第四章 『金の選定』(4)

 少し時をさかのぼる。
「黒い獣たちを倒す手段が見つかった。皆は、奴らを私の方へ引きつけてくれ」
 ラキアス・イルフォードの言葉として発された、新たな指令。それは、軍人たちの口と足によって、瞬く間に広場中へ伝わった。
 当然、それは軍人に混じって奮闘している学生たちの耳にも、届いている。
「え、倒せるの? まじで?」
 風雪をかき集めて獣を吹き飛ばしたトニーが、歓声を上げる。彼は、ついでとばかりに旧友のまわりを防壁魔導術で覆った。
 その旧友は、トニーの斜め前で次々に獣たちを殴り飛ばしている。寡黙な少年は、喜びの声を聞いて眉を寄せた。
「倒せるというのなら、具体的な方法を教えていただきたいものだな」
「ラキアス様の方へ獣たちを誘導しろ、という指示しかないようですね。ラキアス様にしかできないこと、でしょうか……?」
 オスカーの隣で呟いたのは、避難誘導から戻ってきたシンシアだ。彼女は難しい顔をしながら、白い指をくいっと曲げる。黒い軍勢に、氷刃の雨が容赦なく降り注いだ。
 濁った悲鳴と氷の音を聞きながら、オスカーがシンシアの方へ視線を動かす。
「それか、同じ場所にいる誰かにしかできない、か」
「ラキアスさんのまわりって、今、誰がいるんだ?」
「確か、現在地は広場の南東あたりだったはずですが――」
 三人は言葉を交わす。もちろん、勢いの衰えない獣たちをさばきながら、だ。いっとう大きな集団を後退させ、一息ついたオスカーが目をみはる。
「南東?」
 低い声が、わずかながら裏返っていた。この少年には珍しいことだ。トニーとシンシアも、つかの間動きを止める。
「それ、さっき光が落ちていった方角じゃないか」
 言われて、二人も瞠目した。
 金色の太い光が聖堂の裏側から立ち昇り、広場のどこかへ落ちていった。もちろん彼らも、非現実的なあの光景を目撃している。
 学生たちは顔を見合わせる。答えはすぐに出た。隠された神話を知る彼らにとって、正解に辿り着くのは、そう難しいことではない。
「――『翼』か!」

 金色をまとった金属の糸が、獣たちを容赦なく打ち据える。断末魔の叫びを上げた獣たちは、黒いものを噴き上げると、骨も残さず消えた。黒いものは、彼らにとっての血液なのだろうか。煙のようでもあり、煤のようでもあるそれは、彼らの不気味さを際立たせた。
 鋼線は意思を持っているかのようにしなり、向きを変えると、下降してきた鳥に巻き付く。しばし締め上げられた鳥は、嫌な音を立てて弾け飛んだ。
 ひとまず周囲から獣がいなくなると、鋼線はしゅるしゅると縮む。柄に糸を収めたレクシオは、あいた手を額にやって、うめいた。
「大丈夫かい」
 ラキアスが声をかけてくる。乱戦の中にあって、目ざとく変化を見て取ったらしい。レクシオは苦笑して、肩をすくめた。
「ちょっと頭痛がしまして。大丈夫、一瞬でした」
「……それは大丈夫とは言わないよ」
 ラキアスが目をすがめる。非難の色がありありと表れていた。それでも彼は、少し休め、などとは言わない。いや、『言えない』のだ。こうして会話している今も、黒い群れがこちらへ向かってくるのが見えている。
 わかった上で、レクシオはあえていつものようにほほ笑んだ。鋼線をいつでも出せるように構えつつ、片手で簡素な構成式を組み立てる。
 そばでやり取りを聞いていたミオンが、そっとレクシオの方を見た。
「あの……それってもしかして、『金の魔力』? の影響でしょうか?」
「かもなあ」
