第三章 白雪の約束(5)

 目抜き通りを抜けてしばらく歩くと、急にあたりが閑散としてきた。急激な変化に、ヴィントは少なからず戸惑う。その胸中に気づいたのか、ディオルグが口を開いた。
「このあたりは、うちの人間が稽古や演習に使うんでな。建物を壊したり住民に怪我をさせたりしないように、建物の数や住む人の数を制限してるんだ」
「どういう家だ……」
 ヴィントはげっそりと呟いたが、彼の「家」がどういう家かは、なんとなく察しがつく。
 北極星の一門、イルフォード家。王国時代から騎士や軍人を輩出し続けた、名門中の名門。帝国軍人がいるという点では、ヴィントたちにとって敵に等しい存在である。だが、ディオルグ自身が彼らに敵対する気配は、今のところ皆無だ。レクシオが体調を崩してしまった今、ひとまず彼に頼るしかないのだろう。
 ぬぐい切れず割り切れない靄を胸に抱えつつ、ヴィントはディオルグについて歩いた。しばらくすると、雪のむこうに巨大な影が見えてくる。
「おっ、見えたぞ!」
 ディオルグが嬉しそうに言ったから、それが領主――イルフォード家の屋敷だということはすぐにわかった。が、そびえたつ堅牢な建物は、貴族の邸宅というより要塞のようである。
 本当にこの男についてきてよかったのだろうか。ヴィントは大きな門を見つめながら眉をひそめた。
 屋敷の前に辿り着くなり、ディオルグは門を守る兵士たちに明るく声をかけはじめる。ヴィントはその様子を呆然として見ていたが、近づいてくる足音を拾って、そちらに顔を向けた。
「ディオルグ、おかえりなさい」
 雪の降る門前に、優しい女性の声が響く。兵士たちが一斉に敬礼し、ディオルグはふっと相好を崩した。
「おう、ただいま、リーシェル!」
「今日はまた、ずいぶん長い見回りでしたね」
「あー、遅くなって悪いな。途中、人を拾っちまったもんで」
 出てくるなりディオルグに切れ味のいい言葉を投げかけたのは、長い髪の女性だった。ディオルグのそれより濃い栗毛を持ち、それなりに整った顔立ちをしている。一見繊細な雰囲気を醸しているようだが、双眸に宿る光は力強く、明るい。ヴィントは一瞬、亡き妻を連想して、ひるんだ。
 その女性、リーシェルがヴィントの方を振り返る。どう応じていいのかわからず、彼は形ばかりの会釈をした。リーシェルは何事か言おうとしたらしいが、その直前に目をみはった。驚きは瞬時に、怒りに似た色へと変わっていく。
 ヴィントが半歩後ずさると同時、彼女は凄まじい勢いで夫を振り返った。
「ディオルグ! 病人がいたなら早くそう仰ってください!」
「えっ!? あ、すまん!」
「このまま外にいては、体が冷えて危険です。すぐに中へ!」
 どうやら、ヴィントに対して何か思ったのではなく、レクシオの姿を見つけて焦ったらしい。
 血相を変えた女性に怒られながら、ディオルグが対応のため門のむこうへ走っていく。ヴィントも、リーシェルにうながされる形で、屋敷の中へ押し込まれた。
 夫婦の慌ただしいやり取りは、白い平地によく響く。門扉の閉まる音すらかき消すほどだ。ヴィントは、気づかれぬようにため息をついた。

 応接室に通され、イルフォード夫人からきちんと挨拶をされたのは、レクシオを医務室に預けた後だった。気持ちと頭が一切追いついていない状況だったので、ヴィントは簡潔に名乗ることしかできなかったが、リーシェル・イルフォードは嫌な顔ひとつしなかった。むしろ、心底申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「ご子息への対応が遅れてすみません。ディオルグはあの通り、少し抜けているところがあって」
 貴族にしおらしく謝罪されたのは、これが初めてだ。どう対応していいかわからなくなって、ヴィントは視線をさまよわせる。悩んだ末に、「助けられただけでもありがたい」とだけ返した。
 リーシェルはつかの間、不思議そうに首をかしげる。だが、すぐに穏やかな表情に戻った。疑念を隠したのではなく、心を切り替えたふうに見える。目を細めた彼女は、さて、と軽く手を叩いた。
「ヴィントさんたちのお部屋の準備ができるまで、しばらくかかるのですけど……その間、どう致しましょうか? できるだけご希望には沿いますよ」
 にっこりとほほ笑んで、リーシェルが問うてくる。この問いには、ヴィントも迷わず答えた。
「息子の……レクシオのそばにいてやりたい。医者の許可が得られれば、だが」
 言葉の最後がややしぼんでしまったのは、医者という存在の発言力の強さと頑固さを思い出したからだ。リーシェルもそれを察したのか、かすかに笑声を立てる。それから、流れるように一礼して、長椅子から立ち上がった。
「わかりました。先生に訊いてきますね。少しお待ちいただいてもよろしいですか?」
「……よろしく頼む」
 小さくうなずいてから、ヴィントは呟くように言う。リーシェルは「お任せください」とほほ笑んで、応接室を出ていった。

