第三章 冬の大祭(4)

「ラキアス、さん……?」
 レクシオは、名を呼んだ。
 頭が上手く回らない。夢を見ているような気分だった。
 獣たちを一撃で薙ぎ払ったラキアスは、穏やかな表情のままうなずく。そうかと思えば、またレクシオに背を向ける。それを待っていたかのように、獣のうなり声がした。
「さあ、ぼんやりしている暇はないぞ。司令部の部隊が来るまでは、場を持たせなければ」
 力強く呼びかけられて、レクシオは慌てて鋼線を構え直す。そして、ラキアスの隣に並んだ。
「――いやいや! あなた、なんでこんなところにいらっしゃるんです!? 要人警護とか前線指揮とか、いろいろ仕事あるでしょ!」
 ようやく頭が回転しだすと、この状況の異様さがよく見える。レクシオが噛みつくように指摘すると、ラキアスは首をかしげ、やや経ってから吹き出した。
「その点なら心配いらない。来賓の皆様には、聖堂の中心部に避難いただいた。あそこには神官が大勢いるし、外で君たちが戦ってくれているから、危ないことはないだろう。それと、指揮は各部隊の士官に任せてある。俺は必要最低限の指示を残してきた。ひとまずは、それで十分だ」
 必ず二人以上で組んで戦え、深追いはするな、とね。肩をすくめて語った侯爵家の長男から視線をはがし、レクシオはため息をつく。
「だからって、ご自分が出てきますか……」
「こちらの方が大変だろうから、助太刀に来ただけさ。来賓代表から許可は頂いている」
 あっけらかんと語るラキアスの声を聞き、レクシオは目をすがめた。こんな状況だというのに、皮肉が口をついて飛び出す。
「あなたのそういうとこ、ステラにそっくりですわ」
「おや、本当かい?」
「ええ。ついでに言うと、ステラを千倍ずる賢くした感じです」
「光栄だね」
 ラキアス本人は、棘を含んだ少年の言葉を歯牙にもかけない。レクシオも、それ以上言い募ることはしなかった。笑みを作った後、獣たちに目を戻す。
 数頭の獣が飛び出してきた。レクシオは一頭を薙ぎ払い、一頭を鋼線で絡めとって、後続の群れめがけて投げつける。その横で、ラキアスが鮮やかに四頭を斬った。
 むろん、この程度で獣たちが傷つくことはない。彼らは少しひるんだだけで、すぐに襲いかかってきた。二人もすぐに身構えて、迫る群れに対処しようとする。
 直後、魔力の風がレクシオの頬をなでた。彼が力の出どころを走査するより早く、異変は起きる。迫りくる獣の群れが、突如速度を落としたのだ。ふくれるばかりだった黒い輪郭も、心なしか縮んだように見える。
 ラキアスが、眉を寄せた。
「――なんだ?」
「レクシオさん!」
 彼の疑問に答えをくれたのは、聖堂がある方角から響いた呼び声だった。獣の群れを突っ切ってくる声の主に目を留めて、レクシオは驚愕する。
「ミオン?」
「はい! ……と、あれ? ラキアスさん?」
 二人の前で足を止めたおさげの少女は、そこで初めて大人がいることに気づいたらしい。こぼれんばかりに両目を見開いて、彼の長身を見上げた。ラキアスは、彼女の視線を受け止めて、苦笑する。
「……やあ。これは意外な助っ人だ」
「ええと、司教様から『助けに行って差し上げなさい』と言っていただけたので、出てきました。聖堂内の守りは、軍の方と神官の皆様が固めてくださるそうです」
 力強く語るミオンの両目は、淡く輝いていた。おそらく、ゼーレの継承術を使っているのだろう。群れがしおれたのはそのせいか、とレクシオは納得する。
「ひょっとして、ほかの奴らも出てきてる?」
 ついでにもうひとつのことに思い至って問うと、案の定、ミオンはうなずいた。
「はい。カーターさんもこちらへ向かっているはずです。ジャックさんは、オスカーさんのところへ。ブライスさんは避難誘導を手伝っていますが、それが一段落したら戻ってくると仰ってました」
 レクシオとラキアスは、顔を見合わせる。ラキアスがおどけたふうにほほ笑んだ。
「役者は揃い、舞台は整う――といったところかな?」
「だと、いいですけどね」
 レクシオの返答は明快さを欠く。彼は、先の報告の中にステラの名前がないことに気づいていた。少し前のシンシアの報告から察するに、一緒にいたはずのトニーは、オスカーたちのところで獣との戦闘に巻き込まれたらしい。とすると、考えられる可能性は限られてくる。
「……ま、よそを気にしてる余裕はないか」
 自分自身も、先ほどラキアスが来なければ危うかったのだ。今はここを乗り切ることに集中すべきだろう。幼馴染のことは――信じるしかない。
 レクシオは、深呼吸して物思いを振り払うと、他の二人とうなずきあう。
 そして、湧き出る獣たちを迎え撃った。

