第二章 闇の色(3)

 レクシオの魔導術を初めて見たのがいつだったか、はっきりと覚えているわけではない。だが、少なくとも初等部の頃だった。
 命の危険にさらされているとき、とっさに使った、という感じで、ステラよりもレクシオ本人が愕然としていた。そのときの青ざめた顔と、のちに震える声で言われたことだけは、はっきりと記憶に残っている。
『お願いだから、生徒の誰にも言わないで』
 ステラは当時、言葉の裏側を深く考えずに「いいよ」と言って、秘密を守ることを約束した。理由を教えてもらえなかったことには納得がいかなかったが、おびえたように頼まれたものだから、約束しなければいけないような気になったのだ。
 それ以降、学院の生徒にはレクシオの魔導術のことを話していない。レクシオも「理論には興味があるけど、術は全然使えない」という体で数年を乗り切ってきた。ステラの前でも進んで術を使うことはない。なのに、今になって態度を変えてきた。
 秘密が秘密でなくなるときが、近づいているのだろうか。ステラは幼馴染をじっと見つめ返して、そんなことを考えた。
「魔導術……使うの?」
「必要になればな。そんな状況にならないのが、一番いいんだけど」
 レクシオはそう言い置いて、歩き出す。ステラもすぐ後に続いた。
 道はもう、人の片足ほどの幅しかない。けもの道すら存在しないようなところを、二人はひたすらに踏み越えていく。落ち葉と小枝と草花が、一歩進むたびに乾いた音を立てた。
 ステラは一瞬大きくよろめき、すぐに体勢を立て直す。太めの枝を踏んづけたらしい。ばきっ、と強烈な音がした。少し休んで、すぐにステラは目を瞬く。
 急に、気配が強くなった。
 首筋から脳天にかけてを、うっすらとした寒気が駆け抜ける。ステラはとっさに首まわりを押さえたが、やはり何もなかった。
「ステラ?」
 様子がおかしいことに気づいたのだろう。レクシオが立ち止まって、振り返る。ステラは彼の方を見ないまま、無意識のうちに唇を動かした。
「……ここだ」
 黒くつめたい何かが、足もとからひたひたと這い上がってくるような感覚がある。
 冷や汗が止まらない。だが、同時に怒りのような感情もわいてくる。これは危険だ、壊してしまえ、と本能が警鐘を鳴らす。
 ステラが両手の指に力をこめたとき、突然頭を叩かれた。
「いたっ」
「落ち着け」
 呼びかけてくるレクシオの顔が近い。どうやら、ステラの頭に手刀を叩き込んだようだった。大して力はこめていなかったようだが、驚くには十分な衝撃だ。
 心臓の暴れる音を聞きながら、ステラは幼馴染を半眼でにらみつける。だが、レクシオは気にするふうでもなく、あたりを見渡しはじめた。
「草と木しかないけどなあ。本当に、大元はここなのか」
「多分……。気配が急に大きくなったから」
「ふうん」
 表情を曇らせるステラの横で、レクシオは軽く首をかしげる。彼はふと、上に視線をやった。ステラも釣られて見上げる。
 二人の視界が一瞬黒くなったのは、そのときだった。
 影が横切る。同時に、ばたばたと大きな羽ばたきの音がした。
 まばたきほどの時間の出来事であった。影が通り過ぎた後には、見慣れた青空が広がっている。二人は顔を上に向けたまま唖然とした。
「なんだろ、今の。鳥?」
「形からして、カラスっぽかったな」
「カラス……」
 二人は同時に息をのんで、互いの顔を見合わせた。
 カラスといえば、『銀の選定』の件を思い出す。神父を殺そうとしていた人たちが、ステラたちに送り付けてきた警告文。あれを届けにきたのはカラスだった。
 ステラの中でいくつかの思考が弾ける。
 カラスの影。委縮してしまうような――畏れてしまうような感覚。そして、今感じている気配が想起させるのは、ローブをまとい、大鎌を手にした青年だ。