 正直、あまり期待はしていなかった。が、思いのほかあっさりと、医務室に入る許可が得られた。十分ほど後に戻ってきたリーシェルからそれを伝え聞いたヴィントは、彼女に連れられて医務室へ赴いた。医務室は最初に通された応接室からかなり離れた場所にあり、ヴィントは途中でわけがわからなくなった。「お屋敷」とはどこもこうなのか、と呆れたが、そうしてばかりもいられない。いざというときの逃走経路を確保するためにも、屋敷の間取りを覚えることは必須だろう。なんとかして覚えよう――とヴィントが決意している間に、目的地へ辿り着いた。
 ほかと比べて簡素な、しかし明らかに質のよい木の扉。その前に、知らない男が立っていた。彼は二人に気づくと、人の好さそうな笑顔で頭を下げる。その笑顔を見て、ヴィントは軽く眉をひそめた。笑顔ではあるが、どことなく底知れない感覚がある。
 ヴィントが警戒水準を引き上げたこの男が、イルフォード家の侍医であるらしい。愛想よく笑って挨拶した彼は、あっさりとヴィントを扉のむこうへ通してくれる。
「何かあったら知らせてくださいな」
 彼はそれだけ言って、さっさと部屋を出てしまった。
 医者がそれでいいのか、と肩をすくめて、ヴィントは医務室をぐるりと見回す。
 一見、殺風景な部屋だった。いくつかの寝台と棚、それからところどころに置かれた見慣れない道具。それだけがある、白い部屋。
 豪奢すぎるのも落ち着かないが、これはこれで胸がぞわぞわするような違和感がある。ヴィントは無意識にため息をつき、一番近くの寝台の前で立ち止まった。
 幼子が、眠っている。顔はまだ少し赤いが、ヴィントが背負っていたときより呼吸は安定していた。苦しそうな様子もない。
 ヴィントは手近にあった丸椅子を引き寄せて、そこに腰かける。途端、奇妙な安堵感が押し寄せた。走り続けていた者が、ようやく立ち止まることを許されたような感覚。
 初めて知った心の揺らぎに付ける名前を、彼は持たない。ただ黙然と座ったまま、規則的な息遣いを聞いていた。

「おとう、さん?」
 自分を呼ぶ声を聞く。
 ヴィントは、伏せていた目を少し上げた。
 眠っていたはずのレクシオが、目を真ん丸に見開いて、こちらを見ている。ヴィントは、自分と同じ色の瞳を静かに見つめ返した。
「起きたか」
 返すとともに、彼はかすかな安堵の息を吐いた。
 イルフォード家へ招かれてから、医務室へ通されてから、どれほど時が経ったのか、正確なところはわからない。少なくとも、大人が何もせず身を任せるには長すぎる時間だった。その間ずっと眠っていた幼子が、ようやく目を覚ましたわけだ。
「ここ、どこ?」
 レクシオは弱々しい声で、それでも不思議そうに呟いた。ヴィントは目を閉じ、考える。彼の問いに対する答えを、男はいくつか持っている。だが、そのどれも、子どもに状況を説明できるものではなかった。
「……親切な人の家だ」
 熟考の末、ヴィントがひねり出したのは、なんとも彼らしくない言葉だ。レクシオも納得したわけではなさそうだが、瞳の中に揺蕩っていた不安の色は薄らぐ。
「たまたま、路地にこの家の人が通りかかってな。レクが熱を出したと知ったら、家に招いてくれた」
 居心地の悪さを覚えながら、ヴィントは言葉を付け足す。身を乗り出して、レクシオの頭を少しなでた後、立ち上がった。
 おとうさん、と不安そうな声がかかる。ヴィントはレクシオを振り返り、目を細める。安心させようとしたつもりだが、上手くいっているかはわからない。それを客観的に見てくれる人は、もう、いないから。
「医者を呼んでくる。ちゃんと戻ってくるから、いい子にしていろ」
 レクシオがためらいがちにうなずいたのを見届けて、ヴィントは寝台に背を向ける。
 ――医務室を出てすぐ、近くの部屋から出てきた医者と鉢合わせた。「あ、何かありました?」と笑った彼を見て、ヴィントは今度こそ、盛大に顔をしかめた。