終章 平和の裏側

 男はひとり、曇天の下を歩いていた。
 草が生い茂り、その隙間を縫うようにして岩が並ぶ、奇妙な土地である。灰色の空のもとでは、なおかつ不気味でもあった。
 男は、無言で歩を進めている。風が吹いた程度では眉一つ動かさず、草をかき分けるとき以外、動作も大きく変化しない。淡々と前へ歩きつづけた。
 しばらく歩くと、白黒の空気の中に岩壁が見える。壁には大小の穴が開いていて、その内側は洞窟になっていると、男は知っていた。目的地を見出してなお、彼の歩調は変わらない。長い草の束を軽く払って、洞窟の入口を探した。
 入口の穴を見出すのは難しくなかった。その方へと足を進めようとして、けれど男は歩みを止めた。
 草木の匂いに混じって、不快な臭気が漂ってくる。生臭い、鉄のにおい。それがなんであるか、彼は嫌というほど知っていた。眉ひとつ動かさず、その光景を確かめる。
 洞窟の前の大地は、赤黒く染まっていた。血の海の上に、ヒトの躰が三つほど。しかしまったく動かず、生命の気配は感じられなかった。色と臭いからして、三人が殺されてからさほど時間は経っていない。しばし瞑目したのち、男は無表情のまま振り返った。
 翳りにまぎれて、多数の人影が近づいてくる。一糸乱れぬその集団は男の前で止まった。黒い軍服に白の上衣。それが何を表すのかを彼は知らないが、その集団の殺気が自分に向いていることはすぐにわかった。
「ごきげんよう、指名手配犯殿」
 集団の先頭にいる者が口を開く。ねっとりとした声色に、軽蔑と嘲笑の気がふんだんに含まれていた。男はそれを無表情で受け止めて、唇を押し開いた。
「なるほど、これはおまえたちがやったのか」
「その通り。あなたの目からご覧になって、いかがですかな? この『作品』は」
 黒軍服が笑ったその瞬間、両者の間で光が弾けた。男の目と同じ色の光は激しく渦を巻く。軍人たちの間から、ざわめきが起こった。
「――最高だな」
 男は淡々と先の質問に答える。しかし、その両目には明確な憤怒の炎が揺らめいていた。光の渦巻く速度が速まる。同時、甲高い音が周囲にこだました。
「軍人ども、俺の前からとっとと消えろ。殺されたくなければな」
 脅迫の言葉すら静かに響く。軍人たちはそのせいか、少しの間あっけに取られていた。だが、言葉の意味が行き渡ると、ざわざわと怒りが充満する。そんな中で、先頭の軍服男ひとりが口もとを愉悦に歪めた。
「やはり、貴様は『デルタ』だったか」
 耳障りな声と呼び名が、さらに男の神経を逆なでする。それでも彼はまだ黙ったままだった。黒軍服はそれをにらみつけて、後ろの軍人に「捕らえろ!」と激しく指示を飛ばす。その瞬間――男の指の動きに合わせて、光の渦が飛び出した。
 渦が分離して広がり、それはまた集束してゆく。曇天に浮いた光の球が、矢の形に変化して軍人たちの上に降り注ぐ。一連の出来事が起きたのは、ほんの一瞬の間であった。
 先ほどの無礼な黒軍服は、隊長のような存在らしい。彼の指示に従って、光の矢を受けなかった軍人たちが散ってゆく。彼らは三人一組に固まって、猛然と男の方へ向かってきた。
 接近戦に持ち込むつもりだろう。男には、すぐに敵の意図が読み取れた。それは、肉弾戦を得意としない魔導士と相対するときの常套手段であるからだ。
 男は小さくため息をついて、自分のまわりに魔力を巡らせる。流れるように、金色の半球が彼を覆った。真っ先に到達した槍の穂先のいくつかが、金色の防壁に弾かれる。
 男はその光景を冷ややかにながめつつ、手を挙げた。防壁の外、上方に、大規模な構成式を広げる。それによって魔力が動いたのだろう。灰色の雲が不自然な動きを始め、その下に赤い光が広がった。異常に気付いた黒軍服が、目をみはる。
「奴にこれ以上術を使わせるな!」
 声は、戦場全体に響き渡った。号令を受けて、軍人の群れから熱が立ち昇る。その様を男は無感動に見つめ――防壁魔導術を解いた。
 剣と槍を手にした者どもがなだれ込んでくると同時、身を低くする。真っ先に突っ込んできた一人の肘を下から打って、その衝撃で落ちた剣を左手でひょいと拾う。そのまま彼は、眉一つ動かさずに敵の群れへ突進した。
 次々と突きこまれる剣や槍をほとんど打ち返し、残りはすべて避ける。その間にも構成式の展開は止めなかった。赤い光はみるみる強くなり、曇天を覆い隠すまでになる。
 そして――彼が黒軍服と刃を交わした瞬間、空から光の爆弾が降ってきた。敵が赤々と光る空に気を取られている間に、男は剣を放棄して飛び退る。洞窟を背にしてまた防壁を展開した。男の視界を薄い金色が覆うと同時、魔導術は軍人たちの上に着弾した。
 赤から白に変わる光。草木をへし折り、岩をなぎ倒す衝撃と轟音。
 それらが世界を埋め尽くし、しばらくは何もわからなくなった。
 破壊の限りを尽くして、魔導の力はゆっくりと消えていく。薄れる光と立ち込める土煙のむこうを、男は静かに見通す。
 すべてが焼け焦げ、溶けた大地で、立っている者は彼以外にいなかった。

