第一章 転入生の秘密(5)

 彼女たちに味方はいなかった。
 外の人々は、彼女たちを怒鳴り、殴り、嘲り、侮蔑の目を注ぐ。
 彼女の味方は一緒にいてくれる親族だけだった。だから彼女たちは身を寄せ合い、潜み、互いの傷をなめあうしかない。彼女にとってもそれが普通になっていた。
 けれど、世界は彼女たちの何倍も大きい。彼女たちだけで完結する世界は、全世界の片隅の小さな小さな箱庭に過ぎない。箱庭の外は様々な色と音と命に満ちている。
 それを見るたび、聞くたびに、彼女はうずくまる。耳をふさぐ。
 箱庭の外を知ってしまうことが、自分たちがどうあってもそこに入れないことを思い知るのが、彼女はどうしようもなく怖かった。

 広大な敷地を持ち、帝国で一、二を争うほど多くの学生を抱える『クレメンツ帝国学院』。その限られた区画だけが、今は不気味な静寂に包まれていた。
「ええー? 何これ、何が起きたの?」
 廊下の一部に広く張られた、魔導術による防壁。その内側で、赤毛の少女ことブライス・コナーが目を丸くしている。つま先立ちで防壁の外側を見渡した彼女は、それからうずくまっているおさげの少女を振り返った。
「転入生ちゃんがなんかしちゃったの? 魔導術?」
 防壁の内側にいるほかの生徒が、目を泳がせている。ここは『武術科』だ。魔導術に詳しい人はほぼいない。みんながブライスと同じように困っていた。
 その中でただ一人、ステラの幼馴染が苦々しげに口を開く。
「魔導術だ。それも、かなり珍しい」
 レクシオはステラのすぐ後ろにいた。正確には、あたりが光る寸前、彼女に飛びついて防壁の魔導術を展開したらしい。彼はその場で胡坐をかくと、ステラの肩を叩いた。
「ステラ、あの子をもう一回見てみろ」
「え?」
 ステラは疑問に目を瞬いた。言われるがままミオンの方を見て、瞠目する。
 少女に覆いかぶさるようにして、光る図形が重なって見えた。奇妙な文字と図形の連なりは、ぐるぐると回転し、明滅しながらそこにとどまり続けている。
「な……何これ」
「構成式」
 唖然として呟いたステラに、レクシオが淡白な答えを寄越す。彼女は幼馴染を振り返り、驚愕をそのままぶつけた。
「構成式って、これが? こんなの見たことないよ」
「めったに見ない魔導術だからな。今やカーターが使う術より貴重だろうよ」
 淡々と説明する少年の声は苦り切っている。その意味がわかるようでわからないステラは目を細めて、彼が構成式と呼ぶものをにらんだ。複雑に絡み合った図形の重なりは、光り続けていることもあって目に優しくない。遠目に見ているだけでも、気分が悪くなりそうだった。
「つまり、これは魔導術の暴走ということ?」
 後ろから声が近づいてきた。ステラはぼんやりと振り返り、金髪碧眼の少女をながめる。シャルロッテは眉を下げ、瞳に不安と苦渋の光を湛えて防壁の先を見据えている。彼女のそんな表情を見るのは、初めてだった。
 それでも淀みのない足取りで踏み出してきたシャルロッテに、うなずいたのはレクシオだ。
「おそらく。錯乱した拍子に彼女がよく使う術が発動しちゃったんでしょうね」
 端的に答えてから、彼はただ、と言葉を繋ぐ。
「魔力暴走はよく聞く話ですけど、構成式ありきの魔導術が暴走することはめったにないんです。……『魔導科』の友人の受け売りですけど」
「確かに、私も魔力暴走は聞いたことがあるけど、術の暴走というのは聞かないわね。そんな珍しい現象をどうやって止めればいいのかしら」
 シャルロッテが思案しつつ呟くと、その場の空気が乾いてひび割れた。違和感をおぼえたステラがあたりを見回せば、防壁の中にいる生徒の視線が彼女の背に集中している。――彼らの気持ちもわからなくはない。だが、シャルロッテ一人を責めるのも違うだろう。ステラはそう思うが、責任の一端が自分にもあるという自覚があるだけに、声に出しては言えなかった。ため息をのみこんで、眉間に寄ったしわを軽くほぐす。
 一方のシャルロッテは、この沈黙をどう捉えたのか、背後を一瞬振り返ってからミオンに視線を戻す。
「このままじゃ危ないでしょう? 外のみんなも、あの子も」
「そうっすね」
 レクシオは肩をすくめ、ほのかな笑みを消した。その視線が防壁の外側――この階の廊下に向く。ステラも彼と同じ方を見た。
