第一章 厳冬の便り(3)

 便箋と向き合う。兄から届いたそれよりは少し薄く、表面の粗さが際立っている。それでも、学生の身で入手できるものの中では最も上質な紙だった。
 ステラはペンの感触を確かめると、便箋にそれを走らせた。何度もインクをつけ直して、そのたびに深呼吸を挟みながら。一文一文、慎重に、記していく。
 誰かに手紙を書くなど、数年ぶりのことだ。しかもここまで品であるとか言葉遣いであるとか、そういったものを意識したのは初等部以来である。便箋二枚ほどを埋めるのに、恐ろしいほど精神をすり減らした気がした。
 ひと通り文章を書き終えると、ペンのインクを丁寧にふき取って、蓋をして、ペン立てに戻す。そこまでの動作を終えてやっと、ステラは全身の力を抜いた。思いっきり伸びをして、しばらくぶりの深呼吸をすると、中途半端に冷えた室内の空気でさえ美味しく感じる。
『クレメンツ怪奇現象調査団』のシュトラーゼ遠征の話が持ち上がって、ほどなく。全員が冬期休暇序盤の予定を空けることができたと確認が取れた。休み明けだったこの日、ステラは学院から孤児院に戻ってすぐ、ラキアスへの返信をしたためていたわけである。
 冬期休暇の初めから、冬の大祭までの期間に帰省すること。そこへ友人が五人ほど同行すること。年末年始はそれぞれに予定があるため、帰りは少々慌ただしくなること。そういった内容を、なるべく淡々と書き連ねた。――感情を入れると、余計なことを書きそうな気がしたので。
 インクが乾くのを待っている間、ステラは課題を少し終わらせたり、子どもたちと院内の家事を片付けたりした。嵐のような夕飯づくりが一段落したところで、ステラは手紙を慎重にまとめ、封をした。封蝋に印章を捺したのち、数年ぶりに取り出した印章指輪を見つめ、彼女は重くため息をついた。

 そして、翌日。ステラは、いつもよりかなり早く孤児院を出立していた。早くから開いている小さな郵便屋に手紙を託すと、そのまま学院とは違う方向へ足を向ける。
 目指す先は、教会だ。それも、都の片隅に佇む、小さな教会。
 馴染みの通りから逸れて、細い道を行く。元々閑静な場所だが、今は時間帯のせいか人の営みが絶えたかのように静まり返っている。遠くで聞こえるカラスの鳴き声が、その雰囲気をより際立たせていた。
 そういえば、初めてこの道に足を踏み入れたときは幼馴染が一緒だった。やや色褪せた記憶をなぞりながら、ステラは自分しかいない道の土を一歩ずつ踏んでゆく。
 道の先、教会の輪郭が見えたところで、ステラは目を瞬いた。建物の前に人影を見出したからだ。自分と同じく制服姿の『彼ら』に手を振りながら、ステラは足を速めた。
「おはよう!」
「よっ、おはようさん」
「お、おはようございます……」
 声をかける。それにレクシオが飄々と応じ、カーターがおずおずと頭を下げた。なかなか見ない取り合わせの二人が、ステラと教会前で落ち合ったのには、一応それなりの理由があった。
「今、神父様は中で色々準備してるみたいだ。状況はあらかた話しておいた」
「ありがと。助かる」
 肩をすくめて補足してくれた幼馴染に、ステラは少年のような笑みを向けた。そんなやり取りをしていたところで、教会の扉が悲鳴を上げながら開く。内側から顔をのぞかせたのは、穏やかな雰囲気を漂わせる神父だ。
「お待たせしました、どうぞ中へお入りください。……おや、ステラさんもいらっしゃったのですね」
「エドワーズさん、お久しぶりです」
 学生が一人増えたのを見て目を丸くした彼に、ステラは軽く会釈する。この教会を預かるエドワーズ神父も、ふんわりとほほ笑んで応じてくれた。
「お久しぶりです。ようこそおいで下さいました」

 三人は今回、資料室に通された。かつて案内してもらった、そして隠されたラフィア神話を知るきっかけにもなった場所。独特の香りに鼻孔をくすぐられながら奥へ奥へ歩いていくと、小さな机に本が山積みされているのが見えた。その妙な威圧感に、ステラは息をのむ。