 少女のささやきに、少年は頭をかきながら応じる。
「とんでもねえ魔力だもんよ、これ。体の中焼かれてんじゃねーの? って感じする。気を抜いたら、おれの方がのまれそうだ」
 精いっぱいおどけてみせたつもりだが、成功したとはいえないだろう。ミオンとカーターが、同時に顔をゆがめたのだから。レクシオは頬を引きつらせたが、それ以上言葉を繋げることはしなかった。代わりに、獣の軍団を見据える。
 ステラはよくこんな魔力に体を慣らせたものだ。浮かんだ思いは、泡のように消えた。思考はまっさらになり、緊張が全身を満たす。
「ま、嘆いてもしょうがねえや」
 少年は指を躍らせて、構成式の最後の一文字を刻む。ひし形を基礎とした簡素な構成式は、黒い群れに向かって滑り、その真上で弾けた。破裂音が響き渡って、地平線に白い飛沫が高々と上がる。術の発動を見届けたレクシオは、飄々として共闘者を振り返った。
「この場では俺にしかできないことなんだから、やるしかねえよ」
 三人は、それぞればつが悪そうな顔でうなずいている。
 再び、低い音が地面を揺らす。同時、甲高い声と羽ばたきの音が空を覆った。獣たちをにらみすえ、「その通りだな」と呟いたラキアスが、剣を構える。ミオンとカーターも、それぞれに臨戦態勢を取った。
 ラキアスと並んで立ったレクシオは、鋼線を少し伸ばす。『金の魔力』を細く、通した。
「その代わり、誘導は任せますからね。皆々様の働き次第で、対処のしやすさが変わりますんで」
 あえて声を張ったレクシオの言葉を聞き、ほかの三人が視線を交わす。剣を獣に向けた青年と少女が、凄絶な笑みをのぞかせた。
「そのくらいなら――」
「お任せあれ!」
 獣たちが一斉に吠え、鳴き、飛び出す。ミオンとラキアスが同時に駆け出した。彼らは身を低くして群れの死角に回り込み、思い切りのいい攻撃を仕掛ける。
 ラキアスの剣戟に圧された群れが散らばりはじめ、うち数頭がレクシオの方へ逃げてきた。むろん、それを見逃すレクシオではない。おびえている獣たちの足もとに、黄金色の鋼線を叩きこんだ。魔力は火花のごとく爆ぜる。獣たちの脚から黒いものが噴き上がり、悲鳴があたりを包んだ。レクシオはすかさず虚空に構成式を投げかける。集まって硬くなった雪が降り注ぎ、乾いた音を弾けさせる。十頭近くの獣が、文字通り塵と化した。
 別の方向に逃げていた獣たちも、怒ったように少年の方へ駆けてくる。ミオンの剣やカーターの術で誘導されているようだ。今も、逃げようとして横から突きの一撃をお見舞いされた獣が、飛び退って方向転換した。ミオンは半身のままで狂乱する獣たちを見つめ、剣先で虚空をなぞる。黒茶の瞳が淡く輝き、視線の先の獣たちが急に勢いを失った。
 ――他家の『継承術』については、わからないことの方が多い。効力だけでなく、発動の手順や構成式の基本構造すらも、術によって異なっているからだ。レクシオは、ゼーレ家の術の概要を知っていても、それがどのようにして発動されるのかは知らない。目の前で披露されても、何が起きているのかほとんど分析できなかった。
 興味はある。だが、他家の機密に手を出さないくらいの分別はあるつもりだし、詮索している暇もない。だから、素直に感嘆の吐息だけをこぼして、すぐに獣たちへ意識を戻した。
 うなだれた獣たちに、『金の魔力』を放つ。命令を与えられていない力のかたまりは、獣たちの胴体や頭を容赦なくえぐった。あっという間に数頭が消え去る。そこから逃れようとした獣たちは、小さな防壁魔導術に阻まれて、反転を余儀なくされる。苛立たしげな獣たちから少し離れた場所で、顔をこわばらせた少年が、構成式を組み続けていた。
