第四章 『金の選定』(5)

 少年の言葉とミオンの声を聞いて、レクシオもはっきりと思い出した。
 セシル・ウィージア。学院祭フェスティバルの剣術教室に来てくれた男の子の名だ。ステラの担当であったし、なんだか神秘的な子だな、と思っていたので、印象に残っている。
 けれど、それはきらきらと輝く思い出のはずだった。こんな場所で、こんな形で、最悪の気分で思い出すものではないはずなのだ。
 大祭の準備中、ステラたちが彼と思わぬ再会を果たしたことは、聞いていた。それでも、レクシオには目の前の光景が信じられない。
 いや、信じられないのはレクシオだけではないだろう。
「は? な、なんで?」
 素っ頓狂な声がする。ブライスが、榛色ヘーゼルの瞳を見開いて、空中を凝視していた。顔じゅうに汗をかき、見たことのないほど狼狽している。
「あの子、あのセシルくん? うそでしょ? だってなんか浮いてるし」
「嘘ではないですよ、おねえさん」
 透明な笑い声が降ってくる。ブライスはさらに顔を引きつらせた。同級生を一瞥したレクシオは、上空をにらみつける。
「今ここにいるのは、間違いなくみなさんとお話ししたことのあるセシルです。ただ、ひとつ付け加えるとするならば――セシル・ウィージアという人間は、この世に存在しません。それは、私が作り上げた、かりそめの人物だからです」
 朗々と語ったセシルは、地に足を着けないまま移動した。学生たちに己を見せつけるように立ち、優雅にお辞儀をしてみせる。
「改めて自己紹介いたしましょう。――我が名はレーシュ。かつてラフィアの下にあり、今はセルフィラ様にすべてを捧げし神の一柱」
 誰かが息をのむ音がする。それが学生たちのものでないのは明らかだ。学生たちは、レクシオも含め、呼吸も忘れて絶句していた。
「ラフィアの御許にいた頃は、地上の生物を見守り、時に加護を授ける仕事をしておりました。ゆえに、『天と生ある獣の神』とも呼ばれていましたね」
 その名前には、その呼び名には、覚えがある。少年少女の間に戦慄が走った。他方、広場の軍人たちもざわめく。
 レーシュはラフィア神族として、そして裏切りの神として名高い存在だという。ラフィア神話に明るくなくても、名前を知っている人はいるのだ。
 セシル――レーシュは、そんな人々をつまらなそうに見渡してから、目を戻す。突き刺すような視線と敵意で我に返ったレクシオは、彼と自分の周囲とを見比べた。黒い獣たちはこちらをじっと見ているが、一歩も動かずうなり声すら上げない。
「『天と生ある獣の神』……もしかして、この黒い動物たちも、おまえが仕掛けたものか?」
「そうですよ。彼らは私のしもべです。私の力で作りだした、丈夫で忠実な獣たち――素敵でしょう?」
 レーシュは、白い手袋に覆われた指を唇に添えて、ほほ笑む。無邪気な少年の顔に濃密な毒を何滴か落としたような、寒気を誘う笑顔だ。
「『金の選定』終了後、彼らにあなたを食べていただく予定だったのですが……目算が外れました。『魔導の一族』直系とはいえ、これほど早く女神の魔力を使いこなすとは思っていませんでした」
 レクシオは、意識して得物を握る手に力を込める。
 自分はずっと、目をつけられていたのだろう。おそらくは、『銀の選定』が行われたあの夜から。『金の選定』の性質を考えれば、彼らが学生たち――とりわけレクシオをもう一人の『翼』候補と見なすのは、自然なことだ。そして今、こうして表に出てくるのも。
 早く言ってくれればよかったのに。幼馴染に対して、そう文句を言いたくもなる。だが、彼女が口をつぐんでいた理由も想像できるから、それを直接ぶつけようとは思わない。
 今はただ、感情と事実をのみくだして、人ならざる少年に向き合う。
 彼は何を思ったのか、それまでの笑みを打ち消した。