 色とりどりの火をまとった剣が迫る。ステラは異様なその一撃を後ろに跳んでかわし、お返しとばかりに己の剣を突き込む。首を正確に狙った白銀の剣は、けれどすんでのところで防がれた。刃同士がかみ合って、耳障りな音を響かせる。
 ステラは舌打ちして手首を軽くひねった。ネズミの鳴き声のような音を立て、ステラの剣が軽く滑る。彼女はそれを、迷いなくラメドの方へ突き出した。今度こそ確実に急所を捉えた、と思われた刃はけれど、相手を貫く前に弾かれる。彼を守ったのは、あの紫電だった。
 普通の剣であれば、その衝撃と異質な力によって砕かれていたかもしれない。しかし、女神の魔力がステラの剣を守った。
 互いの力がぶつかりあい、火花を散らしたその瞬間。ラメドが半歩後退して、己の剣を打ち込んでくる。ステラはとっさに身を引いて、銀の魔力を自分の前に広げた。見様見真似の防壁魔導術。それは確かに、彼女の生命を救った。剣が阻まれたわずかな間に、ステラは跳ぶようにして敵から離れる。
 お互いの距離は、開戦の瞬間とほぼ同じになった。『銀の翼』の少女とセルフィラ神族の男は、探るようににらみあう。
「今のは少々危なかったな」
「思ってもないことを仰るのね」
 ラメドは、剣から炎へ、炎から剣へ形を変えるものを弄びながら呟く。対して、ステラは構えを解かぬまま応じた。ほんの一瞬、周囲に視線を走らせる。
 トニーが戻ってくる気配はない。それどころか、裏庭は不気味なほど静かだ。先ほどからあたりの空気がよどんでいるような気がする。
「援軍は期待しない方がいい」
 少女の内心を見透かしたかのように、ラメドが言った。ステラが剣の切っ先を向けると、男は軽く肩をすくめる。
「私の仲間が『出てきた』ようなのでな。表の者たちは、こちらへ来るどころではなくなっているだろう」
「……何をしたの」
 ステラの鋭い問いに、ラメドはすぐには答えない。彼はただ、再び剣に戻したものを両手で構えた。
「大したことじゃあない。おそらく、趣味の悪い『獣』をいくらか放っただけだろう。今のおまえならよくわかるはずだぞ」
 からかうような男の言葉をステラは口の中で転がす。相手の一挙手一投足を観察しつつも、意識の一部を聖堂の方へ向けた。
 途端、どす黒い魔力の奔流が襲いかかってくる。こちらをにらむのは、獣の群れ。不気味に光る、目、目、目。あまりのおどろおどろしさに、ステラは思いっきり眉を寄せた。敵が目の前にいなければ、うずくまってしまっていたかもしれない。
「本当にめちゃくちゃね、神様ってのは!」
 気持ち悪さを振り切るように、叫んで。言葉の終わりに、ステラは前へ飛び出した。ラメドが素早く応じ、勢いよく得物を振りかざす。横に跳んで斬撃をかわしたステラは、水平に滑らせるように剣を振った。胴を狙った一撃は今度こそ、男の体を揺らす。目をみはったラメドはしかし、すかさず突きを繰り出してきた。今度はステラが瞠目する。
 魔力をまとった剣をまともに受けて、よろめくことも動じることもなく攻勢に転じるなど、人間には不可能だ。だからこそ、ステラはその瞬間、油断していた。
 白い光が視界を埋め尽くす。ステラはとっさに身をひねる。すぐそばを恐ろしく鋭利な熱風が吹き抜けた。遅れて、刺すような痛みがやってくる。
 傷の存在とその場所を探りつつも、ステラは相手から視線を逸らさなかった。ラメドは確かに傷を負っている。それでも堪えた様子を見せず、変わらぬ速度で体を反転させ、向かってきた。
 風雪をまとった剣がうなる。ステラは剣を斜めに構えて、敵のそれを受け止めた。上腕のあたりににじむ血の赤を、このとき初めてまともに見る。
 刃が再度かみ合い、カチカチと音を立てる。その先で、ラメドがうっすらと笑みを浮かべた。
「おまえは我々をめちゃくちゃと言うが、私から見たおまえもなかなかにめちゃくちゃだぞ。私とほぼ剣だけでここまで渡り合える人間、という時点で、常軌を逸している」
「あっそう……! 褒め言葉として受け取っておくわ」
 ラメドはやけに饒舌だ。神族でも、戦いの中で高揚することがあるのだろうか。そんなつまらぬことをステラは考えた。ただし、今のステラ自身は、高揚するどころか、冷たい焦りを感じている。
 耳の奥をひっかくような高音が、ささやきのように響く。剣と剣、力と力が見た目上拮抗する中で、男の表情は涼しげだ。それがステラには腹立たしい。
「私も『彼』も、今回は公平な勝負を挑んでいるつもりなのだがね」
 少女の内心を読み取ったかのように、ラメドはそんなことを言う。ステラは、白い眉間に渓谷のようなしわを刻んだ。
「……どういう意味?」
裏庭こちらにも広場あちらにも『翼』がいる。となれば、彼の獣くらい呼び出さねば不公平というものだ」
 思いがけない一言に、ステラは目をみはる。そのとき、今度はラメドが剣の角度を変えた。鋭い音とともに、剣同士が弾きあう。男の剛力に半ば押される形で、ステラは後ろに下がった。
 熱い呼気が、少女の口もとを白く染める。彼女はことさらに強く敵をにらんだ。
「今、なんて」
 頬が熱い。鼓動が速い。心なしか、視界が先刻までより白い気がする。
「『金の翼』は、まだ決まってない」
 違和感を覚えつつもステラが声を絞り出すと、ラメドはわざとらしく眉を上げた。
「おや。ひょっとして『金の選定』の仕組みをご存知ないのか」
「知ってるわよ、そのくらい……!」
 噛みつくように、ステラは答える。
 それを聞いていないかのように、ラメドが再び口を開いた。

