第二章 北極星の一門(5)

 レクシオは中庭の方に行ったらしい。使用人たちに尋ね歩いてその情報を得たステラは、休憩を邪魔しては悪いだろうかと思いながらも、その方へ歩みを進めていた。
 なんとなく、悪い予感を覚えてはいたのだ。空気が妙にぴりぴりとして、胸が騒いでいたから。
 予感が確信に変わったのは、回廊の方から響いた轟音を聞いたときだ。ステラは躊躇をかなぐり捨てて、駆け出した。女神の魔力を使うことも、全くためらわなかった。
 そうして、傷ついた幼馴染の前に飛び出したとき――立ちはだかったのは、兄だった。

「……一瞬とはいえ、俺の剣を防ぐとは。やるようになったな、ステラ」
 ラキアスは、微笑した。
 ほのかな苦みを感じさせる笑み。それは、彼が幼少のステラに向けたものとよく似ている。だが、ステラは、今の兄があの頃の彼でもいつもの彼でもないことを察していた。細めた目の奥にちらつく、昏い光はごまかせない。
「質問に答えてください」
 語気を荒げて繰り返す。目をすがめる。それでも兄は、口を閉ざしていた。
 ステラは背後を一瞥する。レクシオは、柱に叩きつけられた格好そのままでうつむいていた。だから、表情はうかがえない。顔も上げられないほど消耗しているのではないか、とステラは肝を冷やしたが、どうもそれだけではなさそうだ。
 ステラはラキアスに向き直る。二人の間に何があったのか。その『理由』を知るためにも。
「いくら兄上でも、友人を――彼を傷つけるのなら許せませんよ」
 半ば恫喝、宣戦布告のような言葉で畳みかけると、ようやくラキアスの唇が開いた。
「その友人が、両親の仇だったとしても、か?」
「……は?」
 もたらされた答えの意味が、ステラには理解できなかった。気の抜けた反問をしたきり放心している彼女に、兄は自分が調べて突き止めたことを淡々と語る。それは、彼がレクシオに話したことをさらにかいつまんだものだったが、もちろんステラは知る由もない。
 空虚に響いた言葉。それが意味を伴って染み込んでくると、ステラは目を見開いた。思わず背後を振り返る。幼馴染は、やはり沈黙していた。
 動揺を抱えたまま兄に向き直ったステラは、感情の読めない相貌を見て息をのむ。――幼い日に聞いた彼の言葉が、ふいに、耳の奥でこだました。
「……ヴィント・エルデが二人を殺害したというのは、確かに信憑性の高い情報なのでしょう。ですが、それはヴィントが行ったことです。血族というだけでレクシオを糾弾するのは、おかしな話ではありませんか」
「そうかな? ヴィントは子連れでイルフォード家に滞在していたんだ。その『子』が事件に何も関与しなかったとは考えにくい」
「関与って……レクシオは私と同年ですよ? たかが四、五歳の子どもに何ができたと仰るんですか?」
「きっかけを作ることはできる」
 静かな、たった一言に、けれどステラは胸を突かれた。
 兄は、『そう考えている』のだ。確かに、ヴィントとて人の親。連れていた息子を必死で守ろうとしていた可能性は高い。もしも何らかの理由で両親がレクシオに害を為したなら、ヴィントが二人を手にかけるのはある意味、自然な流れだ。だが――
「それは……罪なのでしょうか。兄上の推測が真実であったとして、それは彼らだけの罪でしょうか」
「……彼らが、誰の目にも明らかな罪を犯したことには変わりない」
 しぼり出すようなステラの問いに、ラキアスは冷然とした言葉を突きつける。そして彼は、再び剣先を彼女に――彼女の背後に向けた。
「そこをどけ、ステラ」
 鋭い一声に、ステラはつかの間ひるんだ。息をのみ、ほんの少しだけ迷って。それでも、選ぶ。
「嫌です」
 ラキアスが無言で目を細める。それでもステラは、断固として動かなかった。
 その姿に思うところがあったのだろうか。油断も隙もない構えのまま、ラキアスは問うてきた。
「彼をかばうのかい」
「はい。大切な友人ですから。それに――」
「それに?」
「『そういうふうに思ってほしくない』って。言ってくださったのは、兄上じゃないですか」
 胸をかき乱されるような記憶が多い時期の、数少ない、優しい思い出。その一端をステラが口に出すと、ラキアスは目をみはった。
「まさか……覚えているとは思わなかったな」
 ささやく声は震えていて。けれど、声音から確かな感情は読み取れない。ステラが困惑している間に、ラキアスは剣を収めていた。相手にひとまず交戦の意志がないことを読み取って、ステラも倣う。