「まあ、この程度は誤算のうちにも入らない。今のうちからどうとでもなりますからね。そんなわけで、どうにかしてしまいましょう」
 子どもの声で落とされた言葉。す、と細い腕を伸ばす。それらがあまりにもさりげなくて、人々は攻撃の合図だということに気づかなかった。
 一部の人が異変に気づいたのは、甲高い音があたりを覆い、大気が震動したときである。天地に満ちる魔力がうなり、静電気のような音を立てた。
「なんだ、これは……!」
「まずい――」
 顔をしかめたラキアスをよそに、レクシオは前へ出た。鋼線を収め、代わりに構成式を組み立てる。彼の動きに呼応した魔導科生たちも、大急ぎでそれに倣った。
 空が震え、熱が渦巻く。
 その場の全員が異変を察すると同時――膨大な力が、聖堂前広場に落ちてきた。
 広場中が光に覆われ、一瞬後、爆風が吹き荒れる。
 雪が吹き散らされて舞い、人々は紙切れか何かのように吹き飛ばされた。飛び交っていたであろう悲鳴は、大気と魔力のうなりにかき消される。
 獣たちが激しく吠える。人々の耳にその音が届いた頃に、破壊の嵐は収まった。雪はえぐれて無数の凹凸を生み出し、石畳のところどころにひびが入っている。もみくちゃにされた人々は、あちこちでうめきながらも起き上がった。彼らは、自分たちの身にほとんど傷や痛みがないことに気づき、首をひねる。そして、顔を上げた何人かが、感嘆の声を上げた。
 聖堂前広場を淡い金色の半球が覆っている。その下を同じ色のいくつもの球が支えている。すべてが、魔導術により生み出された防壁であった。
 とっさの判断で球状の防壁を生み出した魔導科生たちは、軍人たちの歓声を聞いて、その場に崩れ落ちる。淡い金色の球が一斉に弾けて、硬質な音を響かせた。
 魔導士の卵たちが膝をつき、肩で息をしている一方で、一枚の巨大防壁を生み出した張本人は、未だ立っている。四肢を震わせ、魔力を絞り出しながら防壁を維持する少年は、そのむこうに浮かぶ存在をにらんだ。
 人の姿を真似た神は、意外そうに青い瞳をみはっている。表情だけ見れば、無垢な少年そのものだ。
「おや、まあ。私の一撃を防ぎきるとは。人間に対する評価を少々改めた方がいいですね」
 市場で品物を選ぶような口ぶりで呟いたレーシュは、吹きつける雪を払うかのように手を振る。
 瞬間、防壁の縁で無形の力が爆ぜるのを、レクシオは感じた。感じたが、それを跳ね除けるだけの余力はない。
 たちまち防壁に亀裂が入り、硝子のような音を立てて割れた。その衝撃にレクシオも吹き飛ばされ、雪の上を転がる。思わずうめいた彼は、なんとか起き上がろうと手を伸ばす。だが、思いのほか強い痛みと冷えのせいで、上手く体が動かない。
「レクシオくん!」
「レク!」
 なじみ深い、悲痛な声が名前を呼んだ。それに被せるようにして、甲高い笑い声が響き渡る。なんとか頭を上げたレクシオは、哄笑するレーシュの姿を捉えた。
「ああ、ああ! 今日はなんと素晴らしい日なのでしょう! 我が手で、我が力で、美しきラフィアの翼をへし折ることができるとは!」
 両腕を掲げたレーシュは、恍惚として笑い、自らの主神への感謝を叫ぶ。ゆがんだ殺意を向けられた当人は、それを唖然として聞いていた。そうすることしか、できなかった。
 そこかしこで、獣の声と足音が連鎖する。
「さあ。お仕事の時間ですよ、しもべたち」
 嘲笑を含んだ宣告。
 それは妙にはっきりと、そして美しく響いた。
 我に返ったレクシオの視界に、不気味に輝くいくつもの目が飛び込んでくる。動くことを許された獣たちは、獲物に食らいつくべく、獰猛に牙を剥いていた。
 恐怖と焦燥が、レクシオの内側を支配する。せめて逃げなければ、と思うが、体はまったく言うことを聞かない。思わず自分の手をにらんだレクシオは、そこで初めて、自分の周囲に小さな血だまりがいくつもできていることを知った。
