第三章 白雪の約束(4)

 鉛色の雲に覆われた街は、特有の静けさに包まれている。降りしきる雪が音を吸収するから、というだけではないように、ヴィントには思われた。
 逃げ隠れして、流れ流れて。辿り着いたのが、シュトラーゼだった。ヴィントですら知っている、北極星の一門に守られた都市。自分たちが飛び込むには危険な環境では、と身構えたが、今のところは少しも騒ぎになっていない。帝国領の端にあるからか、ルーウェン解体とそれに伴う諸々の情報のことは、ほとんど届いていないようだった。もちろん、それも時間の問題だろうが。
 ヴィントは、息をひそめて路地を駆けた。不自然に盛り上がった布を見つけた彼は、周囲に人の気配がないことを確かめて、口を開く。
「レク」
 もぞり、と布が動いた。その下からひょっこりと、幼子が顔を出す。父親譲りの緑の目を輝かせた彼は、母親似の笑顔を咲かせた。
「おとうさん!」
「待たせたな」
 眉ひとつ動かさず返したヴィントは、息子の隣でしゃがみこむと、懐を探った。そうして、たった一個のパンを取り出す。飾りも凝った味付けもない、それでもふかふかの白いパンだ。ただし、ここに来るまでに少し硬くなってしまっていた。
「朝ごはんだ」
「わあ! パンだ!」
 レクシオの瞳の輝きが、いっそう増す。純粋無垢な憧憬のまなざしは、ヴィントの胸中の罪悪感を刺激した。
「おとうさん、すごい、すごい!」
 しばらくぶりにまともな食べ物を目にしたおかげだろうか、レクシオはいつもよりはしゃいでいる。年相応の姿を久々に見たヴィントは、つかの間口をほころばせた。
 淡く浮かんだ笑みはすぐに消す。そしてヴィントは、パンを息子に差し出した。
「食え」
 レクシオは、丸々一個のパンを見つめ、目をしばたたく。そして不思議そうに父親を仰ぎ見た。
「……おとうさんは?」
「俺はいい」
 平坦な返答を投げ返す。レクシオはそれでも怪訝そうにパンと父親を見比べていたが、やがておずおずとパンを手に取った。
 ヴィントは息子から視線を逸らし、壁に背を預ける。冷たい吐息が昇っていく空から、白いものが落ちてきた。花びらのような雪を、ヴィントは漫然と見つめる。
「おとうさん!」
 ぼんやりしていたヴィントの意識を、子どもの声が現実へと引き戻した。ヴィントは息子の方に視線を戻し――目をみはった。
 幼子は、いびつに割ったパンを嬉しそうに突き出している。父の視線に気づくと、彼は無邪気に笑った。
「はんぶんこ!」
 弾んだ声が、彼の意図と感情を鮮明にこちらへ伝えてきた。この場合、どう対応すればいいのだろう――ヴィントは目を泳がせる。しかし、まったく視線を逸らさないレクシオを見て、腹を決めた。
 ありがとう、と小声で言って、パンを受け取る。レクシオはそこでようやく、残りのパンにかじりついた。笑顔を絶やさぬ息子を横目に、ヴィントも白い欠片をそっと口に運ぶ。
 それは、ルーウェン脱走以降、幾度となく繰り返された、不安定で穏やかな時間だった。

 ヴィントがレクシオの異変に気づいたのは、パンを手に入れた次の日のことである。
 路地裏で起き上がり、隣で寝ている息子に声をかけた。しかし、反応がない。いつもなら、寝ぼけながらでも何かしらの応答があるというのに。
 眉を寄せたヴィントは、掛布代わりにしていた外套を少し持ち上げた。息子の顔をのぞきこんだ瞬間、ますます顔をしかめる。
 レクシオの顔が、不自然に赤かった。瞼が閉じていてぐったりしているから、意識があるのかないのかわからない。ヴィントは、汗ばんだ額に手を当てた。――明らかに、熱い。
 ヴィントが触れたからか、レクシオが薄目を開けた。おとうさん、と弱々しい声が呼ぶ。なだめるように小さな体を抱いた男は、しかし途方に暮れていた。