 彼女が口を開く前に、ラキアスは背を向けた。
「その心意気に免じて、今日は剣を引こう。……おまえがいつまでその思いを持ち続けられるかは、知らないけれど」
 ステラは、思わず息をのむ。彼女が言葉に詰まっているうちに、兄はさっさと歩いていってしまった。ああなると、何を言っても振り返ってはくれないだろう。ステラはうなだれて、額を押さえた。
 だが、すぐ我に返る。今やるべきことは、別にあるのだと思いなおした。顔を伏せたままの幼馴染を振り返り、その場にかがみこむ。
「レク、立てる?」
 応えはなかった。代わりに少しして、体がぐらりと前へ傾いた。ステラは慌ててそれを受け止める。どうやら、動いてみようとして失敗したらしい。
 その後、二、三の質問をして、自分の手に負えない状況だと判断したステラは、レクシオの手を握った。氷のような冷たさがじわじわと染み込んでくる。それでも、離すつもりはなかった。
「ここじゃ何もできないから、医務室に行こう。ほら、つかまって」
 そのときになって、ようやくレクシオの顔が見えた。血の気の引いた肌と、どこを見ているのかわからない茫洋とした瞳。今まで目にしたことのない、けれど既視感のある表情を彼はステラに向けて、すぐ逸らした。
「なんで、かばうようなまね、したんだ」
「……じゃああんた、あそこで刺し殺されたかったの?」
 弱々しくかすれた問いかけに、ステラはちょっと呆れて言葉を投げ返す。その声が、思っていた以上に刺々しくて、彼女自身が驚いた。憔悴している人に向ける言葉ではないだろう、と自分で自分を罵ったが、一度宙に吐いたものは取り消せない。
 レクシオはやはり、答えなかった。何かをこらえるかのように、あるいはこらえきれなかったかのように目を閉じる。
「俺、なにもできなかったんだ」
 消え入りそうな声は、しんと冷えた夜に染みとおる。
「逃げることも、止めることも……なにも、できなかった……」
 うわごとのように繰り返されるそれは、自嘲か、自傷か、それとも懺悔なのか。
 ステラは何も言えなかった。返すべき言葉を持たなかった。だから、無言で彼の背中をさする。その手も震えていたが、もはやどうしようもなかった。

 翌朝、シュトラーゼの上空は淡い青に覆われていた。時折、そこかしこから鳥のさえずりが響いては消える。やわらかな陽光が降り積もった雪を照らし出して、さらに白く輝かせていた。
 そんな朝。イルフォード家の中庭からは、澄んだ音が幾度も響き渡っていた。絶えることのない音色は、剣戟が奏でるものである。
 よく手入れされ、冬でも緑がちらちらと顔をのぞかせる中庭では、イルフォード家の長男と長女が対峙していた。繰り返される剣の応酬は苛烈を極めていて、とても鍛錬とは思えない。
 ラキアスが大きく踏み込んだ。本人の静けさとは裏腹に、突き出された剣は重くうなる。
 向かい合うステラは、すぐには動かなかった。自分に向かってくる刃を泰然として見つめている――かと思えば、ある一線を越えた瞬間、剣を構え、相手の刃を捉えた。それを掬い上げるようにして流す。受け流しで生まれた空間に、彼女は躊躇なく踏み込んだ。
 ラキアスはかすかに目を見開いている。が、さすがに彼の対応も早かった。完全に潜り込まれる前に、剣を腕ごと振りかぶる。ステラが慌てて飛びのいた瞬間、素早く足払いをかけた。
 こうして延々と続く二人の『戦い』を、二人の弟と来客たちは遠くから眺めていた。リオンは頬を紅潮させて見入り、時折声援を飛ばしている。『クレメンツ怪奇現象調査団』の五人はそれに比べて静かだが、冷静に観察していたわけではない。むしろ、あっけに取られている人が大半だった。
「なあ、俺もう何が起きてるのかわかんねーんだけど」
「僕は一応追えているけれど、それもぎりぎりだね。まったく、さすがは『北極星の一門』だ」
「追えているだけでもすごいですよ、ジャックさん……」
 呆けているトニーと、目を回しているミオンを見て、ジャックはひょいと肩をすくめる。状況が見えていたとて、実際それについていける自信は皆無だ。もっとも、彼は魔導士なので、剣士たちについていけるかどうかはさほど重要ではないのだが。
「こんなところで育てば、そりゃ常識が世間の非常識になるわな……」