「ほぼ全滅、か」
 報告書に目を落とし、壮年のスティーブン・メンデス少佐がため息をついた。その報告書を持ち込んだクリント・ヘイルウッド大尉は、内心で頭を抱えつつも無表情で上官の言葉を待つ。
 薄い書類の束を机に滑らせたメンデス少佐は、鈍い光の宿った目をヘイルウッド大尉に向けた。
「だが、これで奴の素性は暴かれたも同然だな。――ヘイルウッド大尉」
「はっ」
「この男の身辺を調べろ。『デルタ』ならルーウェンに住んでいたはずだ。そこをあさればすぐに情報は集まる」
 報告書を指で叩きながら、少佐は低い声を立ち昇らせる。
「存命の家族がいる場合は、その所在も調べ上げろ。――拘束対象だからな」
「家族も、でございますか」
 ヘイルウッド大尉は思わず反問した。言ってから、しまった、と思ったが後には引けない。心の中で己を叱咤し、口を動かし続ける。
「たとえ犯罪者の家族であっても、一般人に対して事情聴取を行う場合は警察を介さなければなりませんよね。帝都警察に連絡いたしますか」
「あの腰抜けどもに、奴らの相手が務まると思うか、大尉?」
 仏頂面の少佐の目がぎらりと光る。ヘイルウッド大尉は反射的に口をつぐんでから、「いえ」とかすれ声をしぼり出した。
「警察への連絡は不要だ。さっさとやれ」
「了解」
 ため息をついている上官に敬礼をしてから、ヘイルウッド大尉は部屋を辞する。扉を閉めて歩き出してから、ため息をつきたいのはこちらだ、と胸中で毒づいた。普段のメンデス少佐らしからぬ言動であったから、彼自身さらに上から圧力をかけられているのかもしれないが。軍の縦社会と、それに伴う上官の苦労とを頭では理解していても、憂鬱な気分になるのはどうしようもない。せめてものうっぷん晴らしとして、床を軽く蹴りつけてから、ヘイルウッド大尉は次の仕事場へ向かった。

 のちに彼は、指名手配犯に子どもが一人いることを知り、さらに大きな憂鬱を抱えるはめになる。が、このときはそんな未来など知る由もなかった。

 かくして半月後、一枚の手配書が更新されることとなる。

(Ⅱ 昏き森の英霊・終)