第三章 白雪の約束(7)

 イルフォード家に滞在してひと月ほど。ヴィントはある日、小さな変化を目の当たりにした。
 屋敷の中が、妙に浮ついている。年を越したばかりであるがゆえの慌ただしさかとも思ったが、それとは少し違うようだ。
 ひそめた声を交わしながら駆け去っていく女中たち。その姿を目で追いながら反対方向に歩いて行ったヴィントは、だが少しして足を止める。先の廊下から歩いてくる人影に気づいたからだ。
「おっ、ヴィントか。おはよう!」
 人影もといディオルグは、陽気に手を挙げて、こちらに声をかけてくる。ヴィントは短く「おはよう」と返してから、彼をまっすぐに見つめた。
「ディオルグ、今日は何かあるのか」
「ん? どうした、急に」
「屋敷の中が妙に慌ただしいから、気になった。何か行事でもあるのかと思ってな」
「ああ、なるほど」
 ためらいがちに言葉を紡いだヴィントとは対照的に、ディオルグはあっけらかんと手を叩く。それからあたりを見回す。今、人がいるかどうかを確かめたらしい。女中たちが去っていった後の廊下には、人っ子ひとりいなかった。それを認めたらしいディオルグは、少年みたいに笑ってヴィントの方へ顔を突き出してきた。
「明日、帝都から『お客様』が来るんだよ」
 悪戯っぽいささやきを聞いて、ヴィントは短く息をのむ。
 彼の緊張を察したわけではなかろうが、ディオルグは顔を遠ざけて、やれやれと肩をすくめた。
「正直、俺も面倒なんだがなあ。出迎えないわけにはいかねえから。ほら、俺、一応帝国の重鎮だし?」
 おどけたように顔を指さした男を見て、ヴィントは全身から力を抜く。ふっ、と短く息を吐いて、相手に背を向けた。
「了解した。その間、俺たちは大人しくしていた方がいいな」
「そうだなあ。見つからなさそうなところに引っ込んどいてくれた方が、お互いのためになるな! 外の人間がいることにいい顔しない奴もいるし」
「……ああ」
 そういう問題、だけでもないのだが。ディオルグが気づいた上で言っているのか違うのかは、いまいち判然としない。ただ、お互いの見解は一致した。今はそれでいいだろう。
 ヴィントは小さくうなずいて、ディオルグの脇を通り抜けようとする。そのディオルグは、当然のようにこちらを振り返った。
「息子にも伝えておく」
「あっ、それなら俺も行くぞ!」
「おまえはおまえの仕事があるんじゃないのか」
 ヴィントはじろりと相手をねめつけて問うたが、その相手は刺々しい視線を意にも介さず、拳を握る。
「心配ご無用! レクシオと話してからでも問題ないからな!」
「……そうか。なら勝手にしろ」
 長々とため息をついて、ヴィントは足を踏み出した。

 レクシオは近くの食堂にいた。父の姿を見出した幼子は、目を輝かせて駆け寄ってくる。しかし、ヴィントがディオルグから聞いた話を伝えると、彼はみるみる顔を曇らせた。
「おっきな人たち……たくさん来るの?」
 不安げにうつむいたレクシオは、小さな手でヴィントのズボンを握りしめる。なんとも言えないヴィントは、無言で小さな頭を優しく叩いた。
「来るのはほんの三、四人だよ。それにこんな奥まで入ってこねえから、大丈夫」
 代わってディオルグが口を開く。軽い調子で紡がれた言葉を聞いても、レクシオの表情は晴れない。ディオルグは、それでも明るく笑った。内心はどうだかわからないが。
「心配いらんさ。怖いなら、かくれんぼだと思っておけばいい」
「かくれんぼ?」
「そ。こわ~い顔したおじさんたちとのかくれんぼだ。父さんと二人、最後まで隠れられたらレクシオの勝ち! これでどうだ?」
 大人の男が茶目っ気たっぷりに指を立てる。レクシオは頬を染めて、きらきら輝く両目をいっぱいに見開いた。忙しなく、ディオルグとヴィントを見比べる。勢いで巻き込まれたヴィントはしかし、我が子の頭を軽くなでた。
「そうだな。お父さんと一緒に、かくれんぼしよう」
「やったあ!」
 レクシオは、笑顔を弾けさせて抱き着いてくる。全身を使って喜んだ幼子を、ヴィントはひょいと抱き上げた。

