思えば、ジャックは不思議な人だった。上流階級の家庭の子であるにも関わらず、良くも悪くもそれを気にせず、彼に声をかけてきたのである。しかも、最初に持ちだしたのが廃屋に住む幽霊の話題だった。
幸い、彼はその手の話題が大好きだ。雑誌の心霊特集はかたっぱしから確認するし、いわくつきの場所にこっそり行ったこともある。ジャックとも、何度もそういう調査に出かけた。ジャックは魔導士だったので、心霊現象に見せかけた魔力関係の現象だった、というような案件を見抜いたことがある。
冒険と怪異にあふれた日々は、彼にとってかけがえのない宝物だった。
だが、その宝物はもう戻らない。
罅を入れ、壊してしまったのは――彼自身だ。
※
幽霊森調査の当日。ステラは、まだ日も昇りきらぬ頃に孤児院を出た。今から帝都の東門前に集合して、森に到着するのはおそらく昼前だ。そんなに長いこと調査はできない――とジャックが言っていた。どのみち、あまり踏み込んだ調査はしない予定なので、問題はない。
早朝の帝都は、まだひと気もほとんどなく、静まり返っている。澄んだ空気の下をステラは軽やかに駆け抜けた。狭くなったり広くなったりを繰り返す通りを幾度も曲がる。止まったままの小さな馬車の前を通り過ぎ、『閉店中』と書かれたおとぎ話みたいな看板を横目に見た。
そうして東門まで辿り着くと、すでにジャックとレクシオがいた。
「おはよう、ステラ! 今日もいい天気になりそうだな!」
ジャックは朝の空によくとおる声を飛ばしてくる。それに対してステラは軽く肩をすくめて、手を振った。ジャックは嬉しそうに笑い、レクシオがすまし顔で手を振り返してくる。歩調を少しずつ緩めたステラは、なんとなくレクシオの隣で足を止めた。
「ごめん、ごめん。遅くなった」
ステラの背中に、少年の声がぶつかって跳ね返る。振り返ると、ちょうどトニーとナタリーがやってきたところだった。二人とも朝から汗をかいているのは、走ってきたからだろうか。恐縮したように帽子のつばを下げたトニーに、ステラは軽く笑いかける。
「大丈夫よ。あたしも今来たところ」
「そっか。なら良かった……のかな?」
にやり、と笑ったトニーが、視線をジャックに向ける。団長は相棒の視線を受けて、陽気に瞳を輝かせた。
「今から出発すれば、調査の時間は十分にとれるよ。それでは、行くとしようか!」
団長の号令に四人ともが明るく応じて、天高く拳を突き上げた。
帝都の周辺は、五人にとっては庭も同然である。『クレメンツ怪奇現象調査団』の活動は、帝都の中だけにとどまらない。街の外側に出かけることは、彼らの感覚では初等部の遠足と大して変わらなかった。
であれば、なぜ近場の幽霊森に今まで出かけなかったのか。これにも一応、理由がある。
「あの森は怪談の舞台であると同時に、歴史的に重要な土地でもあるからね。戦没者の慰霊碑が建ててあることもあって、気軽には足を踏み入れられないんだ」
歩きながら解説するジャックの声は、いつもと変わらない。その言葉の続きをトニーが引き取った。
「前々から活動の候補地ではあったけど、これまでは学院から活動許可が下りなかったんだよな」
「……じゃあ、なんで今回はお許しが出たの?」
トニーの斜め後ろを歩いているナタリーが、わずかに眉をひそめた。
「さあなあ。学院側も、ここ最近の幽霊の目撃情報が気になってんじゃない?」
「先生たちがそんなこと気にするかなあ」
「まあ、普通は気にしないだろうな。正直、先生たちの考えていることは俺にもわかんないね」
ナタリーとトニーの軽やかな会話を聞きながら、ステラはなんとなく空を仰ぐ。彼女は最後尾だ。いざというときにもっともすばやく動けるのがステラだから、という理由で今の隊列になっている。今のところ、怪しい気配はない。ただ、奇妙に落ち着かない感じはした。
ステラも長いこと『調査団』に所属している。今回のような調査には何度も出かけているから、過度に心配するようなことはないはずだ。なのに、どうして胸がざわつくのか。ステラ自身にもよくわからなかった。何か、予感があるのかもしれない。
ややして、丈の長い草や細木が増えてきた。時折足をとられそうになりながら踏み越えていくと、そのうち森の影が見えてくる。もう太陽が昇りきってあたりはすっかり明るいのに、森は妙に黒っぽく見えた。
「お、あれかあ」
トニーが目陰をさして呟く。その声はどことなく愉快そうであり、それがステラには不思議だった。魔導士であるはずの彼が、この森の暗さに気づいていないのだろうか。
不安に駆られたステラは、思わず前を歩く少年に目をやる。しかし、彼に話しかける前に、別のことに気がついた。足を止める。前の四人もほぼ同時に気づいたらしく、立ち止まってそれぞれに声を上げた。
「あっ」
ステラと、ナタリーと、それから知らない誰かの声が重なる。
幽霊森には先客がいた。
四人の少年少女。いずれも、ステラたちと同じ年ごろだ。そして、そのうち二人は顔を知っている。ジャックの友達だったというオスカーと、ナタリーと喧嘩していたシンシアだ。二人も『調査団』に気づいて、思いっきり眉をひそめている。
「やあ。やっぱり、オスカーたちも来ていたんだね」
ジャックが率先して声をかける。動揺の気配はみじんも見えなかった。――少なくとも、表面上は。
