第一章 争いの種(1)

 帝都の一角に、貴族の館を彷彿とさせる建物が建っている。その実態は孤児院だ。もう二十年以上同じ場所に存在する孤児院は、行き場を失った子どもたちのよりどころであり、都のひそやかな名物でもある。院長を務める女性は、福祉活動に長年携わっていてかなり名も知れている――らしいのだが、本人は関わった子どもたちなどに自分の昔話をあまりしない。そのため、今日ここを訪れている学生たちも、詳しいことは知らなかった。
「あっ、おいこら! 他人ひとのものを取るんじゃない!」
「うわあい、逃げろー!」
 幼い少年の一声と、それに続く笑い声を聞き、ジャック・レフェーブルは顔を上げた。見れば、三人ほどの少年が彼の親友から逃げている。逃げているとは言っても、彼らは全員からかうような笑顔を背後に向けていた。よく見ると、一番後ろの少年が、友人の帽子を持っている。
 おやおや、とジャックは肩をすくめた。彼のそばにいた少女が、少年たちの行動に気づいて眉を怒らせる。
「こらあ、あんたたち! 何してるの!」
 少女は叫び、すまし顔で少年たちのもとへ駆けていく。それを見ていた今一人の――ふわふわの金髪と、青い瞳をもった少年が、大人ぶってかぶりを振った。
「あー、おい。リーエン。おまえがいっても、そいつらおもしろがるだけだって……って、聞いちゃいない」
 金髪の少年は、リーエン嬢の制止をあきらめると、ジャックを見上げた。
「悪いね、ジャック兄ちゃん。チビたちが騒がしくて」
「いやいや、気にしないでくれ。一緒に遊ぶと言ったのは僕たちなのだから。それに、トニーもああして遊ばれるのには慣れていると言っていた」
「それはそれで、どうなんだろう」
「ファレスくんは、混ざらないのかい?」
 ジャックが目線を合わせて問うと、ファレス少年は恥ずかしそうに目を逸らす。
「おれは、ああいう遊びは得意じゃない。本を読んでる方がいいよ」
「そうか。読書は僕も好きだよ」
「本当?」
 青い瞳が無邪気に輝く。ジャックは自信を顔じゅうに湛えてうなずいた。それを見たファレスは嬉しそうに笑ったが、二階へ続く階段の方を振り返ると、唇を尖らせる。
「あーあ。おれも上で勉強したいなあ。ステラ姉、いいなあ」
「どうだろう。ステラ本人は、今頃灰になっているかもしれない」
 ジャックが真面目な顔で言うと、ファレスはうさんくさそうに目を細めた。
「……灰?」
「もののたとえ、というやつだ。ステラは座学があまり得意ではないから、苦しんでいるかもしれない、ということさ」
「ああ、それは確かに」
 彼らより五、六歳年下の少年は、大げさにうなずいた。

 ジャックの予想は、おおむね的中していた。
「――それで、『魔力』が魔導術となるには、構成式と魔力の結合が必要なのよ。この結合の仕方にはいくつか種類があって、それぞれ提唱者の名を取って三種類に分類されているの」
 友人の真面目な声が、ステラ・イルフォードの自室に響く。しかし、ステラはほとんど聞いていなかった。いや、正確には、聞ける状態ではなくなっていた。顔はしっかりと友人の方に向いたまま、しかし目からは活力と光が失われかけている。
 彼女の表情に気づき、友人、つまりナタリー・エンシアも言葉を止めた。ステラの顔の前でひらひらと手を振る。
「ちょっと、ステラ、頭に入ってる?」
「…………まったく」
「だろうと思った」
 ほとんど燃え尽きているステラを見て、ナタリーはため息をついた。それを見て、ステラはしょんぼりとうなだれる。
 彼女は善意で、ステラに魔導術の講義をすると言ってくれたのだ。それなのに、受講者の自分がこの体たらくでは話にならない。それでもわからないものはわからないのだから、仕様がなかった。
 ステラの落ち込みように思うところがあったのか、ナタリーは栗色の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「まあ、私も準備不足だったわ。あんたが座学で赤点すれすれ常習犯だということをすっかり忘れてた」
「ねえ、それ、傷えぐってるよね」
「そんなことないわよ。むしろ赤点取らないように保ってるのは、すごいと思う」
