第四章 幽霊森の終焉(4)

 最初は、いつもの喧嘩と変わらないと思っていた。
 発端は、オスカーと同じ教室の少女が他の専攻の生徒に絡まれていたことだった。その場面を、たまたま帰る途中のオスカーが目撃した。
 少女に絡んでいたのは、二人の少年。一見大人しそうだったが、言葉を重ねるごとに口汚くなっていった。少女も少女で一歩も引かないものだから、それが余計に少年たちを煽ってしまったのだろう。
 口論があまりに激しくなったものだから、見かねて止めに入った。
「言いすぎだろ。お互いそのへんにしたらどうだ」
 少年たちも少女も、その瞬間は唖然として黙りこんだことを覚えている。オスカーが一言口にして両者をにらむと、少女の方はそのままうつむいて引き下がった。だが、少年たちの方がかえって怒り出したのだ。
「なんだ? 女子を守って王子様気取りか?」
「部外者が邪魔するなよ」
 オスカーにとって、その程度の文句は聞きなれた言葉だった。だから眉一つ動かさずに手を引くよう言ったのだが、少年たちは余計に怒ってしまった。逆上している者に冷静な言葉を投げかけることは、火に油を注ぐ行為――当時のオスカーは、そのことを知らなかったのだ。
 少年のうち一人がオスカーの胸倉をつかむ。彼はそれをあっさりと外した。
 それが、始まりの合図だった。
 言葉の応酬は武力の応酬となり、それは思いがけず大きな喧嘩に発展した。互いが武術科生であったことが、一番の原因だろう。少年二人は病院送りとなるほどの大けがを負った。オスカーもあちこち出血し、腕の骨にひびが入った。
 その騒動が原因で、オスカーは一時停学処分となった。期間は二か月だっただろうか。
 停学期間中は特にすることもない。オスカーは基本的には自宅にこもり、屋内でできる鍛錬と座学に励んでいた。やることはいつもと変わらないといえど、静かな屋内だとたまに寂しさを覚えもする。心にぽっかりと穴が開いたような感覚だった。
 そんな心の穴に活力を注ぎ込んでくれたのが、ジャックだったのだ。
 彼は、ほとんど毎日、夕刻に彼の家を訪れた。トニーが同行してくることもある。二人を招いたときは、お茶を片手に学院の話を聞くことが多かった。
「今月いっぱい、委員会活動を手伝うことになったんだ。思った以上に大変だけれど、楽しいものだね」
「今日、トニーが論文発表会で優秀賞に選ばれたんだよ!」
「オスカーがいないと怪談話ができないから、やっぱり寂しいな。トニーだけだとあまり突っ込んだ話ができないからね」
 陽気な声で語られる、家の外の話。それはオスカーにとって新鮮で、何より楽しいものだった。
「来年、同好会グループを作ろうかという話になったんだ。オスカーも一緒にどうだい?」
 ある日、ジャックがそう言いだしたとき、オスカーは考える間もなくうなずいていた。
「いいんじゃないか? そのときは俺も混ぜてくれよ」
「もちろんだよ! 楽しみだなあ」
 何気なく交わした約束。それは当然果たされるものだと、お互い信じていた。少なくとも、このときは。

 男子寮の食堂は、現在の寮生全員を収めても少し余裕があるくらいには広い。加えて、凝った装飾の照明や一目で高級品とわかる長机のおかげで、どこかの王宮と勘違いしそうになる。
 その食堂は、オスカーが入ったときにはがらんとしていた。一時間前に夕食が終わったのだから当然だ。大抵の寮生は、広間で遊戯に興じたり、自室に引っ込んだりしているのだろう。
 食堂にいるのは彼と、もう一人だけだ。最奥、窓の外がよく見える席に座っている少年が、彼を見つけて手を挙げた。
「やあオスカー、今日はお疲れ様」
 肩の下まで伸びた黒髪、切れ長の目、整った相貌。見た目の印象からは想像もつかぬほど無邪気な、かつての親友――ジャックは、オスカーを昔と変わらぬ瞳で見つめてきた。オスカーは彼から視線を逸らし、無言で顎を小さく動かす。ジャックから人ひとり分離れた席に腰かけた。自分から話しかけることはせず、机の木目をなんとなくながめる。ジャックも、すぐには口を開かなかった。
 通り過ぎた無言の時間。その果てに発された明るい声は、広い食堂に反響した。
