第三章 白雪の約束(8)

 風のだけが響く雪の中、二人は向かい合っている。
 ヴィントの問いに、ディオルグは沈黙を返した。ヴィントがさらに言葉を重ねようとした瞬間、彼の背後で構成式が弾け、幼子を金色の球が覆う。息子を守るため、彼が仕掛けた術だった。眠っているだけとはいえ、雪の中に放っていては凍死しかねない。ディオルグや、イルフォード家の人間の剣が小さな心臓を貫くかもしれない。そういった危険から遠ざけるための、防壁の球だ。
 それが無事発動したことに、ヴィントは無表情のまま胸をなでおろす。そして、改めて、信用したはずの男と対峙した。
「どういうことだ、ディオルグ。俺たちを売る気はないんじゃなかったのか」
 邂逅の時と、先日の来客。二つの記憶を重ねていたヴィントに、ディオルグは感情の読めない笑みを返す。
「そうさ。俺は二人の事情を詮索する気も、引き留める気も――帝国に売る気もなかった」
「ほう」
 平静を装って、相槌を打つ。
 この男は、やはり気づいていたのだ。浮浪者親子が『魔導の一族』であることに。あのときは、それを諒解した上で二人を屋敷に迎え入れた。
「だが、状況が変わった」
 ディオルグの声は冷たい。ヴィントはそれを黙って聞いている。
「俺は帝国の騎士だ。皇帝陛下の命令には従わなきゃならん。だから、あんたらにはここで死んでもらう」
 純白の雪の中、剣が不気味にきらめいた。その切っ先が自分の方を向いてなお、ヴィントは眉一つ動かさない。代わりに、小さく舌打ちした。
「らしくない理由付けだな。おまえが皇帝に忠実な犬だとは思わなかったぞ、ディオルグ」
「尻尾を振りたくなくても振らなきゃならないときはある。国に仕えるってのはそういうことだ」
「何があった」
 自虐とも皮肉ともとれる言葉を受け流し、ヴィントは問うた。
 ディオルグの表情が、苦しげにゆがむ。だが、それは一瞬のことだった。垣間見えた感情は、瞳に宿った苛烈な炎の下に隠れてしまう。
「……あんたが知る必要はない」
 ディオルグは、それだけ吐き捨てて、勢いよく地を蹴った。

 剣がうなる。ディオルグのそれは、ヴィントが今まで見てきたどんな剣よりも重く、速い。
 回避は間に合わない。判断したヴィントは半歩退くと、眼前で構成式を組み立てた。素早く練りあがったそれは、一瞬で弾けて、黄金色の防壁へと姿を変える。彼の視界が金色に染まった瞬間、刃が防壁にぶつかって、耳障りな金属音を立てた。
 防壁に亀裂が走り、割れる。その間にヴィントは左方向へ走り、別の魔導術を展開した。無数の魔力の刃が男の横顔めがけて殺到する。だが、それが到達する前にディオルグは体を反転させ、剣で刃を弾き落とす。魔力がほどけ、光となって雪の上に消えていく。ヴィントもディオルグも、それを見てはいなかった。
 ディオルグの視線が横に滑る。その先にあるのは、先ほど彼が砕いた防壁とは別の壁だ。彼が半球状のそれに狙いを定める前に、ヴィントは氷のかたまりを生み出してディオルグの頭上に展開する。風を切る音で氷の飛来に気づいたディオルグは、それを飛びのいてかわし、避けきれなかったものを剣で砕く。一連の動作が行われるのにかかった時間は、五秒ほど。その五秒の間にヴィントは再び防壁の前へ立った。
 思わず舌打ちする。やりにくいことこの上ない。相手が天下のディオルグ・イルフォードである上に、動けないレクシオを守りながら立ち回らなければならないのだ。
 男は再び騎士と対峙する。少し離れたところに立っている彼は、隙のない構えでこちらをうかがっていた。瞳に宿る光は、見たことがないほど鋭い。人を射殺しそうな視線、とはこういう目を言うのだろうか――そんなことを考えつつも、ヴィントは全く別の言葉を舌に乗せる。
「ディオルグ。なぜ、突然こんな行動に踏み切った?」
 それは、三度目の問いだった。しかし、今までとは違う響きをまとう。
 ディオルグの太い眉がわずかに跳ねた。
「言っただろう。あんたが知る必要はない」
「本当に?」
 素早く切り返すと、ディオルグは沈黙した。
「心からそう思っているなら、おまえはそんな顔をしないだろう」
 雪が降る。音もなく降り積もる。
 ヴィントの言葉をディオルグがどう取ったのかはわからない。ただ、彼は静かに口を開いた。
「俺も同じなんだよ、ヴィント」
「……何?」
「あんたがレクシオを必死で守ろうとするように、俺にも守りたいもの、守らなきゃならんものがある。それだけだ」
 ディオルグの言葉はやはり曖昧で、最も重要な答えを示してはくれなかった。だが、ヴィントの頭の中では、急速に情報が繋がっていく。
