その子どもに出会ったのは、よく晴れた夏の日のことだった。
朝から気温がぐんぐんと上がり、お昼時には全身から汗がしたたるほどの陽気だったのを覚えている。
彼女の経営していた孤児院はそのとき、ようやく軌道に乗りはじめたという程度であった。とはいえ、長年所属していた福祉の団体から離れて、やっと三年が経った頃。活動内容を考えれば、成長は速いくらいかもしれない。
年長者が年少者の面倒を見て、社会に出てからもその経験や他の才能を活かして活躍していく。その背中を見て育った年少者が、次の子どもに志や優しさを伝えていく。そういった循環も、できはじめたところだった。
やりがいは大いにあるが、同時に苦労も多かった。当時は、ため息の回数も多かったと記憶している。ちょうどそのときも、吐息を熱された路面に落としながら市場で食材を買い足した帰りだった。
汗をぬぐいながら歩いている途中、下から声をかけられた。路上生活の子どもだろうか、こんな表まで出てくる子は珍しい、大丈夫だろうか――そんなことを考えつつ下を見て、驚いた。
確かに、そこにいたのは子どもだった。痩せていて、身なりも決してきれいではない。瞳に子どもらしい光はなく、奇妙なほど静かだ。愛情をじゅうぶんに受けてこられなかった子のにおい。悲しいことだが、帝国においてそれ自体は珍しいことではなかった。
驚いたのはそういうところではない。その子は、彼女が今まで見てきた子どもとは、明らかに『何か』が違った。その何かが何なのか、当時の彼女には言語化できなかった。
戸惑いながらも、彼女はその場で膝を折り、子どもと目線を合わせた。
「こんにちは。何かご用かしら」
「こじいん、知りませんか」
子どもは、問う。妙に大人びた口調だった。
「黒い屋根の、大きなこじいんを知りませんか」
「それは、私がひらいている孤児院ね。あなた、うちに来たいの?」
内心でどきりとしつつ、彼女はつとめて穏やかに問うた。子どもは、少し頭を傾ける。
「あなたが院長先生ですか?」
「そうですよ」
「それなら、お願いしたいことがあります」
不思議な物言いである。行き場を求めて彼女のところへ来た子どもは、こうは言わない。少なくとも、彼女が見てきた子たちは違った。
「お願い」の内容を問う。するとその子は、さらに不思議なことを言った。
「一人で生きていく方法をおしえてください」
彼女は、とっさに答えられなかった。その沈黙をどう取ったか、子どもは不安げに目を伏せつつ、言葉を継いだ。
「こじいんなら、一人で生きていく方法をおしえてくれる――って、おとうさんが言ってたんです」
彼女は、目をみはった。これは、彼女にとって特に注意すべき案件かもしれない。
ひとまず、その子どもを連れ帰ることにした。連れ帰って、ほかの子たちとお話をして、年長者に小さい子たちを託してから、彼女は改めてその子どもと話す時間を取った。みんなで食事をとる机の隅で、向かい合う。お茶と、朝食の残り物を出してやると、子どもは彼女が目をみはるほどの勢いでそれらを平らげた。聞けば、二日ほど汚れた雨水しか飲んでいなかったという。
子どもが人心地ついたところで、彼女は口を開いた。少しだけ孤児院の話などをして場の空気をほぐしてから、本題に立ち戻る。
「君、お父さんはいるのね?」
そう問うと、子どもはちょっと顔をこわばらせて、うなずいた。
「はい。だけど、この近くでおわかれしました」
「お父さんとお別れしたの。それは、どうして?」
子どもはうつむいた。そのまま黙ってしまう。しかし、彼女は待った。こういうとき、急かしたり無理に話を振ったりするのは逆効果だと、知っていた。
三分ほど黙った子どもは、ぽつりと声をこぼす。
「ぼくが悪いんです」
彼女は、心臓の跳ねる音を聞いた。
「ぼくが、ちゃんときかなかったから、悪いんです。だから、おとうさんは傷ついちゃったんだ。だって、だって、おとうさんはきいたらちゃんとこたえてくれる。いつも、こたえてくれた、なのに――」
その声はほとんどささやきだったが、彼女の胸を強く突いた。子どもは頭を抱えて、言い続ける。
「だって、なにもなかったら、あんなことしない。なんでってきいたら、こたえてくれる、のに」
声に、嗚咽が混じる。彼女は黙って、その子の頭をなでた。
めちゃくちゃに聞こえて、彼の言っていることはひとつだ。だが、そのひとつが何について話しているのかが、よくわからなかった。
