第一章 転入生の秘密(4)

 ステラたちの教室の近くには、少し広い共用の空間がある。周囲と板の色が若干違う程度で何があるわけでもないが、学生たちが集まって雑談をするには絶好の場所だった。放課後の今は、その場所に元気な呼び声と笑いさざめく声が満ちている。書類を抱えてあちらへこちらへ歩く少女や、張り紙を見ながら真剣な顔で議論する少年たち、大きな板を数人がかりで移動させる人たち。彼らが行っているのは、学院祭フェスティバルの準備だ。
 学院祭フェスティバルは、秋の収穫祭周辺で行われる学院のお祭りだ。学生たちが日々の学びの成果を持ち寄り、展示や催し物、出店などを開いたりする。いつもは緋の月ヴェルミエルの下旬に行われるが、今年はどういう事情か、来月――氷の月グラシエルの頭に行われることになっている。
『武術科』では毎年、外からの来場者を対象に武術の教室を開いたり、戦史や戦略論についてまとめた展示を作ったりしている。今まさに、武術科生はその準備に追われているのだった。
 今日のステラは、展示のまとめ作業の一角を担っている。大きな板に展示物を貼り付けていく作業だ。やることは単純だが、ステラはこれがなかなか好きだった。みんなが一生懸命まとめた展示物を一足先に見られるからである。同じ『武術科』でも専攻や個人によって内容がまったく違ってくるから、さらりと目を通すだけでも心をくすぐられた。淡々と事実だけを記す人もいれば、熱をこめて考察を書き込む人もいるから、おもしろい。
 砲術の変遷をまとめたものを読みながら貼り付ける。その後、別の展示物を貼ろうとしたが、高すぎて微妙に手が届かなかった。ステラは軽く首をかしげながら、展示物を脇に戻す。椅子を借りてきた方がいいかもしれない。ため息をついて身をひるがえしたとき、別の誰かの手が展示物を拾い上げた。
 ステラは目をみはって振り返る。雑に切った黒髪と緑の目を持った少年が、悪戯っぽく片目をつぶっていた。
「レク」
「加勢に来ましたよっと」
 おどけて言ったレクシオ・エルデはステラの頭上を指さした。
「これを上に貼ればいいのか?」
「あ、うん。ありがとう」
 ステラは少し戸惑いながらも頭を下げる。レクシオは、いーえ、と笑ってあっさりと展示物を貼った。
 その姿や振る舞いは、いつもの彼と変わらない。なんとなく大きな後ろ姿をながめたステラは、気づけば口を開いていた。
「ねえ。ミオンさんのこと、気になってるの?」
 レクシオは、怪訝そうに振り返った。ステラは少し彼から目を逸らして、足もとに視線を落とす。
「あの子が来てから、ちょっと様子が変な気がしたから」
「……ああ」
 苦笑の気配がある。顔を上げた先の少年は、困ったように笑っていた。
「ステラはごまかせませんなあ」
「あたしが、魔力を感じるかも、とか言ったから?」
「それもある。それだけじゃない。……ま、なんとなく似てるところがあるから、かな」
 板から離れて、レクシオは伸びをする。それから、ちょっとほほ笑んでステラの方を振り返った。またこの目だ、とステラの内面が鋭くささやく。何かを隠したがるときの目、口調、表情。その裏に何が眠っているのか、彼女は未だにつかめないでいた。急き立てられるようにステラが口を開きかけたとき、近くから切なげな少女の声がした。記憶に新しい音だ。ステラとレクシオは、思わず顔を見合わせた。
「噂をすればなんとやら、だな」
 レクシオが肩をすくめた。その目から明確な感情は読み取れない。ステラはうなずきながら声のした方を見る。ミオンがしょんぼりと眉を下げて、近くにいた男子生徒に何かを尋ねているところだった。その男子生徒は穏やかな声音と表情だったが、なんとなく困っているであろうことがうかがえた。
 そこへ一人の女子生徒が現れる。明るめの金髪を頭の高いところでまとめ上げていて、碧眼には常にきつめの光が宿っている。彼女の名をステラは知っていた。シャルロッテ・ハイドランジア――ステラやレクシオと同じ剣術専攻だ。
 シャルロッテはミオンに何事か言葉をかける。おそらく、作業の指示を出しているのだろう。ミオンは全身をこわばらせながらそれを聞き、彼女についていった。時折つまずきながら立ち去るミオンを見送って、ステラはため息をついた。
「災難っちゃ災難よね。慣れない環境に来て、いきなり行事の準備をしなきゃいけないんだもん」
「しかも指揮を執っているのが紫陽花ハイドランジアのお嬢さんときた」
 レクシオがのんびりと、空模様の話でもするかのような口調で言う。
 シャルロッテはいつもはきはきと話し、指示を出すのが上手い。その気質ゆえに、気づけば司令塔の立場に収まっているという子だった。欠点があるとすれば、いつも怒ったように話すこと。その言動が気の弱い人を委縮させがちだった。
「あれも悪気があるわけじゃないんだよなあ」
 レクシオの言う通りである。だが、ミオンは二人ほど彼女を知っているわけではない。先ほども、明らかに縮こまっていた。ステラは、心細く揺れていたおさげ髪を思い出して、眉を曇らせた。
「大丈夫かな、あの子」
「なんとも言えないな」
 ステラの呟きに対し、レクシオは曖昧な答えを返す。それはいつものことだ。だが、声色はいつもより冷たかった。

