第二章 北極星の一門(6)

 ラキアスとの鍛錬を終えて朝食を済ませた後、ステラは出かける支度をしていた。両親の墓参りに行くためだ。
 雪の上を歩かなければならないのは、最初から承知の上だった。吹雪でないだけましである。むしろ、降りだす前に行ってしまった方がいいと思っていた。兄や祖父もおおよそ同じ考えらしく、止めるどころか「行ってくるといい」と背中を押してくれた。
 荷物はさほど多くない。鞄と財布くらいなものだ。だから、準備も手早く済ませられた。
 防寒具をしっかりと身にまとい、玄関へ向かっていたステラは、けれど途中で足を止めた。かすかに動いた空気が、一瞬だけうなじをなでる。
「ステラ」
 淡白な声がかかる。なじみ深いその音は、つかの間ステラの胸を締めつけた。けれど、それを表情には出さず振り返る。
 レクシオが立っていた。まだ少し疲れたふうだったが、昨日よりは顔色がよい。
「レク。どうしたの? 出歩いて大丈夫?」
「心配ご無用。それより、今から墓参り行くんだろ?」
「うん」
 なぜ知っているのだろう、とステラは首をかしげた。が、すぐに思考を放棄する。大方、リオンあたりにでも聞いたのだろう。
 ステラが首肯すると、レクシオは一瞬気まずげに目を伏せてから、ほほ笑んだ。
「それ、俺も一緒に行っていいか?」

 レクシオが墓参りへの同行を申し出ることは、何もおかしなことではない。むしろ、自然なことだろう。彼も当事者だったのだから。
 それでもステラの中に落雷のような衝撃が走ったのは、昨日のことがあったからかもしれない。自分の心に自分で戸惑いつつも、ステラは彼の言葉を受け入れた。彼の体調面も心配だったが、本人が大丈夫だと言い張るので、それを信じることにする。秋の一件もある。何か引っかかることがあればすぐに言ってくれるだろう――と、ステラは胸中で自分に言い聞かせた。

 昨日みんなで通った道を、今日は二人だけで行く。相変わらず雪の絨毯は街中を覆いつくしているが、空は気持ちがいいほど真っ青だ。ただ、まだらに雲が出てきているので、また降りだすかもしれない。できるだけ早く帰ろう、とステラは決意を固めた。
 雪玉を投げ合って遊ぶ子どもたちを横目に見つつ、方向を変える。閑静な通りに入った。
 途中、花屋に寄って少しだけ花を買った。時期的なこともあってあまり種類はなかったが、それでも構わなかった。もとより両親は、華々しく目立つことは望んでいなかった。
 花屋を出て、また歩く。
 ここまでの間、二人はほとんど無言だった。ステラとしては、何を話してよいかわからなかったのだ。それでも沈黙に耐えかねて、目的地までの道中に口を開く。
「お二人のお墓は共同墓地にあるの。生前からかねがね、目立つところに埋めるなって仰ってたから、その希望に沿った形ね」
「はは、ディオルグさんたちなら言いそうだな」
 レクシオはためらいがちにしながらも、ほほ笑んで応じる。ステラはそのことに安堵しつつも、胸がざわつくのを自覚した。彼の口から父の名前が出てくることに、なんともいえぬ違和感を覚える。
「……本当に、この街に来たことがあるんだね」
「ああ。ま、そうは言っても覚えてることなんてほとんどないけどな。それでも、あの家での日々が温かくて楽しかったってのは確かだ」
 雪を踏む。その音が響く。
 レクシオは、淡い笑みを口もとに刷いた。
「何があってディオルグさんと親父が決裂したのかは、わからない。ただ、俺はラキアスさんの言った通りだと思ってる。――親父だけでなく、俺自身の過ちでもあるんだ」
 ステラは思わず、一瞬足を止めた。慌てて足を動かしながら、頭の中でいくつかの言葉を組み立てたが、そのすべてを打ち消した。ただの否定も、慰めも、なんだか違うような気がしたのだ。
 祖父とのやり取りを思い出す。花束を抱え直しながら、ステラは小さく息を吸った。
「あんたが、そこまで責めることじゃないよ。少なくとも、今のあたしはそう思う。大人の後についていくのが精いっぱいな子どもじゃ、どうしようもないことだって多いよ。子どもなりに一生懸命考えてても、体や知識が追いつかない。……あたしだって、そうだった」
 ヴィントとレクシオがこの街にいたであろう期間に、ステラとラキアスは帝都にいた。ラキアスの社会勉強にステラがついていった――行かされた格好だった。長い長い旅の後、故郷に帰ってきたときには、事件が起きて、終わっていた。
 レクシオに罪があるというのなら、自分だって同罪だ。無知で、自分の意志を示すこともできず、ただ縮こまっていた。その結果が事件の後の醜態であり、今のステラ・イルフォードなのだから。
 あるいはその罪悪感を、自分もずっと抱えてきたのかもしれない。少女はそっと微笑を吐き出し、目を細める。――厳冬の空気は、頬にも心にも痛い。
「正直、すべてを納得できたわけじゃない。そもそも、昨日のことが夢だったんじゃないかとすら思ってる。実感が湧いてきたら、レクたちが急に憎くなるのかもしれない。それが、怖い」
 鞄を持つ手に力がこもる。
 最悪の可能性を考えると怖くなる。
 否、最悪の可能性を否定できない己こそが、何よりも怖いのだ。
「それでも、今は、レクが悪いだなんて思ってないし、憎みたくない。あたしにとっては、学院で出会ってからのレクがすべてだから」
 口でそう言いつつもレクシオの顔をまともに見れないのは、恐怖がまだ心にこびりついているからだろう。
 レクシオは「そっか」とだけ言った。感情の読めない答えが、今は泣きたいくらいにありがたかった。
 せめて、前を向こう。そう思って顔を上げたステラの視界が、ちょうど開けた。目的地の影が見えてくる。それと同時、空がまた分厚い雲に覆われた。

