第三章 冬の大祭(3)

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 世界が明るくなるほどに、街はにぎわっていく。ほかの街では当然の変化も、シュトラーゼではひどく珍しいように感じた。
 色のない花火が上がり、道々の飾り物が色を得る。家や宿から人がどんどん吐き出されて、白い道を埋めつくしてゆく。
 そんな光景を、ヴィントは薄暗い窓辺から見下ろしていた。
 彼がいるのは、使われなくなって久しい塔のような建物だ。元は企業の事務所と何かの店が入っていたらしいが、今は人も物もほとんどなく、殺風景な空間に埃が溜まる一方となっている。また、シュトラーゼ聖堂にほど近いこの建物からは、街の変化がよく見える。彼にとっては絶好の隠れ場所だった。
 聖堂前がいっそう慌ただしくなる。笑いあい、また表情を緩めた人々が、聖堂へ向かって足を進める。視界に入る馬車の数も、じょじょに増えてきた。
 そんな中で、ヴィントは眉を動かした。彼の六感が力の流れを拾う。もう、すっかり覚えてしまった力。そこに、ひとつまみ程度の魔力が混じっていた。
「……来たか」
 彼は呟く。
 その声を聞く者は誰もいない。しかし、その声に応じるように、鉛色の空から白い欠片が降ってきた。

 全力疾走するトニーの耳に、かすかなざわめきが届いた。どうやら、聖堂前にかなり人が集まってきているらしい。はしゃぐ若者の声、甲高い子どもの笑声、人々を誘導する軍人らしき男性の声。そして騒がしい足音。様々な音が混じって聞こえる。
 焦燥が募った。トニーは胸中に燻る苛立ちの炎を懸命になだめながら、頭の中でこの後の予定を思い起こす。
 まず、聖堂前広場でシュトラーゼの市長と来賓代表が挨拶をする。その後、皆で祈りを捧げ、神官たちが儀式を行う。女神像が安置されている部屋の扉が開放され、それと共に市長が大祭の開催を宣言する。女神像の一般公開までは、こんな流れだったはずだ。
 市長らしき声は聞こえない。今動けば、まだ迅速な対応が取れるだろう。トニーは一度呼吸を整えて、足もとの雪を蹴り上げた。
 少し走ったところで、聖堂前広場が見えてきた。すでに人垣ができている。そこから外れるようにして、見知った人々が立っていた。
「オスカー! シンシア!」
 悲鳴を上げる肺を無視して、トニーは叫ぶ。呼ばれた二人が振り返り、ほぼ同時に瞠目した。
「トニーさん、どうなさいました!?」
「……あっちで何かあったのか」
 慌てて駆け寄ってきたシンシアの後ろから、オスカーが続く。トニーは両方の問いに答えるつもりでうなずいた。少し呼吸を整え、しょっぱい唾液を飲み込んでから、二人を見上げる。
「セルフィラ神族と、接触した。ラメドって奴だ。幽霊森で、襲ってきた」
 荒い呼吸の下から状況を伝えると、オスカーたちは顔を見合わせた。二人の横顔は明らかにこわばっている。
「今は、ステラが裏庭に留めてくれてる、はずだ。けど、いつまで持つかわからない」
「……まずい状況だな」
 オスカーが、太い眉を寄せた。シンシアが応じるようにうなずいて、何やら構成式を展開しはじめる。
「とにかく、皆様にこのことをお伝えしなくては――」
 だが、焦りをはらんだ言葉と手さばきは途中で止まる。明確な形を成さなかった構成式が、舞い落ちる雪の中に消えた。
 オスカーとトニーは、同時に彼女を振り返る。
「……シンシア?」
「なんでしょう、あれは」
 少女は、深い緑色の瞳を灰色の空に向けている。少年たちは視線を追って――息をのんだ。
 遠くの空に、小さな影が群れているのが見える。一見すると、鳥の群のようだ。
「何って……鳥か?」
「そう見えるな。だが……何かおかしい」
 オスカーが疑念をこぼした刹那。黒々とした群が、一気に近づいてきた。それを見て、トニーは細い悲鳴をのみこむ。オスカーが「おかしい」と言ったわけがわかった。
 ソレは、確かに鳥の形をしている。しかし、輪郭が不安定で、まるで炎のように揺れていた。おまけに、目にあたる部分が不気味に光っているようだ。色は赤かったり紫だったりと様々だが、いずれにしろ見ていて心地のいいものではない。
「な、な、なんだあれ――」
 トニーの叫びをかき消すように、どこからか悲鳴が響いた。学生たちは一斉に振り返る。トニーが不気味な鳥と同じ色を雪の上に見出したとき、オスカーが駆け出した。