 幸い、この日は何も起きなかったようである。ミオンは疲れていたが、ほかの生徒と少し打ち解けたように見えた。
 大きな問題が起きたのは、三日後の準備中だった。

 そのとき、ステラはブライスや他の生徒と、武術教室の段取りを話し合っていた。剣術専攻の話がまとまりかけたとき、共用空間の方から何やらものすごい音が聞こえた。近くの教室の扉前で話し合いをしていたステラたちは、弾かれたように顔を上げた。
「おお、何事何事? 誰かこけたかな?」
 ブライスが、なぜか楽しそうに、廊下の方へ顔を突き出す。彼女はその場にいたステラとレクシオを振り返った。
「ねえねえ、ちょっと様子見に行ってみようよ」
「やじ馬根性旺盛か」
 レクシオは呆れた様子でかぶりを振ったが、彼も外の様子が気になっていたらしい。結局、ステラとレクシオとブライスの三人が外を見にいくことになった。
 廊下に出ると、すでに学生服のかたまりができている。その中心にいるのはミオンらしい。ステラたちのいるところからでは姿は見えないが、記憶に新しい声が響いてくる。三人は集団の最後尾に加わると、人垣をかき分けてその先をのぞいた。
 覚えのある少女と、そのまわりに散らばった大量の紙。ミオンは大慌てで紙を集めていて、すでに二人の男子生徒がそれに手を貸していた。
「あー、ぶちまけちゃったのかあ」
 底抜けに明るくブライスが声をかけると、振り返った男子生徒がうなずいた。
「そう。でも悪いのは俺たちなんだよ」
「おれがこの子にぶつかっちゃって……資材運んでる途中だから見えなかったんだけど……申し訳なかった」
 もう一人の男子生徒が、眉を寄せる。彼は数枚の紙を束ねて、真ん中の山に乗せた。
 彼の言葉を聞いて、ミオンが力なくかぶりを振る。
「わたしの方こそ、すみませんでした」
 二人は謝り合戦をしながら紙を拾い続けている。それに苦笑しながらも、ステラは二人に声をかけた。
「二人とも、怪我はしてない?」
「大丈夫です」
 二人分の声が重なる。ステラはそれを聞いてほっとした。とりあえず、紙の回収を手伝おうとかがみこむ。背中側から甲高い声が響いたのは、そのときだった。
「どうしたの?」
 強気な少女の声。聞くだけで自然と背筋が伸びそうな音は、「紫陽花のお嬢さん」特有のものだ。ステラは振り返ろうとして、けれど途中で動きを止めた。
 妙にひっ迫した、胸をざわつかせる声がする。視線を戻して、まずい、と思った。ミオンの顔が極端に青ざめている。ステラが先ほど聞いた声は、彼女のかすかな悲鳴だった。
 生徒の群れが不穏にざわめきはじめる。何をするでもなく戸惑っている彼らに、ブライスが「はいはい、みんな準備準備ー」と声をかけて追い払っていた。レクシオの姿はない。輪から出て、シャルロッテのもとへ走ったらしかった。
「大丈夫だよ、いくらあいつでもこの程度じゃ怒らないって」
「怒ったように聞こえるけどな、確かに」
「おい、かえって怖がらせるようなこと言うなよ」
 紙を集めていた男子生徒二人が、ミオンに声をかけている。しかし、ミオン本人の耳には届いていないようだった。彼女はうつろな目を足もとに向けて、小刻みに震えている。ステラ自身の経験上、ああなると声がけはあまり意味をなさない。とりあえずステラは、彼女の背中に手を添えてなでた。まずは呼吸を落ち着かせなければ。
「ミオンさん、聞こえる?」
 少し声を大きくして、顔の近くで呼びかける。困ったように視線を交わす男子生徒に先生を呼んでくるよう頼んでから、ステラはさらに声をかけた。
「大丈夫、大丈夫だよ。怖いことはないからね」
 ――それは、ステラが孤児院で取り乱していたとき、ミントおばさんがかけてくれた言葉だ。陽だまりのようにやわらかな声を思い出しながら、ステラは少女の背中を撫で続ける。
「まずは深呼吸しましょ。しっかり息を吸って、吐いて。できる?」
 ささやいた直後、ステラは手を止めた。頭の奥をひっかくような違和感と、立ち昇る妙な空気を感じて眉を寄せる。
 実態のつかめなかったものが急に濃くなって、霧のように広がった。
 それは確かに、魔力だ。それまで確信が持てなかったステラも、今度こそははっきりとわかった。ミオンの魔力は強大で、異質だった――『銀の選定』の夜に感じた正体のわからない魔力と同じで。
「これは――」
 これは、危険だ。彼女の本能は、怯える子を前にして容赦なく警鐘を鳴らす。
 ステラはとっさに後ずさった。同時、危険を知らせる叫び声がそこらじゅうに響き渡る。その後、ステラ一人に向けても、警告の一声が放たれた。
「ステラ、離れろ!」
 耳に馴染んだ声と魔力。それを察知した直後、足音が響いて影が差す。
 ステラが振り返って名前を呼ぼうとしたとき――視界が強い光に覆われた。

 反射的に目を閉じた。そんなステラのそばに人の気配が現れる。
 光は一瞬で収まったが、すぐには目を開けられない。闇の中に色とりどりの光がちらちらと漂った。それらが少し落ち着いたとき、ステラは周囲が妙に静かなことに気がついた。
 恐る恐る目を開ける。視界は薄い金色に染まっていた。魔導術による防壁だ。そのむこうに、うずくまるミオンの姿がある。だが、あたりが光る前とは微妙に雰囲気が違って見えた。
 体の力を抜いたステラは、ゆっくりと周囲に視線を走らせる。彼女のまわり、かなり広い範囲に防壁が張られていて、その中に困惑ぎみの生徒がちらほらといた。ブライスの姿もその中にある。
 防壁の外はどうなっているのか。目を凝らしてそれを確かめたステラは、愕然として動きを止めた。
 金色の先にいる人々は、うつ伏せや横向きで床に倒れている。誰一人として、動く気配がなかった。