「そうか、これ――」
「しっ!」
 ステラが思わず声を上げたとき、レクシオが鋭い視線を送ってきた。反射的に黙ったステラは、得物に手を添えて身構える。
「人の気配だ。誰か来る」
 木々のむこうの茂みをにらみつけて、レクシオがささやく。彼の言う気配は、ほどなくしてステラにもわかった。足音も少しずつ近づいてくる。あまり聞いたことのない音だから、『調査団』の誰かでないことは確実だった。
 息を殺して、時を待つ。
 その人は、ステラたちと同じように草木を踏み越え、こちらに近づいてきていた。そして――人影が、茂みの先から飛び出した。
「あれ?」
 気の抜けた声が、静かな森にこだまする。その人は、真ん丸の瞳をさらに丸くしていた。二人も瞠目して、身構えたまま固まる。ステラは驚きのあまり、剣の柄を握る指から力を抜いた。
「あんた……『研究部』の……」
「ブライス、さん?」
 呆けた声で呼びかけると、赤毛の少女は葉っぱまみれの顔を輝かせた。
「『調査団』の人たちじゃん! なに、どうしたの? 二人だけ?」
 茂みから飛び出した少女は、弾むような足取りで二人のもとへ駆け寄ってくる。ふわふわと揺れる頭に、レクシオが戸惑いの視線を注ぐ。
「いや、そちらさんこそ、こんなところで何してんだ……?」
「私? 私は道に迷った」
 少女はあっけらかんと言う。それどころか、心底楽しそうな笑顔を咲かせた。
「気がついたらみんなとはぐれててさ。適当に歩いてたらここに着いたんだあ。『研究部うち』じゃないけど、人に会えてよかったよ」
「うわあ」
 牛みたいに低い声を上げたレクシオは、げんなりしたといわんばかりの表情で、ステラを振り返った。
「迷子の実例がいたな」
「え、ええと」
 返答に困ったステラは、レクシオに曖昧な笑みを向ける。そして、赤毛の少女に目を戻した。彼女はこちらの反応など歯牙にもかけない。その場でくるりと一回転してから、二人との距離を詰めてくる。
「しかし、二人とお話しできると思わなかったよ。ステラ・イルフォードさんとレクシオ・エルデさんでしょ?『剣術専攻の双璧』だよ。うわあ、感激」
 彼女の言葉はとどまるところを知らない。二人は、ぽかんと顔を見合わせた。
「あたしたち、そんなふうに呼ばれてるの?」
「俺も知らないな」
 確かに、剣術専攻の中では常に総合成績上位を守り抜いている二人――ステラの場合は、ほとんど実技科目のおかげだが――である。一緒にいることも多いので、あることないこと噂されたり、妙な呼び名がついてもおかしくはない。それにしても双璧というのはちょっと仰々しすぎやしないか。ステラが眉を寄せたところで、レクシオが両手を叩いた。緑の瞳がぱっと光る。
「ああ、ブライスってなんか聞いたことがあると思ったら。ブライス・コナーか。同じ専攻の」
「ふっふっふ、覚えててもらえて、嬉しいなあ。よろしくね!」
「はあ、よろしく」
 レクシオが戸惑った様子で応じる。なるほど、どんな相手でも挨拶くらいするのが礼儀だろう。そう考えて、ステラも幼馴染に倣おうとした。が、その直前、首筋に火花が弾けるに似た衝撃を感じる。とっさに飛びのき、剣を抜いた。
 レクシオが、顔色ひとつ変えずに身を引く。小さな影が躍り出る。
 とっさに剣を構えると、なじみのある衝撃が襲ってきた。思ったよりは軽いが、しっかりとした一撃だ。
「……どういうつもり?」
 交わる刃のむこう側、ブライスをにらんでステラは問う。赤毛の少女は、犬歯をちらりと見せて笑った。
「一度戦ってみたいと思ってたんだよね。北方を守る騎士様と、さ」
「あたしは父上じゃないわよ。それに、今やることじゃなくない?」