 エドワーズは三人に椅子をすすめたのち、落ち着いた様子で切り出した。
「『セルフィラ神族』については、私にできる範囲で調べました。それについて皆さんに報告できることが、大きく分けて三つほどあります」
 言葉の終わり、声色が少し硬くなる。学生たちはこわばった互いの顔を見合わせた。
 ――エドワーズ神父のもとを訪ねたのは、むろん、セルフィラ神族を名乗る神々についての調査の進捗を聞くためだった。レクシオと『魔導の一族』を巡る騒動のこともある。敵対するであろう彼らについては、少しでも情報が欲しかった。
『銀の翼』であるステラに加え、レクシオが同行していたのは、件の騒動の中心にいたから、そして彼の父親がセルフィラ神族と敵対していることがはっきりしたからだ。カーターは十人の中で唯一の教会関係者だからと、オスカーについていくよう言われたらしい。彼は騒動の折り、ギーメルとダレットに遭遇している。来てくれたのは、ステラとしてもありがたかった。
 エドワーズは指を三本立てた。それから、薬指をゆっくりと折り曲げる。
「第一に。ステラさんたちが遭遇したという神族について、名前などの情報はほとんど得られていません。ただ――ラフィア神を裏切った、特に力の強い神族についての記述を見つけました」
 彼はそこで言葉を止めると、本の山から一冊を抜き取って、開く。黒い革表紙のいかにも古そうな本だ。カーターが、何かに気づいて顔をこわばらせる。
「あの……神父様、その本は」
「ラフィーナの大聖堂に保管されている、ラフィア神族の伝承を集めた書です。ちょっと交渉をして、送っていただきました」
「ちょっとって……」
 エドワーズは茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。その言葉に、未来の司祭は片側の頬を引きつらせた。ステラとレクシオも、顔を見合わせる。彼がいささか無茶をしたということは嫌でも伝わった。
 当の神父は淡々とページをめくり、その手を止めると、開いた本を三人の前に置いてみせた。変色したページに綴られている言葉は今より少し古いものだが、ステラでもところどころは読める。
「姉妹神の争いの後、セルフィラ神に付き従った神族のうち、特に能力や位の高かった者について書かれています」
 その、神々のことだろう。ページの中央に列挙されている短文を、エドワーズの優しい声が読み上げる。
 火と戦の神。
 情愛と欲の神。
 知識と先見の神。
 冥府と沈黙の神。
 そして――天と生ある獣の神。
「神族の中には、同じ力を持った神がたくさんいらっしゃいます。セルフィラ神についたのは、そのうちの一柱ということになりますね」
 穏やかな、けれど淡々とした彼の解説に、学生たちはうなずく。ステラは無意識のうちに唇に指を添えて、書物を見下ろしていた。
 どの文言が誰を指すのか、おおよそ想像はつく。だが『天と生ある獣の神』だけは、よくわからない。
「第二に。最後の神様だけは、名前がわかっています。天と生ある獣の神、レーシュです」
 ステラの思考を読み取ったかのような、神父の声が響く。ステラは、中指を曲げた彼を見返して、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「へ? なんでその神様だけ名前がわかってるんですか?」
「ラフィア神族であった頃から、ラフィア様に近い立場にあり、なおかつ力の強い神だったのです。姉妹神の対立以前の伝承にもよく名前が登場しています」
「それで、旗を変えたときのことも人間たちにしっかり伝わってる、ってわけですね」
 しかつめらしいレクシオの言葉に、エドワーズはうなずいた。
「どうも、レーシュはもとからセルフィラ神に傾倒していたようです。明確にラフィア様と対立した時のことまでは、わかりませんでしたが……」
「いえっ、そこまでわかれば十分ですよ! 貴重な情報、ありがとうございます」