「……ああ」
たっぷり沈黙した後、オスカーが口を開く。低く、ともすれば風の音にかき消されそうな声だった。対して、シンシアは気まずそうに目を逸らしただけだ。
ちょうどオスカーの後ろにいた少女が、首をかしげる。体格のいい少年の陰に隠れて見えなくなりそうなほど、小柄な子だ。くせの強い赤毛と丸っこい顔、大きな瞳が子供用人形のような印象を与える。
彼女はしばらくオスカーとこちらを見比べていたが、しびれを切らしたようにオスカーを見上げた。
「ねえ、ぶちょー。この人たちと知り合い?」
「前に話しただろう。ジャックだ。ほかの四人のことは俺もよく知らない」
「ああ!『調査団』かー!」
オスカーの答えを受けて、少女は楽しげに手を叩く。そうかと思えば、いきなりジャックの前まで走ってきて立ち止まった。
「初めまして団長さん、私はブライスです!『ミステール研究部』の部員やってるよー!」
「初めまして。ジャック・レフェーブルだ。丁寧なご挨拶、ありがとう」
「よろしく! 団長さんこそ丁寧だねえ」
ブライスは軽く数度飛び跳ねた後、オスカーたちのもとに駆け戻る。
ステラは、その様子を呆気にとられてながめていた。なんというか、凄まじい勢いの子だ。オスカーの暗さと彼女の明るさとの差で、立ち眩みがしそうである。
見回してみれば、驚いていたのはステラだけではなかったらしい。ナタリーとトニーも、レクシオすらも、ぽかんと口を開けていた。それだけでなく、むこう側のシンシアと少年も、目を丸くしている。
ブライスと名乗ったその少女は、またオスカーを見上げ、それからこちらを振り返った。
「ん? ってことは、この状況はまたネタかぶりかな?」
「どうやら、そのようだね。どうしたものかな」
答えたのは、ジャックだった。オスカーは渋面で黙りこんでいる。顔じゅうをしわくちゃにしている少年に代わり、シンシアがふわふわの茶髪を強く揺らした。
「また妨害をなさるおつもりですか? 前回はオスカーがよいと言いましたから引き下がりましたけれど、同じことを繰り返すならばこちらも相応の手段をとらせていただきますよ」
「あなたねえ。またそういう態度を――」
ナタリーが肩を怒らせる。それを見たステラは、とっさに前へ出て彼女の左腕をつかんだ。その反対側では、赤毛の少女がシンシアの背中を叩いている。
「ナタリー、どうどう」
「シア。すぐ人にそういうこと言うの、やめなって。部長が絡むとほんとにまわりが見えなくなるんだから」
それぞれの友人に止められた少女たちは、それぞれの表情で黙りこむ。再び、場に気まずい沈黙が満ちた。だが、赤毛の少女が口を開いたので、その空間は大して持続せずに消えた。
「ね、ぶちょー。別にいいよね」
彼女は大きな瞳をくりくりさせていたが、少年が返したのは沈黙だった。さすがに妙な空気を察したのか、少女は眉を寄せる。
「あれ? なんで変な顔してんのさ。人魂のときは、『放っておけ』って言ってたのに」
「あれは、すでに終わったことだからだ」
「ええ? じゃあ、今回はだめってこと?」
少年は、押し黙ったままうなずく。少女は赤毛を揺らしながら「困ったなあ」などと呟いた。が、その直後、大きな瞳を輝かせる。
ステラは、ナタリーの腕から手を放して、半歩下がった。嫌な予感がする。
「じゃあさ、勝負すればいいんじゃない?」
陰気な森のすぐ前に、底抜けに明るい声が響く。少女は、悪戯を思いついた子どもみたいに、両目をきらめかせて口を持ち上げていた。
「勝負?」
少女の提案を、残る全員が反芻する。名も知らない少年も、そこで初めて声を上げた。すぐに赤毛の少女が前へ出る。
「『調査団』のみんなも、幽霊の情報が急に増えた原因を調べにきたんでしょ? だったら、みんなで調べて、より早く原因を突き止めた同好会が勝ちってことにするの。んで、勝った方が報告書を提出する。ね、これならシアも文句ないでしょ?」
シンシアは、目を泳がせながら「ええ、まあ」などと曖昧な返事をする。榛色の瞳がより明るくなって、『調査団』の五人の方を見据えた。ステラたち四人は何と言うべきか迷って、視線を交わしあう。
ただ一人、ジャックだけが顔を輝かせた。
「面白そうじゃないか! 勝負ならお互い恨みっこなしだし、いい考えだ」
突然、熱心に賛同しだした団長に、団員たちは驚きのまなざしを注ぐ。ブライスが手を叩いて飛び上がった。
「でしょ? 団長さん、わかってるじゃん!」
「ブライスくんこそ、いいことを言うじゃないか。そういう提案は大好きだよ」
ステラは、苦笑して肩をすくめた。勝手に意気投合しだした二人を見ているうち、『調査団』側の驚きは徐々に呆れへと変わっていく。まずは、トニーがあきらめたように笑ってかぶりを振り、それがレクシオに伝染した。ステラも釣られて、最後にはナタリーまで「やれやれ」と呟いて腕を組んだ。
すっかり勝負する気になった六人を見て、『ミステール研究部』の方の三人は、唖然としていたようである。しかし、やがてオスカーがため息をついた。
「……好きにしろ」
全容の見えない『研究部』の方向性は、部長の沈んだ一言によって決せられる。
こうして、二つの同好会による勝負が始まった。舞台は――先祖の時代に激戦地となった、幽霊森。