序章 雪の記憶

 雪が降ってきた。
 分厚く、濃い灰色の中から、白がふわりと落ちてくる。
 少女はそれを無言でながめていた。
 去年の彼女は、空から降る冷たいものに気づくと「花びらみたい!」とはしゃいで駆け回ったものだ。
 今年の彼女にその無邪気さは、明るさはない。ただ空虚だけを胸に抱えて、立っていた。
 足音と、人の声を聞く。少女は小さく肩を震わせて振り返った。
 刻々と勢いを増してゆく雪に、屋敷の回廊もかすんで映る。
 今日も本邸では慌ただしく家人たちが駆け回っている。それもそうだ。あまりにも急すぎる当主夫妻の死から、半月。ようやっと葬儀は済んだが、その後のこと、やるべきことと決めるべき事柄は山積みなのだ。
 少女もそういうことは、幼いなりに理解していた。だが、同時に、どこか遠い世界の出来事のように感じてもいた。あるいは、自分自身が生ぬるい夢の中にいるような、ぼんやりとした感覚。
 ここ最近の日常となっている慌ただしさ。そこに混じって、人を呼ぶ声がする。
「お嬢様! ステラお嬢様! どちらにいらっしゃいますか!」
 少女は再び、肩を震わせた。反射的に、屋敷に背を向けて、走り出す。
 いけないことだ。わかっている。それでも今は逃げ出したかった。
 身を切るような冷気のただ中に飛び込んだ。静寂と白に染まる世界を走りながら、少女は無意識のうちに、呟いていた。
「あにうえ」
 声が、手足が震えていることには、気づかない。
「あにうえ……!」
 あるのはただ、空虚と渇望だけだ。

 それから、どれくらい走っていただろう。息が上がってきたところで、少女はのろのろと足を止めた。
 兄の姿を探し求めていた。それだけで、特にあてがあったわけではない。だから、彼女は自分が駆けてきたその場所を見渡して、顔を引きつらせた。
 街の、共同墓地。先日、少女の両親が行き着いた場所。あのときは、悲しげな――あるいは、そういう『ふり』をした――人たちが大勢押し寄せて、異様な空気を醸し出していたが、今は逆に不気味なほど静まり返っている。
 物音ひとつ立てるのも憚られるような、静寂の中。少女は、ふらりと歩き出した。何かに吸い寄せられるように墓石の間をすり抜ける。一番奥までぐんぐん進み、そして、見覚えのある影の前で止まった。
 大きな背中。
 数少ない、怖くない家族。
「あにうえ」
 その背に向かって、声をかける。すると彼は――少女の兄は、ゆっくりと振り向いた。
「ああ。誰かと思えば、ステラか」
 言葉とは裏腹に、兄の微笑は静かだった。日々鍛錬をしている彼のことだ。少女が近づいてくるのにも、早くから気づいていたに違いない。
 少女は、兄の笑顔を見て、頬のこわばりを緩める。無意識のことだった。
「こんなところまで来て、どうしたんだ?」
「あにうえにお会いしたくて。気がついたら、ここにきていました」
「……そうか」
 彼は、そうっと手を伸ばしてくる。少女は安堵して、その手を握った。
「今頃、侍女たちが心配しているだろうに」
「……今は、お家にいたくないです」
「そうか」
 兄は、またそう言って、少しだけ目を伏せる。少女が首をかしげた直後、その頭を優しくなでてきた。
「なら、しかたがないな。あとで一緒に怒られよう」
「……ごめんなさい」
「気にしなくていい。今だけ特別、だ」
 おどけたような彼の言葉に、どのような意味と思いが含まれていたのか。このときの少女には、その断片すらもよくわかっていなかった。ただ、「特別」という言葉と兄の手のぬくもりを大切に抱きしめる。
 何気なく、前の墓石に目を留めた。先月まではなかった、二つの白い石板。その表面には、名前と生没年だけが刻まれている。
 やっぱり夢の中にいるみたいだ。少女は視線をさまよわせた。
 父と母がここにいる。けれど、いない。もう、自分の頭をなでてくれたり、剣の稽古をしてくれたり、笑ってくれたりしない。
 頭では理解していても、それは少女の中では朝霧に浮かぶ景色のようにぼやけている。
『なんでも、保護していた旅人に殺されたとか……』
『あのディオルグ卿とリーシェル殿が? 馬鹿な』
『それ見ろ、人の好さがご自分の首を締めたのだろうよ』
 誰かのささやきが、頭の中で反響する。
 それは、ただの噂ではない。本家の中から漏れた「情報」だ。そのことを、少女はなんとなく理解していた。
 その旅人は、何を思って父と母を殺したのだろう。憎いとか怖いとかよりも先に、少女は不思議だった。
「ステラ」
 兄の声が、闇の中を揺蕩っていた少女の意識を引き上げる。手を握り返される感覚。太く、乾いた指がかすかに震えていることに、初めて気がついた。
「あにうえ、寒いですか? お家にもどりますか?」
「ああいや、大丈夫だよ。多分……寒いんじゃなくて、怒っているんだ」
「おこって、いらっしゃったのですか」
「ステラに対してじゃない。父上と母上を殺したという者に対してだ」
 少女は、息をのむ。また先ほどの声が反響した。
 兄には、「怒り」と「憎しみ」が存在するらしい。自分はどうだろう。少女はまた、頭を傾ける。
「正直言って、俺はそいつが憎い。この気持ちは、きっと、抑えられるものじゃない。けど、ステラには……そういうふうに思ってほしくはないな」
「なぜですか」
「……後戻りができなくなるからだ」
 兄の言葉は、よくわからない。よくわからなかった、このときは。
 だから少女は、その手をぎゅっと握って、視界を覆う雪とその先の墓石を長いこと見つめていた。