 雪がちらついている。しかも、昨日より勢いが強い。通りの方に人影は見えるが、浮浪者に構ってくれる人はいないだろう。それに、人と接点を持った結果、自分たちの居所が帝国軍に知られる方が怖い。
 最も恐れていた事態が起きてしまった。ぐったりしている息子を見下ろし、ヴィントは目を細めた。ただの風邪かもしれないが、風邪もこじらせれば死に至る。なんとか休ませてやりたいが、ここは病人を休ませられる環境ではない。
 果たして、どうするのが最善か。悩み、沈黙するヴィントの頭上に、突如、影が差した。
「もし、そこの人。何かあったのか?」
 雪の街にそぐわない、陽気な声が降ってくる。
 ヴィントはぎょっとして顔を上げた。心臓の跳ねる音を聞くと同時、黒茶の目と視線がかち合う。
 見知らぬ男だ。そもそも、シュトラーゼに顔見知りなどいないから、それは当然なのだが。短く切られた栗毛の下の両目は、子どもじみた愛嬌がある。分厚い冬用の外套をまとっているが、その下からはかすかに金属音がする。おそらくは軽鎧の類だ。外套の上から巻かれた帯には長剣が吊るされていて、彼が少し身動きするたびにか細い音を立てた。
 どう見ても、ただの市民ではない。
 警戒水準を一段引き上げる。うずくまった息子を抱き寄せたヴィントは、何も言わず相手を仰ぎ見た。対する男は、きょとんとして目を瞬く。
「その子は――具合が悪いのか? それとも、どこか怪我をしている?」
 憂いを帯びた問いに、しかし悪意による翳りはない。さながら物を知らぬ少年のようだ。こちらが警戒していることに気づいていないのか、気づいたうえで無視しているのか――ヴィントには推し量れなかった。
 少しばかり逡巡して、彼は重い口を開く。
「……発熱している。風邪を引いたのかもしれん」
「それは大変だ」
 男は大仰に目をみはる。それから、分厚い手袋を嵌めた手を、躊躇なく差し出してきた。
「君たち、見たところ家はないんだろう。うちに来るといい」
 ヴィントはその手を取らず、にらみつける。親切すぎて逆に怪しい。
 疑われた当人はというと、軽く首をかしげた後、ああ、と笑った。
「警戒するのも当然か。――大丈夫。君たちをどこぞに売りつけるとか、そういうことはしない。そういうズルいことはどうも苦手でな」
「苦手とか得意とかいう問題か?」
 気にかかる一言を拾ってしまい、つい口から言葉がこぼれ出た。顔をしかめたヴィントに対し、男は笑声を立てる。からりと乾いた、夏の陽光のような笑いだった。
「それもそうだな。とにかくそういうわけだから、一緒に来いよ。そんな小さな子を、いつまでも雪にさらしておくわけにはいかないだろ?」
 ヴィントは声を詰まらせる。レクシオのことを持ち出されると、反論もできない。
 息子を見下ろす。荒々しい呼吸の音を聞き、生命の熱を抱いて――ヴィントは、大きく息を吐きだした。
 見上げると、男は先刻と変わらず手を差し出していた。ヴィントは少しの沈黙の後、ためらいがちに手を取った。
「世話になる」
「おうさ、どんとこい!」
 豪快に、しかし親子を気遣いながら立たせた男は、歩き出そうとしてやめる。何事かと思ったヴィントを見やって、己の顔を指さした。
「ああ、俺はディオルグという。気軽にディオとでも呼んでくれ。で、よろしければあんたの名前も聞かせてくれ」
「……ヴィントだ。息子は、レクシオという」
 本名を名乗ることには抵抗があった。しかし、名乗られたからには名乗り返さぬわけにはいかない。だから、姓は伏せて応じた。男――ディオルグは気にしたふうでなく「おう、よろしく!」とだけ答えて歩き出した。ヴィントもその背を慌てて追いかける。
 ディオルグ――それが領主の名だと気づいたのは、街の目抜き通りを出た頃だった。