビラでも配る?」
 猫目を見開いた少年に対し、ジャックは神妙な表情で答える。
「それも考えたが、とりあえずは直接声をかけて回ってみるよ」
「ああ……。ジャックの場合は、その方がいいかもな。そのノリだし」
 トニーの発言と苦笑の意味に気づかないほど、ジャックは鈍感ではない。しかし、だからと言って急に静かになるほど他者を気にしてもいなかった。こう振る舞っているのが一番自分にとって自然なので、そうしているだけなのだ。トニーも理解はしてくれているようで、それ以上はからかったりしてこない。それが二人の、いつもどおりの接し方であり、距離感である。
「ぜひとも、頼もしい仲間を見つけたいものだ。二人だけでは『クレメンツ怪奇現象調査団』は成り立たないからね!」
「……その名前、もっとどうにかならないかねえ」
 無二の親友でも、解せない部分はある。そう言わんばかりのトニーのささやきは、しかしジャックの耳には届いていなかった。彼は腕を組み、輝く瞳で時計を見上げる。
 秒針は、変わらず時を刻んでいた。時間は戻らない。前にしか進まない。ならば自分たちも、ひとまずは前に進めばいい。
 心に決めたこの日から、二か月後。二人は得難い資質を持つ同級生と出会うこととなる。ただし――彼らは最初、怪奇現象にはまったく興味がなかったのだが。