 体から力が抜ける。世界が黒に覆われる。幾重にも連なる音を他人事のように聞いた彼は、無意識のうちに強く目をつぶっていた。

「させるかああああ!」

 誰かの叫び声。それが、茫洋と響いていた雑音ノイズを割った。
 レクシオは、はっと目を開く。黒髪と、赤毛の少女の背中が見えた。
 レクシオと獣たちの間に割って入った少女二人は、獣の牙を剣身で受け止めると、剣を大きく振って、食らいついていたものを投げ飛ばす。肩で息をしている彼女らのもとにラキアスが追いついて、群がる獣たちを次々と薙ぎ払った。さらに、横からレクシオを狙っていた獣をオスカーが容赦なく殴り飛ばす。
「おぉ……! ぶちょーもお兄さんも、すげー……!」
 ぜえぜえと息をしていたブライスが、いびつに口角を上げる。ラキアスとオスカーは彼女を振り返り、同時に顔をしかめた。
「無茶をするなよ、君たち!」
「まったくだ」
 男二人の苦言は、けれど雄叫びと剣戟の音にかき消された。ラキアスと学生たちに触発された軍人が、再び獣たちに向かってくる。
 レクシオは、その光景を呆然と見ていた。
「み……んな……」
 起こした体が、再び傾く。雪の上に倒れる前に、繊細な手が少年の肩を支えた。
「放っておけないのは、ステラだけじゃないね」
 明るい声に驚いて、レクシオはそちらへ首をひねった。ジャック・レフェーブルの秀麗な顔を間近に見る。青ざめたおもてにいつものような笑みを刻んだ彼へ、レクシオもいびつな微笑を返した。
「すまんね……団長……」
「気にすることはない。一人で戦わせたくない気持ちは、みんな同じさ。レクシオくんだって、そうだろう?」
 いつかの問答を引き合いに出した団長は、いつもの調子で言い、顔を上げた。その視線を追いかけたレクシオは、息をのむ。宵の色の瞳がこちらを無言で見下ろしていた。
「あれまあ、ずいぶんとお怒りのようだ」
 ジャックの口調は軽い。だが、さすがに頬が引きつっていた。レクシオも全身をこわばらせる。
「参ったな。もう、魔力がほとんどないのだけれど。レクシオくんを守るので精一杯だよ」
「ジャック、何言って――」
 弱々しい抗弁は、芝居がかったため息にかき消される。むろん、レーシュのものだった。金銀の髪の下で、双眸が氷雪よりも冷たく光る。
「手を下すのは『翼』だけに留めておくつもりでしたが……仕事の邪魔をするというのなら、致し方ありませんね」
 低い呟きが聞こえる。彼が右腕を掲げるのを見て、レクシオは歯噛みした。最悪の未来が迫っているのをわかりながら、どうすることもできない。
 万事休す、とはこのことか。暗い思考に浸りかけたレクシオの意識は、けれどその端で、覚えのある魔力を拾った。
 瞠目する。
 その瞬間、大気がうなり、氷の奔流が広場を切り裂いた。それは、黒い獣の群れを轟音とともに押し流して、砕け散る。多量の氷が雪の中に埋もれると同時、人々を再び金色の半球が覆った。強固な防壁魔導術は、無造作に放たれた力のかたまりを弾いた。鋭い音とともに、表面で激しく火花が散る。
 あまりに目まぐるしい出来事に、人々は驚くことも忘れて立ち尽くす。やがて、まっさきに我を取り戻した赤毛娘が、目と口をいっぱいに開いた。
「な、何これー! 誰がやったの!?」
 勢いよく振り返る。彼女の視線の先にいた神学専攻の少年が、ちぎれんばかりに首を振った。
「ぼ、ぼくたちではないですよ!」
 それは事実だ。魔導科生のほとんどが、未だへたり込んだまま動けずにいる。そして、防壁から漂う魔力は、この場の誰のものでもない。
 レクシオは、思わず遠くを仰ぎ見る。ジャックが訝しげにその視線を追っていることには、気づいていなかった。
 広場から少し離れたところであろう。高い建物が建っている。元々なんのための建物だったかは知らないが、ずいぶんと古いもののようだ。放棄されて久しいのだろう。外壁の塗装が、あちこち剥がれている。