 そんな調子で、黒い鳥獣は次々と倒されてゆく。倒せるのは現状、レクシオ一人だ。ゆえに、瞬く間に討伐、とはいかない。けれど、戦場の獣の数は目に見えて減っている。幾人かの軍人が安堵の息をこぼし、歓声を上げたほどに。
 空に灰色の幕がかかった頃。戦場にまた、前向きな変化があった。
 ミオンの剣が、鹿のような獣の首を捉える。低い声を上げて倒れた鹿は、すぐに起き上がり、逃げ出した。レクシオとはまったく別の方向に。
「あっ」
 少女は焦りをにじませる。しかし、彼女の声が消えるより早く、鹿の顔面に何かが激突した。それをまともに受けた鹿は、凄まじい勢いで後ろに吹っ飛ぶ。その先には――レクシオが立っている。
「のわっ!」
 自分の方に迫ってくる黒い物体を見て、少年はのけぞった。それでも、とっさに魔力を放ち、鹿を消滅させる。本能と日ごろの鍛錬の賜物だった。
 鹿だった黒いもののむこうから、体格のいい少年が駆けてくる。彼は、レクシオとミオンに向けて、小さく頭を下げた。
「すまん。やりすぎた」
「お、オスカーさん! ありがとうございます!」
 ミオンが目を見開いて、少年にお礼を言う。オスカーは、軽く瞠目した後、視線をさ迷わせた。一方のレクシオは、引きつった笑みを浮かべる。
「いや、アレを殴り飛ばすとか……部長の腕力、どうなってんの?」
「加減を間違えた」
「そういう問題でもない気がするけど」
 そんなやり取りをしながらも、オスカーは雪の下から顔を出した黒い鼻面をつかんで、投げる。モグラのようなものが、清々しいほど勢いよく空中に投げ出された。金色をまとった鋼線がそれを捉え、あっさり切り裂く。
「まあ、助かったのは確かだ。ありがとう、オスカー」
「ああ。役に立っているならいい」
 オスカーは淡白に返してから、目を細める。
「それで、『金の翼』はおまえというわけか。レクシオ」
「ご覧の通りで」
「……そうか」
 寡黙な少年は、鋼線を一瞥して眉間にしわを寄せる。案外わかりやすいな、などと思いながら、レクシオは戦場を見渡した。
 ラキアスの指示と人々の努力のおかげで、獣たちは続々と彼の方に集まってきている。それだけでなく、ほかの学生たちも彼らに気づいて走ってきていた。レクシオたちが徐々に戦場を移動していた、というのもあるだろうが。
「おや、オスカー。レクシオくんも!」
 陽気な声が、黒い靄を切り裂く。ジャック、ナタリー、ブライスの三人が、連れだって駆けてくるところだった。おまけに彼らは、いくらか獣を引き連れてきたらしい。「これ、こっちで合ってんの!?」と涙目で叫んだナタリーに苦笑を向けて、レクシオは鋼線を長く伸ばして、勢いよく振った。
「合ってる合ってる」
 軽い応答と同時に、鋼線が獣――巨大な熊のようだった――の頭を直撃する。真っ二つに割れた獣は、黒いものを派手にまき散らして消えた。あたりがつかの間、薄墨色に染まる。それはすぐ横殴りの雪に上書きされた。
 沈黙が降りる。吹雪のむこうで、ジャックたちが唖然としていた。三人が三人とも、両目をこぼれんばかりに見開いて、熊のいた場所とレクシオを見比べている。
「熊さん、消えた……?」
「い、い――今の、って」
 かすれ声をこぼしたブライスに続いて、ナタリーがうめく。呆然としている赤毛娘と違い、彼女はしっかりとレクシオの方を見ていた。レクシオは鋼線を少し縮めて、いつかと同じ言葉を舌に載せる。