「そういえば、先生来ないね」
「呼びにいった二人も影響を受けてるかもな。階段を下りてる最中とかじゃないといいけど」
 想像してステラは青ざめた。それに気づいたらしいレクシオが、頭を軽く叩いてくる。見上げると、彼は口の端を少し持ち上げた。
「それに、来てもらったところでどうにもならない。多分ぶっ倒れて終わりだ」
「えー? じゃあ、どうするのさあ」
 明るい声が弾みながらやってきた。いつの間にかシャルロッテのすぐ後ろに来ていた赤毛の少女が、両目を不満げに細めている。金髪の少女は、それをぎょっとして見ていた。彼女たちのやり取りにレクシオは関心を示さず、顔をミオンの方へ向ける。
 その瞬間、彼の中でどのような思考が巡っていたのか、ステラは知らない。確かなことは一つだ。レクシオが、防壁を一瞬だけ解いた。
 その動作を目にしていたのはステラだけだ。ブライス含めほかの生徒には、防壁が一瞬消えてまた現れただけのように見えただろう。ざわめきの中で、同級生が困惑ぎみに顔を見合わせている。
 術を解いたその瞬間に、レクシオは防壁の外へ出ていた。ステラは慌てて呼びかけたが、それに対して幼馴染は悪戯っぽい笑みを見せただけである。彼はステラに背を向けて、ミオンの前でしゃがんだ。彼女に対して何か声をかけているように見える。
 誰もが息をのんで見守る。その中で明確な変化に気づいた人は、ごくわずかだろう。明滅する構成式の上に、新たな構成式が現れた。淡い緑色に輝く構成式は、複雑だが整然としていて、芸術的な美しささえ感じられる。
 緑色の構成式は暴走したそれを覆い隠すように広がると、ほどけて薄い光と化した。一人の少女だけが見守る中、光は空気に吸い込まれるようにして消えていく。その下に別の構成式はない。代わりに、ミオンの体が前へ揺らぐのが見えた。
 倒れた体を受け止めた少年が振り返り、防壁の魔導術を解く。同時に、そこかしこから鈍いうめき声が上がった。倒れた生徒たちが次々起き上がりはじめるのを見て、無事だった生徒たちは困惑の吐息と歓声を漏らす。
「え、すごい。幼馴染くんが止めちゃったの?」
「うん……」
 ブライスがぴょこぴょこと飛び跳ねる。ステラは曖昧にうなずいて、周囲の様子を観察した。起き上がっている人たちはどことなく眠そうにしているが、痛がったり苦しんだりしている人はいない。むしろ、何が起きたか知らないがゆえの混乱の方が大きそうだった。彼らのもとには防壁の中にいた生徒たちがすでに駆け寄って、助け起こしたり状況の説明をしたりしている。
 ステラは首をひねって、幼馴染を顧みた。彼の腕の中には、おさげの少女がいる。
「レク! ミオンさんは――」
 呼びかけると、レクシオはこちらを見て片手を挙げた。
「気を失ってるな。念のため医務室に連れていった方がいい」
「あっ。それならあたしも」
 行く、とステラが言いかけたところで、廊下に足音がこだました。数は四人分。振り返ると、男子生徒二人が大人たちを連れてきてくれていた。先ほど、ステラが先生を呼びにいくよう頼んだ、あの少年たちだ。二人とも、どこかに怪我を負った様子はない。
「あらら。みんな、何があったの?」
 明瞭かつ切れ味のよさそうな声で呼びかけたのは、テイラー先生だった。それに気づいたシャルロッテと数人の生徒が事情を説明するために駆け出す。
 自分たちの出る幕はなさそうだ。ステラとブライスは目を合わせると、レクシオたちの方に足を向けた。

「魔力の消耗と疲労で一時的に気絶したんだろうね。二、三時間もすれば目を覚ますだろう」
 医務室の先生はミオンの白い顔を見て、そう言った。彼の言葉に、三人はほっと肩を落とす。
 年齢はよくわからないが、おそらく三十歳程度。丸い顔につぶらな瞳、優しげな目つきだが、考えていることは読み取りにくい。それが医務室の先生だ。魔導術にも詳しい医師で、必要があれば男子寮に赴くこともあるという。
 その先生は、もぞもぞと話を続けた。口の動きに合わせて、蓄えられた顎髭がもごもごと動く。
「後のことは私に任せてくれていい。テイラー先生にも連絡を入れておくよ。みなさんはもうお帰り」
「はーい」
「ありがとうございます」
 穏やかだが感情の読み取れない彼の言葉に、ブライスが元気よく手を挙げた。その隣で、ステラは深々と頭を下げる。踵を返したそのとき、後ろから先生の声がかかった。