 広場へと接続する路地から、野犬のようなものが飛び出してきたらしい。ソレは人垣からはみ出した女性と子どもを威嚇している。子どもが火の点いたような泣き声を上げた瞬間、オスカーが野犬の前に躍り出た。一切の躊躇なく剣を抜き、うなる相手に斬りかかる。
 何かを斬る音と甲高い声が重なった。同じ時、シンシアが女性と子どものもとに駆けつけて、彼らをその場から引き離す。そしてトニーはオスカーに追いついた。
 剣を構えたまま、オスカーが眉をひそめている。彼の視線の先を見て、トニーも顔を引きつらせた。
「げ、無傷?」
「妙だな。手ごたえはあったんだが……」
 こちらをにらむ獣には、彼らの言葉通り傷ひとつついていない。そして、やはりソレは野犬ではなかった。黒い体に、不安定な輪郭。幽鬼のように不明瞭なのに、不気味な眼光と牙ばかりが鋭い。獣でないどころか、まともな生物であるかどうかも怪しかった。
 謎の獣のうなり声が、いっそう激しくなる。少年たちは身構えた。オスカーが半歩下がったのに合わせ、トニーが一歩前に出る。彼は手先と目の前に意識を集中させ、短い構成式を編み上げた。魔導士にしか見えない赤色の文字が明滅し、獣の方に吸い込まれて消える。直後、その足もとで炎が上がった。
 ごくごく小さな、爆炎の術。それは、野犬ていどの獣を追い払うには十分すぎる術だった。しかし、炎は間もなく弾け飛び、その内側から黒い獣が現れる。そいつはとうとう牙を剥きだしにして飛びかかってきた。
 固唾をのんで見ていたトニーは、ぎょっと目をみはる。よろめくように後退した彼の横からオスカーが飛び出し、獣の一撃を剣で防いだ。そのまま彼が得物を薙ぐと、獣は苛立たしげに飛び退る。
「おいおいおいおい、どーなってんだ! 魔導術も効かないとか!」
「俺が知りたい。わかるのは、こいつがただの犬じゃねえってことくらいだ」
 がくがく震える膝を押さえながら、トニーは悪態をつく。かつての友人に舌打ち混じりの返答をされたが、気にしている余裕はなかった。悪態、文句の一つや二つ、吐いていないとやっていられない。
 苦々しい互いの顔を見合わせた少年たちは、連なるうなり声に気づいてそちらを見る。そして、仲良く頬を引きつらせた。
 路地の奥から次々と黒い影が湧き出ている。それが人影などでないことは、不気味な色に光る両目が証明していた。
 寒風に乗って、悲鳴や叫び声、張り詰めた指示の声が聞こえる。状況の悪さを悟って、トニーは帽子を強く握った。
「か、勘弁してくれ……」
「裏に行くどころではなくなったな、これは」
「――オスカー! トニーさん!」
 顔をしかめた二人の耳に、甲高い声が飛びこんでくる。戻ってきたシンシアは、黒い獣の群れに顔を引きつらせた。が、彼らがすぐに飛びかかってこないと察すると、オスカーを振り返る。
「先ほどの方々は、カーターたちに任せてまいりましたわ。……どうやら、ほかの地点でも同じような獣が出現しているようです」
「そうみたいだな」
 眉間をつついたオスカーは、改めて部員を見下ろす。眼光が、鋭さを増した。
「シンシア。おまえは一度アーノルド捜査官のところへ。できれば、ここにいる人たちの避難誘導をしてくれ」
 それは、緊急時の対応として捜査官と話し合った計画のひとつだ。シンシアはうなずいたが、美貌は凍りついたようにこわばっている。大きな瞳が不安定に動いて、うなる獣たちを捉えた。
「それはもちろん、構いませんが……あれらはどうなさるのです? お二人だけで対応するのは、困難でしょう」
「いや、俺たちだけでなんとかする。あいつら、剣も魔導術も効かないようだからな。人数を揃えたところで意味がない」
「それなら尚更、わたくしも――」
 疲れたようにかぶりを振るオスカーへ向かって、シンシアが顔を突き出す。眦をつり上げた彼女を制したのは、オスカーではなく帽子の少年だった。
「いんや、大丈夫。そろそろ警備の人たちが動いてる頃だろうから。ここに増援が来るまでくらいなら、持たせられるよ。オスカー、強いし」
 彼が『研究部』部長を振り仰いで笑うと、シンシアは険しい表情のまま黙り込んだ。わずかな沈黙ののち、首を縦に振る。
「無理だけはなさらないでくださいな!」