 そして、翌日。イルフォード家は昨日とはまた違う慌ただしさに包まれていた。ヴィントは極力客室から出ないようにしていたが、それでも心をひっかくような鋭い空気が感じられた。陽気な領主が、一度も親子の前に姿を現さなかったせいもあるのかもしれない。
 大人の男でさえそうなのだから、幼子の不安はより大きかっただろう。レクシオは朝から何かにおびえているような風情で、ヴィントが一人でどこかへ行こうとしようものなら服を握りしめて引き留めようとしてきた。さすがのヴィントも小さな我が子の懇願を無視できず、この日はほぼ一緒に時を過ごすこととなる。
 忙しない朝から、しばらく経って。客室で、漫然と窓の外をながめていたヴィントは、異変に気づいて身を乗り出した。レクシオは先刻から絵本をめくっており、こちらの動きに気づいた様子はない。ヴィントは、無言でカーテンを半分だけ閉めた。
 屋敷の入口に、見たことないほどの人の群れができている。ほとんどはイルフォード家の家人のようだが、覚えのない人影もちらほらあった。体格からして全員男だ。そして、金色の装飾が入った質のいい服を着ている。
 どうやら、『お客様』が到着したらしい。
 家の方から、軍服姿の男が出てくる。ディオルグだ。一目でわかった。彼は客人たちの前で立ち止まった。何やら、言葉を交わしているようだ。
 ヴィントはそこで、窓際から身を離した。深く呼吸をし、少し気配を薄くする。父の変化に気づいたわけではなかろうが、そこでレクシオが絵本から目を離した。
「おきゃくさま、来た?」
「どうやら、そのようだ」
 頭を傾けた幼子に、ヴィントは淡白な答えを投げ返す。
 レクシオは、無邪気に笑った。それから、右の人差し指を口もとに当てる。しーっ、と言う幼子は、どこか楽しげだった。
「かくれんぼ!」
「……そうだな。かくれんぼの始まりだ」
 目もとを緩めて、ヴィントも応じる。それから、カーテンを静かに閉め切った。

 結局、「怖いおじさんたち」が客室の方まで来ることはなかった。空がすっかり暗くなった頃に、女中からそれを聞かされて、ヴィントはようやく肩の力を抜いたものである。「ぼくたちの勝ちだね!」と無邪気に喜ぶレクシオに応えて互いの拳を合わせると、女中もなぜか嬉しそうにほほ笑んだ。
 その後、帝都からの来訪者とのやり取りについて、ディオルグから少し話を聞いた。彼いわく、「旅人を泊めている」ことは話さざるを得なくなったが、詳細は上手く伏せたらしい。自他共に認める正直者は、だが貴族としての立ち回りは心得ているようだ。
 とりあえず、唐突な嵐をやり過ごすことはできた。春まであと少し。雪が弱まる季節を待ってから、出立すればいい。
 このときまで、ヴィントはそう思っていた。

 異変の始まりはいつだっただろう。ヴィントがそれに気づいたのは数日後、しばらくぶりに長々と雪が降った日だった。だが、後になって思うと――来客の日から、すべては狂っていたのかもしれない。
 昼食の後。食堂を出ようとしたヴィントは、視線を感じて振り返る。その先には、この家の主がいた。彼は、何かを考えこむように、眉間にしわを寄せていた。
「ディオルグ」
 珍しいこともあるものだ、と思いながら、ヴィントは彼の名を呼ぶ。ディオルグは顔を上げた。ぎょっとしたように。
「おう、ヴィント?」
「何か用か。俺の方を見ていただろう」
「いや、すまん。少し考え事をしてただけだ」
「……珍しいな」
 驚きすぎて、口に出してしまった。ディオルグは気を悪くした様子もなく、笑う。
「俺だって考えるときはあるさ」
 それは、ディオルグのいつもの笑顔だ。そうか、と返したヴィントはけれど、彼の言葉を素直に受け取ることができなかった。