 広々とした共同墓地は静かで、ひと気もほとんどない。そうそう人が殺到する場所でもないが、今日はより静かなように感じられた。――ここへ来るのは十年ぶりだというのに、不思議なものだ。ステラは我知らず口の端を持ち上げた。
 記憶に従って歩く。その後をレクシオが黙ってついてくる。墓石の林を見回している間にも、白いものがちらついて、みるみる勢いが強くなった。
「あれま、また降ってきちまったか」
「こりゃ盛大になりそうね。簡単な挨拶と報告だけして帰るか」
 手を広げて呟いたレクシオに、ステラも苦笑を投げ返す。せっかく花まで買ったのに滞在時間が短くなるのは寂しいが、街中で遭難するよりはいいだろう。レクシオの体調もまだ心配だ。お互いに無理はしない方がいい。
 少し歩調を速めて、奥へ進む。やがて、懐かしい墓石が見えてきた。きちんと手入れされた墓石、だがその表面に刻まれているのは、生没年と名前だけだ。まだ見えなくても、わかる。覚えている。
 やっと帰ってこられた。
 安堵とかすかな喜びに口もとを緩めたステラは、しかしその表情をすぐに消した。違和感を覚えて、足を止める。
 違和感の正体はすぐにわかった。お墓の前に人影があったのだ。どう見ても兄や祖父、見知った親族ではない。
「……誰?」
「どうした、ステラ」
「いや、あの……お墓の前に、誰かいる」
 怪訝そうに口を開いたレクシオに、ステラはささやき返す。前方を指さすと、少年は目を凝らした。ややして、「ほんとだ」と呟く。
 誰だろうと首をかしげつつも、二人ともそのまま墓石の間を縫って前へ進んだ。ここで引き返すのも妙な話だし、声をかけて少しの間どいてもらえばいいだけだ。そう考えていた。
 が、二人がその場に辿り着いた瞬間。レクシオの表情が、凍りついた。
「レク?」
 ステラは思わず、ひっくり返った声をかける。彼のこんな表情は、久しく見たことがなかった。
 レクシオは、答えない。幼馴染の姿も、自分の体に薄く積もる雪もわからなくなったみたいに、ただ前を見ている。
 ステラが前を向きなおしたとき、ちょうど先客が振り返った。相手の顔がわかった瞬間、彼女も息をのむ。
 鋭く、それでいて何かが欠けたように冷たい目。緑の瞳は、雪景色の中にあって妙に鮮やかだ。
 そして、何より――幼馴染に、顔立ちがよく似ている。レクシオが年を重ねたら、きっとこんなふうになるだろうと思わされる、相貌。
 それの意味するところは、一つだ。
「親父」
 かすれた声が、墓地に落ちる。それを聞いているのは、二人だけ。
 そのうちの一人、ヴィント・エルデは、眉ひとつ動かさないまま、呟いた。
「戻ってきてしまったか、レク」