彼が落ち着くのを待って、彼女はさらに話を聞いた。最初、父親による虐待を疑ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。ある一時までは、親子の関係はむしろ良好だったようだ。だが、「何か」があって、子どもの方が父親を避けるようになった。そして――
「『おれは悪いことをしてしまったから、おまえといっしょにいられない』って」
「そう言ってたのね?」
子どもは、うなずいた。
少しずつ、輪郭が見えてきた――的中している自信はないが。
おそらくこの子の父親は、何かしらの犯罪に手を染めたのだ。それゆえ、自分が逮捕ないし指名手配される前に、子どもを手放したというのが、有力な説だろう。そこまで推測が立てられれば、彼女の心も決まった。
子どもの「お願い」をきくことにしたのだ。この子を彼女のもとで保護し、自立のために必要な知識や技術を可能な限り教える。そして、十五歳までに教育機関なり会社なりに送り出す。そういう計画だ。子どもにそれをかみ砕いて伝えると、花が咲いたみたいな笑顔を見せる。初めて見る、彼の笑顔だった。
彼女は改めて、孤児院の紹介をして、自分の名を名乗った。そこに「ここの子たちには『ミントおばさん』って呼ばれてるわ」と付け足した後、子どもにも名を尋ねた。
子どもは、笑顔を凍りつかせた。咲いた花がしおれるみたいに背中を丸める。急激な変化に首をかしげつつも、彼女はやはり、答えてくれるのを待った。
ぐっと唇を結んで、開いて。細く息を吸った後、子どもは声を絞り出す。
「レクシオ」
震える声で言ったのち、その声をさらに震わせて、言いなおした
「レクシオ……エルデ、です」
その瞬間、頭を殴られるような衝撃が彼女を襲った。彼が名乗るのをためらった理由を嫌でも察してしまう。驚愕ゆえに黙りこんだ彼女を見返したレクシオは、恐怖に顔をひきつらせる。「見せてはいけない顔」をしていたことに、彼女は遅れて気づいた。しかし、気づいたときにはもう遅い。彼は、再び頭を抱えるなり、椅子を蹴倒して走り出したのだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、すぐ出ていきます……もう来ません……ごめんなさい!」
待って、と呼びかけて、止まるはずもない。我を失った子どもは叫びながら走った。しかし、すでに体力の限界だったのだろう。扉の手前でつんのめって転んだ。彼女は慌てて駆け寄る。転んでもなお、レクシオはもがきまわって、孤児院から出ていこうとしているようだった。
「もう来ません……だからたたかないで、ひっぱらないで……ひとりにして……! いやだ、いやだ!」
まわりが見えていない。完全に錯乱している。子どもの状況を見た彼女は、意識して数歩下がった。距離を取ってから、大きめの声で呼びかける。
「私は、叩かないわ。あなたのことを捕まえたりもしない。大丈夫よ」
それでもレクシオは落ち着かなかった。だから彼女は、落ち着くまで、呼びかけた。時折長めの間をとりながら。
「大丈夫。怖いことは、何もしないわ」
二十回に迫る呼びかけののち、やっとレクシオは叫ぶのをやめた。床に手をついて、よろよろと彼女の方を振り返る。恐怖と絶望に濁った瞳を、彼女はまっすぐ見つめた。
「私はあなたの名前を知っている。だけど、何もしないって約束する。怖い人には言わないし、あなたが嫌なら、ここの子どもたちにも黙っておく。だから、一緒にお勉強しましょう。一人で生きていくためのお勉強」
「……ほんとう、に?」
「本当に。ほら、まずはこちらにいらっしゃい。そこはかたいし、冷たいでしょう」
ほほ笑みかける。まだ、距離は詰めない。さりげないふうを装って、孤児院の奥を見た。
「そうねえ。まずは体をきれいにして、お風呂であったまりましょうか。レクシオのお部屋も用意しなくちゃね。ほかの子と一緒のお部屋と、一人のお部屋、どちらが安心できるかしら」
レクシオは、体を起こして、その場に座り込んだ。座ったまま、彼女をじっと見て――両目から涙をぽろぽろとこぼす。そこでやっと、彼女は彼に歩み寄る。
彼女が小さな体に手を添えると、レクシオは声を上げて泣き出した。
――それは、十一年間誰にも明かしていない、彼女とその子どもだけの記憶だ。
秘められたまま、誰にも開かれることなく、二人の間だけで消えていく。二人ともがそう信じて疑っていなかった。