 ステラは慌てて顔の前で手を振り、神父に礼を述べた。
 ――レーシュ、というのは、聞いたことがない名前だ。今暗躍しているセルフィラ神族が、仮にエドワーズが見つけた記述の神々だけだとすると、まだ接触したことのない一柱ということになる。
 恐ろしくはあるが、まだ自分たちの知らない相手がいると知っているだけでも、心の持ちようは変わるものだ。
 少女のまっすぐな言葉に、神父は口もとをほころばせる。だが、柔らかな笑顔はすぐ影に隠れた。分厚い本を閉じた彼は、その革表紙に視線を落とし、最後の一本、人差し指を丸める。
「第三に。これが……少し気になることなんですが。『銀の選定』の日に教会で遭遇した、アインという女の子を覚えていますか?」
 彼の問いは、ステラとレクシオに向けられたものだ。二人は視線を交わした後、無言でうなずく。朱色の髪を持つ、高い声が印象的な少女。ギーメルほどではないにせよ、その存在はステラの頭の中にもしっかりと残っている。
 そのアインについて、エドワーズが語ったのは――
「彼女に該当する神族の記述が、ひとつも見つかっていないんです」
 心が冷えるような一言だった。
 誰かが息をのむ。部屋の明かりがかすかに揺れて、床板に映る影が不気味に躍った。自分の裡にいる「何か」が、自分自身をあざけっているようで――ステラは我知らず、体をかき抱いた。
 顔色を悪くした同行者たちを見かねてか、みずからも眉根を寄せているレクシオが、口を開く。
「どういうことですか? まだ見つけられていないだけなのか、本当に情報がないのか」
「確かなことは言えません。私が見つけられていないだけ、という可能性も、もちろんあります。ただ、ラフィーナの書物や口伝をここまで探っても記述が見つからないというのは、少し不自然だと考えています」
 エドワーズは、苦々しげにこめかみを押さえた。
「ですから、皆さんにも『情報がないこと』を頭の隅に留めておいていただきたいんです」
「そう、ですか」
 それもまた、神父の気遣いだろう。そして彼自身もかなり困っている。そのことを読み取ってか、レクシオはいつかのような追及はしなかった。少し考えこんだ後に「お心遣い、どうも」と頭を下げる。ステラとカーターがそれに倣うと、エドワーズはほほ笑みをつくって応じた。
「少しでも、お役に立てていればいいのですが……。お互い、今後も気をつけましょうね」

 資料室から出ると、なかなかいい時間になっていた。時計を見たことで初めてそれに気づいた学生たちは、慌てて鞄を手に取ると、物柔らかな神父にお礼を言う。
 今日はこれから学院の朝礼、そして講義だ。あまりのんびりしてはいられない。だが、鞄を肩にかけたステラは、エドワーズに呼び止められて振り返る。
「ステラさん。もう一つ、伝えておきたいことがありまして」
「伝えておきたいこと、ですか?」
「はい。と言っても口頭で説明する時間はなさそうなので、こちらをお渡ししておきます。お手すきの際に目を通しておいてください」
 神父が差し出してきたのは、封筒だった。それ自体は下町でも手に入るようなものだが、受け取ってみると妙に厚い。何が入っているのだろう、とステラは首をかしげた。
「あの、これは一体……?」
「『金の選定』の、わかる範囲での詳細を記しておきました。――シュトラーゼの冬の大祭も近いことですし、知らせておくべきかと思いまして」
 もうひとつの女神の選定と、冬の大祭。結びつきそうもない言葉が神父の口から飛び出したものだから、ステラは唖然としてつかの間固まってしまった。思わず、同行者に視線を送る。しかし少年たちも、怪訝そうに顔を見合わせていた。
 エドワーズは、それ以上語らない。ただ「よろしくお願いします」と軽く頭を下げただけだ。ステラたちの方も時間がなかったので、詮索したい気持ちをぐっと堪えて、教会を辞する。
 大通りに向けて駆け出した少年少女の胸中には、名状しがたい感情の靄が、長いこと渦巻いていた。