 ――それからさらに数日、様子を見てみたが、違和感はなくならなかった。それどころか、さらに強化された。
 一つひとつの違和感は、大したものではない。例えば、ディオルグが時折こちらを観察している気がする、といったものだ。気がする、という程度なのだ。
 今まで彼がこちらをじろじろ観察することなどなかった。だからこそ、時折感じる視線も、風のように現れて霞のように消える険しい表情も、すべて気のせいで片付けてしまいそうになる。
 だが、だからこそ見逃してはならない。『今までなかった』からこそ、これは異常事態なのだ。
 好ましくない変化を察知していたこともあり、ヴィントはある朝レクシオに「そろそろここを出ようと思う」と打ち明けた。春にはまだ早いが、しかたがない。早めに話しておかないと、いざというとき動きづらくなる、という考えもあった。
 レクシオはひどく驚いていたが、父の言葉を強く拒むことはしなかった。彼自身、この屋敷の空気が張り詰めていっていることを、子供ながらに察していたのかもしれない。
「じゃあ、おじさんたちにちゃんとさよなら、しないとね」
 ヴィントは「そうだな」とだけ返す。そして、少しだけ泣いた息子の頭を静かになでた。
 その日――朝食と昼食の間、くらいの時間だろうか。ヴィントはひとり、回廊を歩いていた。特に目的があったわけではない。いうなれば、ただの散歩である。
 上着の前をかき合わせて、ヴィントは外庭の方に目をやる。静かな曇天だったが、その下はまっ白だ。淡い世界の光を反射して、まぶしいほどに輝いている。
 すぐに雪原から目を逸らしたヴィントは、ふと眉をひそめた。
 かすかに胸騒ぎがする。それこそ、気のせいで片付けられそうなざわつきだが、確かに存在する。
 このざわつきの正体が何かはわからない。だが、放っておいてよいものではないだろう。
 ヴィントは反転した。上着を翻して走る。わずかな人目も気にせず、走る、走る。足を進めれば進めるほど、心のざわつきは強く大きくなった。
 彼はあるとき、ふと気づく。
 これは、同じだ。ルーウェンが炎に呑まれたあのときと、同じ感覚だと。
 正面玄関に出る。一度歩調を緩め、門の方へ歩いた。なぜか兵士の姿はない。息を殺して雪の中に踏み出したヴィントはしかし、遠くに人影を見つけると、目をみはった。
 ディオルグがいる。なぜか、剣を抜いている。剣が向く、その先には――雪の中に倒れた、幼子の姿。
 ヴィントの中で何かが弾けた。理性が焼き切れ、跡形もなく吹き飛ぶ。
 雪を蹴った。駆け出した。手もとで一息に構成式を組み立て、放つ。振り返ったディオルグが、飛びのいた。その足もと――さっきまで彼が立っていた場所に、魔力が着弾して白い飛沫が上がった。
 爆風に吹き上げられた雪があたりを覆う。互いの視界が白に阻まれているうちに、ヴィントは幼子の前に立った。彼の――レクシオの様子を振り返ってうかがう。目立った外傷はない。穏やかな息遣いが聞こえ、胸が規則的に上下している。どうやら、眠っているらしい。
 男は小さく、安堵の息を吐く。
「――俺としたことが、しくじったな。あんたに見つかる前に、終わらせようと思ったんだが」
 その吐息をかき消すように、白の先から声がする。ヴィントは、その方をにらみつけた。
 雪煙が晴れた先。やはり、騎士の男が立っている。いつも通りの平服で、右手に剣を携えて。
 いつも通りの姿。だが、『いつも通りではない』姿。ヴィントがそう感じるのは――ここから見える彼の瞳が、あまりに昏い色をしているからか。
「なあ。ヴィント・エルデ」
 明るい声が彼を呼ぶ。
 教えた覚えのない、彼の名を。
 ヴィントは静かに息を吐いた。相手の方に体を向け、背後で構成式を組み立てる。
 そして――
「これはどういうことだ、ディオルグ・イルフォード」
 聞いた者の背筋を凍りつかせるほどの低い声で、問いかけた。