「部長たちの目があったら、できないじゃん」
 噛み合っていた剣が離れる。大きく跳んだブライスが、今度はその勢いのまま突っ込んできた。低いところからの突き上げを、ステラはすんでのところでかわす。お返しに剣を突き下ろすと、さざれ石をばらまいたような激しい音が響き渡った。
 二人はそれから、間断なく五合ほど打ち合った。ブライスの剣戟は軽く、思ったよりも弱い。だが、その軽さと小柄な体躯を活かして縦横無尽に走り回る戦い方のようだ。あるときは下から刃がひらめき、あるときは上空から体ごと突っ込んでくる。今までに出会ったことのない剣士に、ステラは少なからず翻弄されていた。
 突然の戦いの中、ふと生まれた隙間で、ステラはレクシオの姿を探す。黒髪の少年は、近くの木の後ろに身を隠し、顔だけ出してこちらを見ていた。少女の視線に気づくと、へらりと手を挙げてくる。
「よ、がんばれー」
「ちょっと! 加勢するとか止めるとかしないの!?」
「やばそうになったら止めてやるよ」
 飄々とした物言いは、いつものことだ。ステラは助力を得ることをあきらめて、いら立ちをため息にして吐き出した。
 左斜め後ろから、空気の揺れる音がする。ステラは剣だけを後ろに向けてとどめた。剣が相手の剣を弾いて、澄んだ音を響かせる。その余韻が消える前にステラは体をひねり、右足を軸に回転させた。飛び上がったブライスの足音と呼吸を捉える。つかの間、ステラはわざと動きを止めて剣を下げた。そして、予想されるブライスの着地点に向けて、思いっきり足を払った。
「うひゃあっ!」
 声と衝撃。それから、どさどさと重い音が響く。素朴な剣が小さな手を離れて、遠くの地面に落ちた。草と土の上を転がった赤毛の少女は、しかしけろりとした表情で顔を上げた。
「やるねえ」
 高揚した声で呟いた少女は、軽々と跳ね起きる。そうかと思えば、武器も持たずに突っ込んできた。さすがに驚いて、ステラは軽く目をみはる。
 ブライスが拳をにぎる。
 その瞬間、風が細長く鳴いた。しゅるしゅると伸びた銀糸が、ブライスの手首にすばやく巻きついて動きを止めた。うへえ、とまた叫んだ彼女に、遠くから少年の声が呼びかける。

「はーい。そろそろ終わりにしましょうや」

 ステラは、軽く息を吐いて剣を収める。ブライスとともに銀糸を追った。木陰から出てきたレクシオが、いつの間にか鋼線を構えている。彼は、ブライスが拳を解くのを見て、鋼線を回収した。
「あっはっは。止められちゃった」
 ブライスは落ち込むでも悪びれるでもなく頭をかく。それからひょいっとかがみこんで、自分の剣を回収した。ちょうどその場にレクシオが戻ってくると、ブライスは彼をうきうきと見上げる。
「その武器、おもしろいね。どうなってんの?」
「残念ながら企業秘密」
 レクシオは、唇に人差し指を当ててそれだけ言うと、ステラの隣にやってくる。ステラは抗議のつもりで彼をにらんだが、幼馴染の笑みをぶれさせることはできなかった。
「はあ、楽しかった。ありがとね、イルフォードさん」
「どういたしまして……いきなり襲ってくるのはもうやめてね……」
 楽しげに立ち上がったブライスに、ステラは引きつった笑顔を見せる。ブライスは明確な返事をせず、その場で飛び跳ねはじめた。本当に行動が読めない。
 ステラは笑みをあっさりほどいて、隣で苦笑している少年を見やった。
「ねえ、どうしようか。この状況」
「どうしようかねえ。少なくとも、ここにブライス嬢を放置していくわけにはいかんわね」
「そりゃそうだ……」
 レクシオの言葉は、こんなときでも端から端まで正論だ。ステラは、本日何度目かのため息をついた。
 とりあえず、ブライスを連れて仲間の元へ戻ることになりそうである。