「やっぱり傷えぐってるじゃん! それどころか増やしてくるじゃん!」
 ステラはとうとう半泣きになって、ナタリーの胸を拳で叩く。彼女の膂力を思えばそれはかなり力を抑えている方だが、ナタリー本人は「痛い痛い! ごめんって!」と叫んで飛びのいた。その反応にステラはさらに自己嫌悪が高まって、うなだれる。見事な悪循環だった。
「あたしが綱渡りできてるのは、ほとんどレクのおかげだし……」
 ステラは、落ち込むを通り越してふてくされはじめる。ナタリーは呆れたようにかぶりを振ると、視線を部屋の隅に投げかけた。
「そういえば、そのレクさんはさっきから何読んでるの?」
「はい?」
 その問いに、黒髪の少年が顔を上げる。ステラの幼馴染、レクシオ・エルデ。勝手知ったる他人の部屋に入り浸っている彼は、先ほどから分厚い紙の束をめくっている。少女たちの視線に気づくと、紙束を軽く掲げた。
「これか? 論文の複写。学院図書館でもらった」
「へえ、わざわざ複写作ってもらったんだ。勉強熱心」
 腕を組んで笑ったナタリーは「なんの論文?」と続けて問う。レクシオは、あっけらかんとして答えた。
「『魔元素マグノ・エレメルの性質と既成の魔導学に及ぼす影響について』」
 何やら難しそうな言葉が出てきた。ステラは、嫌いな食べ物を目の前に出されたときのように顔をしかめる。反対に、ナタリーは軽く目をみはった。
「それ、発表されたばっかりの論文じゃない! もう図書館に入ってたんだ」
「これが意外とおもしろいんだ」
「っていうか、レクって魔導学に興味あったんだね」
 ふうん、と言わんばかりに腕を組んだナタリー。彼女はすぐ何事かに思い当たったらしく、つぶらな瞳を見開いてレクシオに詰め寄った。
「魔導学がわかるなら! あんたがステラに教えてやればいいじゃない! ステラのことはあんたが一番知ってるでしょうに」
「ええ? ここは一応現役で学んでる奴に任せた方がいいかと思ったんだけどな。それに、俺だってステラがどこまで理解してるかは知らなかったんだよ」
 レクシオは、ナタリーから逃げるようにのけぞって、論文の複写を持ち上げる。あからさまに面倒くさそうな少年は、しかしその姿勢のままステラを見た。
「一応、基礎のところは理解できるのよ……魔導術は魔力と構成式を組み合わせて作り出すもの、って。でも、そのあとの構成式展開の話がわけわかんなくて……」
「なるほどねえ」
 ナタリーが頭を引く。レクシオは姿勢を戻し、論文を閉じた。顎に指をひっかける。
「構成式ってのは、要は命令だよ。光を灯せ、とか水を凍らせろ、とか」
「うん」
 ステラは表情を引き締めてうなずいた。そこまでは、自分なりの解釈でなんとか辿り着いたのである。レクシオは表情から彼女の胸中をなんとなく読み取ったらしい。顎にかけた親指を、撫ぜるように動かした。
「なるほど、問題はその後か」
 緑の瞳が鋭く光る。
 階下から子どもたちの笑い声が響いた。ジャックたちは、彼らと上手くやっているのだろうか。思うステラの前で、ナタリーが首をひねる。
「その後って」
「効果と属性の設定とか、魔力出量の決定とか……あるだろ?」
「構成式展開の基礎?」
 ナタリーがひっくり返りそうな声を上げる。それも当然のことだろう。今、二人が口にしたのは、魔導士にとっては知っていて当たり前のことなのだ。ただ、ステラにとってはまさしくそこが鬼門だった。そもそも難解な言葉が出てきた時点でつまずいてしまうのである。
「魔導士にとっちゃ常識だろうけど、ステラは魔導士じゃないからな」
 レクシオの言葉は、調子こそ軽かったが内容はなかなかに鋭い。ナタリーが、喉に物がつっかえたみたいに顔をしかめる。それをよそに、ステラの幼馴染はしばらく考え込み、考えがまとまると手を叩いた。
「ステラ。おまえ、自分が騎士団なり軍なりにいることを想像してみろ」
「え? う、うん」
 突然のことに目を白黒させながらも、ステラは言われたことに従った。レクシオの言う想像は、彼女にとっては幼少期からの習慣である。さほど難しくはなかった。
「何か、作戦行動を行うとする。作戦立案から実行までの、大まかな流れは?」