 魔力の瞬きは、その建物の方から感じた。誰のものか、などと考える必要はない――レクシオにとっては。
 少年は、思わず魔力の主を呼びそうになった。けれど、音は表へ出ない。
 鋭い舌打ちが、彼の意識をかき乱す。振り返ったレクシオの目に、苛立たしげな少年の顔が映った。
「ヴィント……まだ我々の邪魔をする気なのですか。そのまま隠れておけばよかったものを」
 手が伸びる。白い指先は、建物の最上階の窓を捉えた。
 言葉はない。だが、その動作は、何よりも雄弁な宣戦布告だ。
 レクシオは、己を支えるジャックの腕を握る。無意識のことだった。
 頭の奥が、熱され、冷える。震える唇が、勝手に開いた。
「親父――!」
 悲鳴がこぼれる。それと同時に、不安と恐怖がはっきりと浮かび上がる。
 だが、彼の抱いたものが現実になることはなかった。
 レーシュは、手を「敵」の方に向けたまま目を細める。再び彼が舌打ちをこぼしたとき、上空が淡い光に照らされた。今度、魔力は感じない。けれど、別の異質な気配はあった。
「ラメドめ。しくじったか」
 レーシュの一言は小さい。彼の動向を注視していたレクシオたちだけが、それを聞き取った。
「人間と同じ舞台で戦おうとするから、そうなるのだ。愚か者め」
 味方に対するものにしては辛辣すぎる悪態をついたレーシュは、ほう、と息を吐くと、まっすぐ伸ばしていた手を下ろす。レクシオたちの方を振り返り、あのいびつな微笑を浮かべた。
「……口惜しいですが、今回はここまでにしておきます。我々の方も、根本的な計画の見直しが必要になりそうですので」
 歌うように語ったレーシュは、ひらいた手のひらに軽く息を吹きかける。

 すると、彼と獣たちの姿が消えた。これまでの神族と同じように。

 後にはやはり、なんの痕跡も気配も残らない。生々しい破壊の痕だけが、彼らがいたことを証明していた。
 息苦しい沈黙が落ちる。防壁魔導術がゆっくりと消えていく。
「な、なんだ……終わった……のか?」
 軍人の中の誰かが呟く。その瞬間、なんとも言えない虚脱感が広場中を覆った。言葉にならないうめき声やため息が、そこかしこから聞こえる。
 そんな中で、ラキアス・イルフォードが力強く手を打った。
「ぼうっとしている暇はないぞ! 動ける者は、周囲の警戒と負傷者の手当てを急げ!」
 彼の一声で、場の雰囲気が引き締まる。「了解!」と端的に応じた軍人たちが、命令を遂行するため駆け出した。ラキアスも広場の端の方へ駆けていき、幾人かの軍人に神官への伝令を頼んだ。
 動けなくなっていた魔導科生のもとにも、少しずつ軍人たちが駆けつける。
 慌ただしくなった現場で、レクシオたちだけが、取り残されたように呆然としていた。
 レクシオは、雪のちらつく白い空を見つめる。先刻までレーシュがいた場所だ。彼は一体、どこへ行ったのだろう。そんなことを考えかけて――けれど直後、上半身を折った。
「うっ――」
 体に、目の奥に、頭に、激痛が走る。傷の痛みではない。内側から炙られ、締め上げられるような感覚があった。
 どこもかしこも熱い。痛い。
 奇妙に熱を帯びた魔力が全身を駆け巡る。そのたび、脈が速まり、血が沸騰しているかのように思えた。
 前が見えない。息ができない。指のひとつも、動かせない。
「レクシオくん!? どうしたんだい、しっかり――!」
 珍しくうろたえたジャックの呼びかけも、駆け寄ってくる人々の叫びも、レクシオにはほとんど聞こえていなかった。激しくうめき、喉から空気を吐き出して、その場にうずくまる。
 チカチカと、目の奥でまばゆい金色が瞬いて。その光を暗闇が塗りつぶす。
 そうして意識を失う直前、彼は待ち焦がれていた音を聞いた。

「――レク!!」