 彼の気性。ここにいない子どもたちのこと。帝都からの来客と、その時期。今、殺意の裏からのぞく、隠し切れない苦渋――それらを考え合わせれば、自然に彼の言いたいことがわかってくる。
「……人質か」
 ヴィントは小さく呟いた。その声が聞こえたかどうかはわからない。ただ、一瞬だけ、騎士の息遣いが変化した。
 ――来訪者の目的の一つは、おそらく、『魔導の一族』の話を伝えることだった。その過程で、死亡が確認されていない一族の情報がディオルグに渡る。同時に、彼らを見つけ次第殺すように、との命令も下った。
 ディオルグのことだ。最初は拒もうとしただろう。あるいは従うふりをして、のらりくらりとかわそうとしたかもしれない。
 そこで来訪者たちは人質を使った。なぜかは知らないが、春まで帝都に滞在しているという長男と長女。彼らの存在をちらつかせて、ディオルグを追い込んだ。
 これらはヴィントの予想に過ぎないが、大きく外れてはいないだろう。ディオルグのような人間には、この方法が一番効く。
 実際、彼は今、一度は救った親子を殺そうとしているのだ。
 ヴィントは目を閉じ、また開く。緑の瞳が再びディオルグを映したときには、揺蕩う疑念もわずかな迷いも消えていた。
「そうか。……そうだな」
 少しだけ声を大きくする。今度は、北極星の騎士にしかと届くように。
「確かに、俺が知る必要はなかった。知ったところで、どうしようもないからな」
 お互いが守るべきもののために動いた。その結果、ぶつかり合ってしまったのなら、もう後には引けない。
 二人ができるのは、このまま突き進むことだけだ。
 つかの間、背後を振り返る。レクシオは動いていない。目を覚ます気配すらない。それを確かめたヴィントは息子から目を逸らす。そして、無言のまま構成式を組み立てた。
 上空、鈍色の雲の隙間に、白い光が迸った。さながら龍のごときそれは、太い稲妻となって地上へと降り注ぐ。
 白光があたりを包むと同時、天地を割らんばかりの轟音が響いた。
 雷電は、光が収まった後もバチバチと散っている。地面を踏みしめたヴィントは、その光の合間を縫って駆け出した。陥没した雪原を飛び越えてディオルグとの距離を詰め、手もとで魔導術を展開する。先刻放ったのと似た刃、しかしそれよりずっと細いもの。針のような刃に進路の命令を与え、放つ。
 大量に向けられた魔導の刃に、ディオルグは一切動揺しなかった。少し視線を動かしたかと思えば、ヴィントの方へ向かって駆けてくる。襲いくる刃のほとんどを、彼の剣戟が切り払った。そのたびか細い音が響き、小さな光が明滅する。
 自分めがけて振りかざされる剣を、ヴィントはすんでのところでかわした。一度は転がるようにして、二度は横に、後ろに跳躍して。そのたびに、鋭く重い剣風が頬をなで、髪を乱した。頬に幾筋かの赤い線が走ったが、本人はそのことに気づいていなかった。
 ディオルグは止まらない。間断なく剣を突き込んでくる。舌打ちしたヴィントは、右手で魔力を集め、透明な剣を作り出す。それを握って、大きく薙いだ。振りかざされた剣を弾く。けたたましい金属音が鼓膜を揺さぶり、伝わった衝撃が手先から肘にかけて強烈な痺れをもたらす。それでもヴィントは動きを止めず、左手側で別の構成式を展開した。
 辛うじて相手の剣を二度ほど弾いたとき、ヴィントの左側から青白い炎が上がる。それは、まっすぐディオルグを狙って走った。彼が初めて、大きく目をみはる。一度飛びのいたディオルグは、足を大きく蹴り上げた。雪が舞い、青い炎に降りかかる。炎の勢いは衰えなかったが、ややして構成式がほどけ、徐々に魔力へ戻って霧散した。
 青白い残滓が極光のように揺らめく雪原。二人の男は再び静寂の中で対峙する。
 しばしの間、どちらもが無言だった。それどころか、身じろぎひとつしなかった。
 ただひたすら、隙を狙う。その命を取るために。その命を守るために。
 視界が薄く白に覆われる。ささやかだった風がその強さを増し、ごうごうとうなりを上げた。
 冷え切った沈黙、視界不良の中で、しかしヴィントは、ディオルグの目がわずかに動いたのを見逃さなかった。魔力を動かして彼をけん制しつつ、背後をうかがう。そして息をのんだ。同時にディオルグが瞠目したことを、彼は知らない。それよりも、半球状の防壁に釘付けになっていた。
 眠っているであろう幼子を囲う、防壁。そこに、いつの間にか人影が迫っていた。『彼女』は、風雪で髪と衣服が荒ぶることも気にせずに、すらりと腰の剣を抜く。男たちが気づいたときには、切っ先を防壁に向けていた。
 息をのんだのは、どちらだろう。先に走り出したのは、誰だったろう。
 何もわからない。すべてを雪と風がかき消した。確かなことは、ただひとつ。
「――リーシェル!」
『彼女』の名。それを呼ぶ声は、重なった。