「ああ、エルデくん。君はもう少し残ってくれるかい。暴走を止めたときのことを詳しく知りたいんだ」
「おっと、そうでしたね。わかりました」
 先生と少年のやり取りを聞き、ステラはちらりと振り返る。しかし、幼馴染の後ろ姿しか見えなかった。
 しかたなくブライスと並んで医務室を出る。ちょうど陽が傾いてきていて、街並みの隙間から鋭い陽光が差しこんできていた。
 橙色に染まった廊下を歩く。ブライスの足取りは弾んでいたが、これは癖のようなものなのかもしれない。顔を見たら、いつもよりは消沈しているように見えた。
 珍しく会話をせずにいた二人の前に人影が現れたのは、ちょうど角を曲がった直後だった。ぶつかりそうになったところで、お互いがぴたりと足を止める。ほとんどぶれのない停止は、武術科生特有の身ごなしであった。
「あっ」
 相手が、焦ったような声を上げる。その顔を見て、二人の少女は目を瞬いた。
「あっ、紫陽花さんだー。先生とのお話は終わったの?」
「その呼び方は気になりますけど……まあ、はい」
 シャルロッテ・ハイドランジアは微妙な表情で赤毛の少女を見下ろす。彼女の襟首をつかんだステラは、頭を下げた。作った笑みが引きつったのは、多分ブライスのせいだ。シャルロッテは気まずそうにお辞儀を返す。その様子を見て、ステラもブライスも彼女がここにいる理由を察した。
「ミオンさんなら大丈夫だよ。疲れてるだけで、二、三時間もすれば目を覚ますだろうって」
 医務室で聞いた話を多少ぼかして伝えると、シャルロッテは碧眼を見開いた。気まずそうに逸らされていた視線が、まっすぐにステラを射抜く。
「無事ならよかった。でも、そういうことなら、すぐには謝れそうにないわね」
「謝るって……ハイドランジアさんは何もしてないんじゃ……」
「怖がらせてしまったのは私なので」
 切り返す声ははっきりしているが、淡白だ。なんとも言えずにステラたちが顔を見合わせていると、彼女は黄金色のまつ毛を震わせる。
「わかってはいるつもりなの。私がひとを怖がらせていることがある、というのは」
 少女の声が、少し和らいだ。浮かんだ笑みはおどけているようで、けれど、泣きそうでもあって。
「でも、『武術科』の人って結構我が強いでしょう。今くらい強気でいないと、彼らの勢いに負けてしまいそうになるときがあって。――そう思って過ごし続けているうちに、態度を変えるということができなくなっちゃったの。くせになったのかしらね」
 碧眼に浮かび上がった瑕を見て、ステラは息をのむ。とっさに言葉が出なかった。一方、赤毛の少女は頭を傾け、いつもの目で紫陽花の少女を見上げている。
「うーん。それは別に悪いことじゃないんじゃない? 怖がる人もそりゃいるだろうけどさ、わざと相手を威圧するよりはマシだよ。シアみたいに」
 彼女がシアと呼んだのは、友人のシンシア・ネリウスだ。それを聞いてステラは、飛び跳ねていた彼女の赤毛をつまむ。
「あんた、それシンシアに聞かれたら頬が変形するわよ」
「大丈夫。上手く逃げるから!」
「そしたらオスカーに捕捉されて終了ね」
「えー。なんで部長がシアの味方する前提なのさ」
 ブライスが口を開くと、ステラはついつい彼女の勢いに引っ張られる。今回、そのことに気づいたのは、シャルロッテの笑い声が聞こえたからだ。口に拳を当てて笑いをこらえていた少女は、二人の視線に気づくと手を振った。
「ごめんなさい、つい……」
「いえ。こちらこそ、内輪で盛り上がってごめんなさい」
「でも、おかげで元気が出たわ。ありがとう」
 笑いをかろうじて引っ込めたシャルロッテが頭を下げる。自分は特に何もしてない、とステラが言う前に、シャルロッテは制服をひるがえして歩き出してしまう。去り際、彼女は一度だけ足を止めた。
「それと、私のことはロッテと呼んでくれていいわ。そのままだと長くて大変でしょうから。もう一人の男の子にも伝えてね」
 初めて聞く彼女のおどけたような声に、ステラとブライスは驚いて口を開く。棒立ちしているうちに、シャルロッテの姿は黄昏時の薄闇の中に消えていた。

 ミオン・ゼーレが三日間の寮内謹慎処分となった――というのを知ったのは、その翌日のことである。