「『銀の翼』はラフィア神が選ぶ。『金の翼』は『銀の翼』が選ぶ」

 心臓が、高鳴る。
 ステラの脳裏に、細く丁寧な文字と、優しい神父の声がよみがえった。

「『銀の翼』にとって最も信の置ける者。背中を預けるに足る者。『金の翼』とはそういう存在だ。それがわかれば、目星をつけるのはそう難しくない」
 愉悦の色さえ感じる低音は、奇妙に遠く響く。
 ステラは唇を噛んだ。
 視界が白い。どんどん白くなる。
 いや――
「それに、『選定』はもう始まる。感じているだろう?」

 ――これは、『白銀』だ。

 ステラが色を自覚した瞬間、全身が一気に熱を帯びる。急激な変化に、思わずうめき声を漏らした。
 薄目を開ける。向かいに立っているはずのラメドの姿は、よく見えない。どこかで、何かが強く光っているらしい。視線を巡らす。光の発信源は聖堂だった。聖堂の、ラメドが最初に押し入ろうとしていた、扉のむこう。
 ステラは知っている。あの扉の先、通路を進んだ奥の奥に――本来の女神像があるのだと。
「始まった」
 ささやいたのは、誰だっただろう。
 ラメドか、ステラ自身か。
 それすらも、もう、よくわからない。
 ステラの視界と意識は、白銀から黄金に移ろう光に塗りつぶされた。

 本当はわかっていた。
 エドワーズ神父からもらった封筒、その中身を読んだときから。
『金の翼』が誰なのか。自分が誰を選ぶのか。
 答えはあのとき、とっくに出ていた。
 まばゆい光の中、ステラは音なき声で紡ぐ。

 たった一人の、片翼の名を。