「ええと……最高司令官、あるいは指導者が基本方針を決定。それを受けて、参謀本部や合同作戦会議などで、目的達成のための作戦、日程、派遣する兵士の数などの細かいことを決める。そして現場では指揮官が兵士たちに状況に合わせた行動を指示する」
 半分考えながら、半分は無意識で呟く。最後まで思考を走らせたところで、ステラは「あっ」と目を見開いた。顔を上げると、レクシオの得意げな笑顔が目に入る。
「構成式の展開も、基本の流れは同じだ。まずは大枠を決めて、そこからどのくらいの魔力を使うか、何に働きかけるかを設定する。最後に細かい動きや追加の効果などを指定。軍隊と違うのは、全部を魔導士一人でやらなきゃならんってことだな」
「な、なるほど」
 部屋の隅に座っていたレクシオが、膝を引きずってステラのそばまで来る。彼は、紙束の端でステラの頭をぺしりと叩いた。
「おまえは魔導学の試験を受けるわけじゃねえんだ。難しい言葉は覚えなくてもいい。それより、流れを理解すること。魔力が魔導術になるまでの過程を、自分が一番しっくりくる解釈で頭に入れれりゃ合格だ。さっきみたいにな」
 穏やかに語りかけてくる姿は、いつも彼女に勉強を教えてくれる少年のそれであった。ステラはいつものとおり、すなおにうなずいた。
 なごやかな空気を醸し出す二人の横で、少女が短い黒髪をかく。
「私も勉強になるね。人に教えることの勉強に」
 彼女の独白は、階下でとどろく足音にかき消された。

 ステラの「勉強」が一段落したところで、一同は学院へ行くことになった。五人のうち、寮生であるジャック、トニー、レクシオを見送るためである。
 その道すがら、彼らは今日あった出来事を報告しあう。子どもたちがトニーの帽子をかすめ取ったというあたりで、ステラは思わずトニーの頭をなでた。本人には微妙な顔をされた。
 一方、ステラの勉強のことを意気揚々と報告したのは、ナタリーだ。彼女がレクシオと論文のことを語ると、魔導科生が興味深そうに身を乗り出す。
「へえ、魔元素マグノ・エレメル理論の論文かあ。なんだっけ、魔力をさらに細かく分解するんだっけ」
「そうそう。分解したその粒子を魔元素マグノ・エレメルと名付けて、術の原理やなんかを考えるんだと」
「ふむふむ。なんだろ、魔力の流れの話が考えやすくなんのかね」
 難しい言葉がぽんぽんと飛び交う。その下で、ステラは「あーあー聞こえないー」と耳をふさぐ。ナタリーとジャックは苦笑した。
「なんか、レクが魔導術の話をしてるのって新鮮だねえ」
「あたしも、魔導学の話をこんなに詳しく聴くのは初めてかも」
 そういえば、『調査団』の面々とそういう話をしたことがなかった。ステラはふと思い立って、まだ楽しそうに話しているレクシオたちの方を見る。
 二頭立ての馬車が車道を通り過ぎ、車輪の音がやかましく前へ流れていく。どこか遠くから、新聞を勧める男の子の声がした。
「普段、同好会グループ活動以外でほかの学科の生徒と関わらないもんね」
 ステラが呟くと、ナタリーも「言われてみればそうかも」と首をかしげる。彼女たちの隣を歩いていたジャックが、肩の下まである髪をなびかせて二人を振り返った。
「そういえば、そうだね。僕も、オスカーと会わなくなってからはほかの学科の人と関わらなくなった気がする」
「……オスカー?」
 ステラとナタリーの声が揃った。声だけでなく、首をかしげる動作まで被る。耳になじみのない名前だ。「誰、それ」とナタリーが容赦なく問うと、ジャックはあわくほほ笑んだ。
「僕の古い友人だ。『武術科』の体術専攻に所属しているよ。色々あって、今は疎遠になってしまったけれどね」
「へえ、団長でもそんなことがあるんだ」
 ナタリーが頬をかく。その隣で、ステラも頭を傾けた。陽気で社交的な団長の意外な一面を見せられて、二人は少なからず驚いたのだった。誰かと喧嘩になるとか、関係が上手くいかなくなるとか、そういうことには縁がなさそうに見えたので。
 だが、二人とも、あくまでジャックの過去話として聞いていたのは確かだ。ステラなどは、明日ちょっと調べてみようかなあ、などとぼんやり考えた程度である。
 まさか、その名を持つ人物と次の日に出会うことになるとは、想像もしていなかった。