「さてさて。今日の勝負はどうしようか? シンシアくんの言う通り、うやむやになってしまった感じがあるけれど」
「……言い出したのはブライスだ。俺自身はどうでもいい。公表できないことが多いなら、お互い適当に報告書を出せばいいんじゃないのか?」
 投げやりに答えたオスカーは、今日のことを思い出す。『クレメンツ怪奇現象調査団』と鉢合わせることは予想の範囲内だったが、その後の出来事は彼の予想と許容量を遥かに超えていた。
 同好会グループ活動は一応、学生としての活動だ。先生の目のないところで行った活動については、報告書や論文などを提出する必要がある。『ミステール研究部』のように、学内に張り出す新聞を発行して報告書の代わりとする場合もあるが、今回はその手は使わない方がいいだろう。
 ジャックやトニーはそのあたりをどうするつもりなのだろう。そう考える一方で、彼らならどうにかするだろうという、謎の安心感もある。
 だから、今彼が考えるべきは、自分のことだ。
「それより、話ってのはなんだ。今日の活動のことじゃないだろ」
 心の波を悟られないよう、強い声で問う。ジャックは笑顔のままだったが、まとう空気が少し冷えたように思えた。そうだね、と言いにくそうに呟いてから、彼はオスカーをじっと見つめる。
「あのときのことを、もっとしっかり話したいと思ったんだ」
 オスカーの頭の中も、急に冷える。溜まっていた言葉が重さを持って、喉元にのしかかってきたようだった。
「一昨年の騒動のとき、君に何があったんだい? 差し支えない範囲でいいから、聴かせてはくれないかな」
 一昨年――オスカーが少年たちと大げんかした頃だ。思ったほど時間は経っていなかったのだな、とオスカーは無感動にも考える。
 最初はただの喧嘩だった。いや、事の発端となったそれ自体は、少年同士の暴力沙汰、それ以上でもそれ以下でもない。後々の問題はすべて、オスカーの中で起きたことだった。
 記憶は少し色あせている。それでもなお、彼の胸の中でうるさく騒ぎ立てることには変わりない。自分の弱さと醜さ、疑いを知らぬ友人の笑顔、それらが目の前で、耳元で、ささやくのだ。
「別に何も」
 おまえは愚かだ、大馬鹿者だ――と。
「何もなかった。おまえが知っている以上のことはな」
 ジャックが目を丸くした。久々に見る表情だ。少しだけ、懐かしさがこみ上げる。だが、それはすぐにしぼんだ。ジャックの方もすぐに驚きの気配を消す。代わりに見えたのは、純粋な思いやり。真摯な目。オスカーが最も好きで、最も疎ましい感情だった。
「大きな事件がほかになかったとしても、オスカーは何か悩んでいたんだろう? 前にも言ったけど、僕はあのときのこと、気にしてないよ。だから教えてほしいんだ。僕の何が、君をそんなに苦しめていたのか――」
「そういうところだって、言ってんだろ」
 この上なく、疎ましかった。だから、これ以上関わらないでおこうと決めたのだ。
 内面など見せてたまるか。卑怯者の本音など、彼が知る必要はないのだから。
 そう、思っていたのに。
「おまえの、その馬鹿みたいに明るくてまっすぐな部分が、俺は大嫌いなんだ。鬱陶しいんだよ」
 拳を握る。煮えたぎる感情をあざ笑うかのように、鋭い痛みが走った。
「いつも通りに過ごすだけで勝手に人が寄ってくるような奴に、俺みたいな日陰者の気持ちはわからねえだろ。なのに、なんで、そうやって関わってこようとするんだよ。首突っ込むなよ。放っておいてくれよ!」
 無自覚に、叫んでいた。ほかの誰かに聞かれたかもしれない、などと考える余裕もなかった。心音が速い。呼吸が浅い。奇妙に昂った気持ちを、歯を食いしばって抑え込む。そうでもしなければ、うっかり目の前の少年につかみかかってしまいそうだった。

 ――オスカーが学院に復帰したとき、ジャックはすっかり人気者になっていた。いや、もともと人気者ではあったが、彼をリーダー的存在として慕って集まる人が増えていた。彼にその素質があるのはオスカーも知っていた。冷静にものを見られるトニーという友人もいる。だから、そうなるのは当然の流れだった。
 けれど、その流れが自分のいない間にやってきたことに、オスカーは衝撃を受けた。自分自身でも予想していなかったほどに。勝手に戸惑い、落胆し、勝手に裏切られた気分になっていた。