 鋭い声を二人に投げつけて、シンシアは駆け出した。走り去る彼女に付き添うようにして、魔力の揺らぎが流れていく。息を吐いたトニーのかたわらで、オスカーが剣を収めた。
 獣たちが咆える。二人の意識は、否応なくそちらへ引きつけられた。
「まるで、こちらの話が終わるのを待っていたみたいだな。気味が悪い」
「同感。でもま、今はありがたいっしょ」
 素直な悪態に軽口で応え、トニーは防壁魔導術を組み上げる。オスカーが無言で半歩後ろに下がり、拳を構えた。
 金色の魔力が盛り上がり、半球状に少年たちを覆った瞬間、黒い獣の軍団が飛び出してきた。

 不明瞭なからだを持ち、剣も魔導術も通さぬ獣。それらは、シュトラーゼ聖堂前広場を囲むように現れた。当然、オスカーたちの位置のほぼ対角線上で警戒にあたっていたナタリーとレクシオも、この獣たちに遭遇する。武器や術が通らないことを知るやいなや防戦に切り替えたのは、当然の流れだった。その上で、あえて魔力を強めに振りまくことで獣たちの意識を自分たちの方へ向ける。魔力量がずば抜けて多いレクシオがいるからこそ、できることだった。
「きりがねえな、まったく!」
「ほんとに! なんなのよこれ! これも神様の仕業!?」
「そうとしか考えらんないでしょ」
 レクシオのぼやきに、ナタリーが悲鳴で応じる。魔力をまとった鋼線が、猪のような形の獣を弾き飛ばした。ボールのように跳ね飛んだソレは、すぐに起き上がって向かってくる。ほかの獣たちを相手しているレクシオに、猪が再度突進してきた。彼がその気配に気づいた瞬間、小さな金色の防壁が現れて、再び黒いからだを弾く。
「助かった!」
「いいってことよ」
 振り返らぬまま礼を言ったレクシオに、ナタリーも言葉だけを投げ返す。同時、彼女が編んだ構成式が空中で光り、二人を囲む風の渦を生み出した。
 弾き飛ばされても、吹き飛ばされても、薙ぎ払われても、謎の獣たちは執拗に向かってくる。全く堪えた様子のない彼らに対応しているうち、人間たちの方に疲労の色が見えてきた。これもまた、当然のことである。
 渇いた喉が鋭い痛みを訴える。雪の中、反射的に咳き込んだレクシオは、二人を覆うように金色の防壁を広げた。半球状の膜ができあがると、ナタリーがとうとう手を止める。膝に両手をついて、必死に呼吸を整えはじめた。
「むり……ジリ貧……むり……」
「気持ちは痛いほどわかるけどな……ここでくじけたら戦線崩壊よ……」
「それこそ、わかってるわ……」
 二人して荒々しく呼吸を整えながら、言葉を交わす。お互いにいっそ黙り込んでしまいたい気持ちはあったが、口を閉ざせばそのまま動けなくなるような気がしていた。
 獣たちは、何度も防壁に突進してくる。そのたびに、金色の膜が細かく震動し、術者が顔をしかめた。その様子を見てナタリーが口を開きかけたが、言葉が発されることはなかった。遠くから小さな光が飛んできたことに、気づいたからである。
 光のように見えたそれは、細かな構成式だった。レクシオは首をかしげ、ナタリーは目をみはる。全く違う反応を示した二人の前で、構成式は涼やかに弾けて消えた。
『エンシアさん、エルデさん、聞こえますか?』
「ん……シンシア?」
「あ、あんたまさか、その術……!」
 構成式の痕から、聞き覚えのある声が響く。目を点にしたレクシオとは対照的に、ナタリーは顔じゅうをこわばらせて応じた。
『そのまさか、ですわ。一人で使うのは初めてでしたけれど、上手くいって安心しました』
「いや安心してる場合か! 遠話の術は試験開発中でしょ! 勝手に一人で使うなんて、退学ものの暴挙よ!?」
『非常時ですので。致し方ありませんわ』
 寒空を切り裂くような怒声に返す、少女の声は涼やかだ。レクシオは意識の半分を防壁に向けつつ苦笑する。シンシアの声を届けているのは、『魔導科』の授業で実験的に開発されている魔導術――ということのようだ。
「非常時、ってことは。そっちにも、黒い変な動物たちが来ちゃってるのかね?」
 ナタリーの言は全くもってその通りだが、この状況においてシンシアの機転はありがたい。思いながら、レクシオは問いを投げ返す。苦々しげな肯定が返ってきた。
『その通りです。現場はオスカーとトニーさんに任せて、わたくしは今、一般の方々の誘導を手伝っています。お二人の方からも人手を回していただけるとありがたいのですが……』
「ぬぬ……こっちにもそんな余裕はないわよ……!?」