 彼の隣で、ナタリーがやれやれとばかりに腕を組んだ。呟きには妙に実感がこもっている。ジャックはその仔細を追求しようとは思わない。知らない方が幸せなことも、世の中には多いのだ。
 ジャックは騒ぎ合う彼らをひと通りながめた後、少し遠くへ視線を投げかける。一行の中で唯一、黙然と打ち合いを見ている少年が、目に入った。彼はじっとイルフォード兄妹を見つめていたが、ふいに視線を引きはがすと、体を反転させた。
「なんか勉強になればと思ったけど、次元が違いすぎて参考にならねえわな」
 苦笑したように言ったレクシオは、そのまま家の方に向けて歩き出した。それに気づいたナタリーが、目を瞬かせる。
「あれ? レク、もう戻るの?」
「おう。客間にいるわ」
 彼はひらりと手を振った。足は一切止まらない。『調査団』の面々が別の意味であっけに取られているうちに、彼は屋敷の中へ入っていってしまった。
 残された四人は、思わず顔を見合わせる。
「……なんか、変じゃね? あいつ、ステラの試合はどんだけ意味わからなくても最後まで見てくじゃん」
「まだ体調が優れないんですかね……心配です」
 昨晩レクシオが戻ってこなかったのは、男子たちだけでなく女子たちも把握している。その理由が、怪我をして医務室に行っていたからだということも。だが、どこで何があって怪我をしたのかまでは全く知らない。本人も決して語ろうとはしないのだった。
「それもあるけど、それだけじゃないような気がすんのよねえ」
 ナタリーが、鋭く目を細める。彼女は、その目をそのまま中庭の内に向けた。
「変といえばステラも変よ。昨日の夜から口数少ないし」
「確かに……今も、なんというか、少し怒っているような……」
 終わる気配のまだない鍛錬を見つめ、ミオンが表情を曇らせる。思わず全員がそちらを見ると、彼女は軽くかぶりを振った。
「そんな気がする、というだけです。けど、剣の音や立ち居振る舞いが、わたしと打ち合ってくださったときと全然違うんです」
「ふむ」
 不安げな少女の言葉を聞き、ジャックは形のよい顎に指を引っかける。頭の中でいくつかの思考を巡らせ、天秤にかけ、うなずいた。
「よし、少しだけレクシオくんの様子を見てこよう。もしもステラたちに訊かれたら、そう伝えておいてくれ」
「えっ!? 私らだけでここに残るの?」
「トニーがいれば大丈夫だよ。任せていいかな?」
「拒否権ねえじゃねーの、意地悪いねー団長」
 わざとらしく唇を尖らせたトニーに、ジャックは片目をつぶって見せる。それから、やや早足で屋敷の中に戻った。

 一度寄り道をしてから客間に戻ると、確かにレクシオはいた。寝台の上に膝を立てて座り、左手で顔を覆ってうずくまっている。先ほどまでの飄々とした様子とは全く違う姿に、さすがのジャックも驚いた。だが、それは彼にとって、声をかけるのをやめる理由にはならない。
「レクシオくん」
 明るく呼ぶと、肩がびくりと震えた。その後、恐る恐るといったふうに顔を上げた彼の相貌は、怯えにも似た驚愕に彩られている。やはり、彼らしくない表情だ。
「……ジャック……?」
「そうだよ。少し休もうと思って、戻ってきたんだ」
 答えると同時、ジャックは両手に持っていたものの一つをレクシオへ向けて差し出した。ココアの入ったカップだ。使用人の女性に頼んで作ってもらったのである。
「飲めそうなら飲むといい。体が温まるよ」
 レクシオはしげしげとカップをながめてから、小声でお礼を言って受け取る。そのまま漫然と手もとを見下ろしている彼の隣に、ジャックはためらいなく腰かけた。カップを両手で包み込むように持ち、端から少し口をつけた。
 幾度か味わったことのある甘い飲み物は、今でもどこか懐かしい味がする。帝都で飲んだものより甘みが強いのは地域性なのか、材料の違いなのか。そんなことをつらつらと考え、その思考を彼方へやってから、ジャックは隣の学友を振り返る。
「まだ、どこか具合が悪いのかい?」
 レクシオは、小さくかぶりを振った。
「いや、ちょっと考え事してただけ」
「考え事? ステラのこと?」
 重ねて問うと、レクシオは目を丸くして、こちらを見つめてきた。ジャックは思わず、小さく吹き出す。
「昨日、ステラと何かあったんだろう。じゃなきゃ、二人揃って様子がおかしくなったりしないもの」
「団長の目はごまかせねえな、まったく」
「いやいや。『幽霊森』騒ぎのときの、君たちの気持ちが少しわかった気がするよ」