 それでもジャックとトニーは変わらず声をかけてきた。だからこそ、彼は困惑した。あれほど周りに人がいるのに、なぜ自分などを気にかけるそぶりを見せるのか。――疑心に似た薄暗い気持ちを抱いたりもした。少し、嫉妬もあったのだろう。その頃から彼は、ジャックの顔をまともに見られなくなった。
 純粋に好きだった笑顔が、疎ましく感じた。
 誰かの笑い声を聞くと、一瞬だが怯えるようになって。
 そのうち、他人と話すことすら嫌になっていった。
 苦しい。見たくない。聞きたくない。
 だから、彼は自分ですべてを壊した。いつもと変わらず話しかけてきたジャックの手を振り払って、背を向けて――
「もう二度と話しかけてくんな」
 そう、吐き捨てて。

 食堂は再び静まり返った。時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
 オスカーはうつむけていた顔を少し上げた。今までまともに見られなかった少年の顔を、久しぶりに見る。かつてと変わらぬ表情なのに、なぜか泣いているような気もした。
「そうか」
 静かな一言が、沈黙を破る。ジャックはただ目を細めた。
 ぎこちない表情の裏に隠れた感情がなんなのか、オスカーにはわからない。わからないと思ったのは、今が初めてだった。
 彼のかつての友人は、何一つ変えぬまま口を開く。
「オスカー、僕はね。あの日から、自分のことが嫌いになったんだ」
 その言葉に、頭を強く殴られた気がした。
「……は?」
 間の抜けた声が出る。オスカーは、自分の耳を疑った。だが、幻聴ではないらしい。その証拠にジャックは、泣きそうな笑顔で言葉を継いだ。
「君がああまで言うほど悩んでいたことに気づけなかった自分が、嫌いで嫌いでしかたがなかった。同好会グループを立ち上げるのもね、本当はやめようと思ったんだよ。たった一人の友人に寄り添うこともできない奴が、責任者なんて名乗る資格はないだろうって思っていたから」
「……なんで……この件と、同好会グループの件は、関係ないだろ」
「トニーにも同じことを言われた」
 オスカーがやっとの思いでひねり出した言葉を、ジャックはやわらかく受け流す。だが、直後――その笑顔が、歪んだ。
「……僕にはトニーがいた。だけど君には、誰もいなかったんだよね。共感して、寄り添って、叱ってくれる人が。僕がそうなりたかったけれど、なれなかったから」
 オスカーは唇を引き結ぶ。何も言葉が出てこない。
 あのとき傷ついたのは自分だけだと思っていた。自分だけが勝手に傷ついたのだと。
 けれど、そうではなかった。きっと――誰よりもジャックこそが、癒えぬ傷を負って苦しんだのだ。
「ごめんね、オスカー。苦しめてしまって……そのことに気づけなくて、ごめん」
 ジャックが頭を下げた。オスカーはそれを唖然として見下ろした。
 姿が、やけに小さく映る。弱々しくて、消えそうだ。こんな彼は初めて見る。こんな彼は見たくなかった。
「やめてくれ」
 顔を背けそうになる。だが、それを堪えた。オスカーは顔をまっすぐ少年に向ける。
「おまえが謝ることじゃない。原因は俺の弱さだ。それは……わかってるんだ、あの頃から」
 言葉がぎこちない。そこから、どう続けたらよいのかわからず、オスカーは黙り込んだ。沈黙の意味をうかがうように、ジャックが顔を上げる。彼は困ったように眉を下げていた。
 言いたいことはたくさんあった。そのはずなのだが、今はひとつも出てこない。考えて、考え抜いて、それでもわからなくなって――オスカーは、乱暴に頭をかいた。
「正直、おまえに近づきたくないって気持ちは変わらない。けど……一昨年のことは、悪かった。なんの説明もせずに、あんなことを言って」
「いいや」
 ジャックがかぶりを振った。
「それこそ謝ることじゃない。言っただろう、僕は気にしてないって」
「うるさい。俺が気にするんだ」
「そうなのか。君も、そういうところは変わっていないね」
 ジャックが笑う。それは、オスカーの知る彼の笑顔だった。
 オスカーはしばらくぽかんとした後、顔をしかめて親友の胸をどついた。もちろん、かなりの手加減をして。