 ナタリーが苦言を呈した。しかし、その一方で眉根を寄せて考え込んでいるようである。レクシオも、防壁の外を見渡して、少しだけ黙り込んだ。沈思黙考ののち、相方を振り返る。
「よっし。そういうことなら、ナタリーが行ってやってくれ」
「えっ?」
 ナタリーは、目を剥いた。魔力のむこうで、シンシアも息をのんだようである。
「私が抜けたらレクはどうすんのさ!」
「どうにか持ちこたえますよ。幸い、ナタリーよりは魔力の余裕があるんで」
 レクシオが肩をすくめると、ナタリーは声を詰まらせる。しばらく怒ったような顔で黙っていた彼女は、レクシオが目を逸らさないでいると、観念したようにかぶりを振った。
「わかった、わかりました! 私が行くよ!」
『――お願いします、エンシアさん』
「はいよ!」
 恐縮したようなシンシアの声に、ナタリーは雑な応答をする。それから、勢いよくレクシオを振り返った。
「いい、レク? すぐに戻ってくるから、絶対に無茶すんなよ!」
「承知しました。そっちも気をつけて」
 人差し指を突きつけてきた少女に、少年は軽い口調で言葉をかける。同時、その場に漂っていたシンシアの魔力が消えた。術を断ち切ったらしい。レクシオはそれに気づくと、改めて防壁の外へ視線を投げた。
 雪の紗幕のむこうから、無数の視線が突き刺さる。獣たちは、いらだたしげにこちらをにらんでいた。おそらく、この術を解けばすぐにでも襲いかかってくるだろう。
 レクシオは、深呼吸して身構える。外をにらんだまま、口を開いた。
「ナタリー。三つ数えたら、防壁魔導術を解く。そしたら全速力でこの場を離れろ」
「りょーかい」
 二人は揃って息を吸う。レクシオは、揺らぐ金色に指を添わせた。
「三、二、一――」
 重なった声、最後の数字が消えた瞬間、レクシオは防壁を解く。
 寒風と雪が吹きつける。獣の声が間近に聞こえる。そして、少女の足音も。
 レクシオはすかさず鋼線を抜き放ち、獣たちを薙ぎ払う。彼らがひるんでいる隙に振り返ると、ちょうどナタリーが聖堂めがけて走り出したところだった。
 安堵の息を吐いて、レクシオは正面に向き直る。狼、猪、大鹿、そういったものを模したであろう獣たちが、一斉に飛びかかってくる。
 レクシオはゆっくりと後退しながら、虚空で構成式を編んだ。無秩序に散っていた雪がひとところに集まり、いくつかの球を作る。術者たる少年が指を丸めて弾くと、球は獣たちへ向かって飛んでいった。
 耳障りな悲鳴が響く。それでも、傷がついた様子は見受けられない。ひるんで距離を取った獣たちを無視して、レクシオは鋼線を振るう。横合いから飛び出してきた黒い獣数頭を勢いよく弾き飛ばした。甲高い雑音ノイズのような音があたりを包む。少年は顔をしかめたが、動きは止めない。一度金属の糸を引っ込めて、柄を天に向ける。再び鋼線をしゅっと伸ばすと、そこに一息で魔力を通した。硬く張った鋼線を勢いよく振ると、それはまるで生き物のようにうねって、鷲の形をした黒い鳥に巻き付く。レクシオはそれを、気合の掛け声とともに、地上へ叩きつけた。
 悲鳴と、重い手ごたえ。しかし、絶命の気配はない。鋼線の先で何かが蠢く感覚を覚えたレクシオは、とっさに鋼線を引っ込めた。鷲の形をしたものが、雪の中からよろよろと飛び出して、空へ戻る。
 異形の鳥獣の数は減らない。それどころか、いつまで経っても傷の一つもつけられない。最初からわかっていたことだが、こう何度も続くと、苛立ちがこみ上げてくる。思わず舌打ちしたレクシオは、直後、息をのんで振り返る。
 いつの間にか、野犬のような獣たちが三頭、こちらへ向かってきていた。彼らは激しく吠えて、レクシオに食らいつこうと飛び出す。
「しまっ――」
 武器も、術も、間に合わない。
 レクシオが思わず目を細めたとき――人と獣を分かつように、白い光が通り過ぎた。
 野犬たちは何かに阻まれたように吹き飛ばされる。そして、雪の上には鋭い斬撃の跡ができていた。
 レクシオは恐る恐る顔を上げる。いつの間にか自分の前に立っていた、青年の背中を見上げた。
 青年は颯爽と振り返る。風雪に乱された栗毛の下で、黒茶の双眸が抜き身の剣のような鋭い光を帯びている。
「無事かい、レクシオくん?」
 唖然としている少年の名を呼んで、ラキアス・イルフォードはほほ笑んだ。