「おっと、当てつけかね?」
 ジャックがおどけて自分のことを引き合いに出すと、レクシオはいつものように苦笑する。けれど、それが強がりだと今日はすぐにわかった。ジャックはふっと笑みを消した。
「細かい内容を詮索するつもりはない。でも、話せることがあれば話してほしいな。口に出すだけでも気が楽になることって、あるからね」
 レクシオの面から、表情が剥がれ落ちる。その過程を見てしまうと、驚きよりも先に痛ましさがこみ上げた。だからこそ、ジャックは催促せず、その場にい続ける。
「俺さ」
 やがて、ささやきが客間を少し揺らした。
「ステラに対して……いいや、イルフォード家に対して、到底償いきれないような、罪を犯してるんだ」
 飛び出た言葉の大きさに、ジャックは目をみはる。レクシオの表情は真剣で、また沈痛で。とても冗談を言っている雰囲気ではない。ジャックが何とか内容をのみこもうとしている間にも、少年の独白は続いた。
「ステラ本人が心の底でどう思ってるのかは知らない。だけど俺は、この件を間違いなく自分の過ちだと思ってる。この家の人たちに糾弾されたら……反論も、何もできない」
 いびつな笑みが、うっすらと口もとを彩る。
「出自のことと同じで、いつかは明るみに出るだろうと思ってた。その覚悟はしていた、つもりだった。けど、いざそれが現実になったら、ステラに対してどう接していいか、わからなくなったんだ。――それだけ」
「そう、か」
 なんとかそれだけ言ったのち、ジャックは黙り込む。短い間のこととはいえ、たいへん珍しいことだった。
 軽々しく共感を示すことはできない。ジャックは当事者ではないから、彼らの苦しみはわからない。
 けれど――どうしても、自分と親友のことを連想してしまう。お互いが抱える思いを伝えられなかったがために、長いことすれ違ってしまった二人。
 ステラとレクシオが抱えているものは、おそらく自分たちよりうんと難しい事柄だろう。だが、だからこそ、彼らには自分たちのようになってほしくない。
 だからジャックは、再び口を開いた。
「ねえ、レクシオくん。『ステラがどう思っているのか知らない』んだよね?」
 レクシオは、きょとんとしたふうに目をしばたたく。それでもうなずいた彼を見て、ジャックはあくまで穏やかに続けた。
「それなら、彼女の思いを確かめることが最優先だよね」
「そりゃそうだけど……」
「うん。それはとても難しくて、辛いことだろう。だからまずは、いつものように接すればいいんじゃないかな。その上で少しずつ、心の中の深いところに近づいていければいい。少なくとも僕は、そう思うよ」
 それは、かつて自分ができなかったこと。秋にやっと踏み出せたこと。それはいざやってみれば、単純なことだった。
「踏み出してみれば案外なんとかなるものだ。必要なのは多分、ほんの少しの思い切りなんだよね」
 己に言い聞かせるように呟いたジャックは、ココアを二口ほど飲む。少し冷めたからか、さっきよりも強く甘みが感じられた。
 学友からの応えは、すぐにはない。それでも先刻より空気が柔らかくなったような気はした。ジャックがカップから口を離したとき、レクシオが沈黙の隙間からかすかな笑声をこぼす。
「思い切り……か。ん、それもそうだな」
 彼は笑顔でジャックを振り返る。弱々しい笑みだったが、それでも温かかった。
「柄にもなく考えすぎてたみてーだわ。ありがとな、団長」
「どういたしまして。それと、君はオスカーに似てると思うよ?」
「んあ? 俺、あんなに寡黙でも真面目でもないぜ?」
「いやいや。真剣に考えごみがちなところなんて、そっくりだ」
 ジャックが陽気に繰り返すと、レクシオは虚を突かれたように沈黙する。それから盛大に吹き出した。
「ごまかせねえなあ、まったく」
 ささやいた彼は、一息でココアを飲み干した。そして、流れるように立ち上がる。ジャックはさりげなく彼の分のカップを受け取り、その背を見た。
「ちょっと出てくるわ。とりあえず、できることからやってみる」
「うん。いってらっしゃい」
 片目をつぶったジャックを振り返り、レクシオは相好を崩す。
「……いってきます」
 照れくさそうな挨拶を残して、彼は足早に客間を出ていった。
 ジャックはしばらく手を振っていたが、足音が完全に聞こえなくなると、自分のカップを空にして立ち上がった。