「どうも、そういうことらしい」
 ナタリーが口を開きかけた。だが、彼女の発言は轟音にかき消される。彼らの視界の端が一瞬、橙色に染まった。直後、大型の獣が吹っ飛んでくる。それは学生たちの前を通り過ぎ、重い音を立てて落ちた。「これは大物だ」などと呟くどこかの令息の声がする。
「オスカー!」
 美しい高音が、『ミステール研究部』部長の名を呼んだ。オスカーは声のした方に目をやると、わずかに眉を上げる。
「シンシア」
「おや、トニーも」
 親友の後ろからひょっこりと顔を出したジャックが、意外そうな顔をする。オスカーからやや遅れて合流した二人は、すすけたように見える空を仰いで、首をかしげた。
「うわっ、なんじゃこりゃ」
「先ほど、ものすごい魔力を感じましたけれど……何かありましたの?」
 少女の問いに、部長はすぐには答えなかった。一瞬、離れたところに目をやる。視線の先にいるラキアスは、獣たちを誘導しながら、合流した軍人たちと何かを話していた。
「……多分、『金の翼』とやらのしわざだ。さっき、そいつがでかい熊の頭を叩き割った」
 ささやいたオスカーは、レクシオを振り返る。湿っぽい視線を受け止めた少年は、曖昧に目を細めた。
 再び気まずい沈黙が落ちる。シンシアがやはり瞠目していて、その横でトニーが帽子をつまんで下げている。しばらくして帽子の端を持ち上げた少年が、レクシオをじっと見た。
「えー……それ、まじ?」
「『金の翼』の件? それとも熊の件?」
「両方」
本当まじ
 レクシオは、ひらりと手を振る。対してトニーは、長く息を吐いた。
「まじか……。最高で最悪の人選してくれたな、ラフィア神」
「――いや」
 彼の言いたいことはわかる。だが、レクシオはかぶりを振った。驚きと疑念の視線を感じながら、鋼線を再び伸ばす。こうもりのような獣の姿を上空に見つけ、それに狙いを定めた。
「今回のは、ラフィア神の選択じゃない」
 得物を振る。金の輝きをまとった糸が、白い空に伸びて、こうもりたちを薙ぎ払う。
「――ステラの選択だ」
 弾け飛び、散る、黒いもの。それを見届けて、レクシオは学友たちを振り返る。絶句した彼らの顔を見渡して――霞のような微笑を浮かべた。

「ああ。やはり、そうなりましたか」

 突如、どこからか声が響く。
 甲高く、けれど妙に静かな声だ。
 レクシオは顔を上げ、周囲を見渡す。彼や学友だけでなく、軍人やラキアスも驚いたようにしていた。
 ぱん、ぱん、と。ややくぐもった、拍手の音。妙に大きく聞こえるそれは――聖堂の方から響いていた。
「しもべたちの気配が急に減ったものだから、何事かと来てみれば……ずいぶんと愉快な状況になっていますね。なりたての『翼』を少々侮っていたようです」
 寒風が吹き抜ける。獣たちが一斉に退いた。
 レクシオたちは聖堂を仰ぎ見る。壮麗な屋根と塔の前に、小さな人影が浮いていた。
「誰だ? ……セルフィラ神族か?」
「大正解」
 レクシオの鋭いささやきを拾って、声の主は笑った。どこまでも無邪気に、残酷に。
 その人物は、両手を掲げた。すると、彼の頭上に青白い光球が生まれる。人影が、明確な形と色を帯びた。その姿は、おそらく、少年。
 学生のうち何人かが悲鳴を上げ、レクシオは目を細める。現れた少年に、見覚えがあったのだ。
「お久しぶりです、魔法使いのおにいさん」
 繊細な相貌が、宝石のような青い瞳が、いびつにほほ笑む。
「セシル、くん……?」
 ミオン・ゼーレの震え声が、レクシオの耳に届いた。