第一章 闘争の狭間(3)

 帝都の一角にある館の中では、今日も子どもたちのにぎやかな声が飛び交っている。
 たった今、朝食を終えた彼らは、協力して片づけをしているところだった。お皿を運ぶ少女もいれば、机を数人がかりで拭いて回る少年たちもいる。中には、いくつもの食器を運ぼうとして体勢を崩し、年長者に支えられている子もいた。
 その年長者、ステラ・イルフォードはしょぼくれた少年を慰めたのちに、皿の塔を引き取って流し台に運んだ。それからも子どもたちの様子に気を配り、時には助けに入る。
 変わらず慌ただしい朝の時間を過ごしていた彼女は、けれどまろやかな声に呼ばれて足を止めた。ミントおばさんこと院長先生が、洗った鍋を持ち上げながら彼女を見ている。
「ステラ。あなた、今日はレクシオと約束があると言っていなかったかしら?」
「え? そうだけど――」
 うながされるように壁の方を振り返ったステラは、ぎょっと目をみはる。壁掛け時計の長針が九を示そうとしていた。約束の時間が迫っている。
「やっば! 遅れる!」
 子どもたちの声にも負けない絶叫が響き渡る。ミントおばさんは、鍋を水切り網の上に置いて笑った。
「あとは私が見ておくから、準備してきなさいな」
「ありがとう、そうする!」
 ミントおばさんの声を背中で聞き、ステラは大慌てでその場を飛び出した。疾風のごとく通路を駆け抜け、階段を飛び跳ねるようにして上り、自室へと駆け込む。
 昨日のうちに持ち物の準備を済ませていたのが幸いだった。ひったくるように鞄を持って、来た道を戻る。荷物を検めている時間も惜しい。
 階段を下り切ったところで、布巾の山を抱えたミントおばさんと出くわした。
「じゃ、行ってくるね!」
「はいはい。気をつけてねえ」
 遅刻の二文字に頭の中を占領されながらも、ステラは挨拶の言葉を口にした。もはや脊髄反射の域である。それに対するミントおばさんの声は、やはりふっくらとした丸みを帯びていた。
 孤児院を飛び出したステラは、黒鉄の門の前で足踏みをしながら呼吸を整える。一拍の後、駆け出した。
 目覚めから数時間経った街は、すでに活気づいている。郵便屋の青年や牛乳売りと思しき瓶を持った女性が家々の扉を叩き、そのかたわらを乗合馬車がゆったりと通り過ぎていった。
 幾人もの通行人を追い越したステラは、手元の紙――地図だろうか――を見ながら歩いていた男性を横目に小走りで道を横断し、またしばらく走ってから角を曲がる。表の騒がしさに背を向けてなお、変わらず走る。思えば、この道にもずいぶん慣れた。相変わらず静かな通りを抜けたとき、ステラは少し離れたところになじみ深い人の姿を見出す。嘆息したのち、全身を使って手を振った。
「レクー!」
 大声で名を呼ぶと、その人は振り返る。肩をすくめたように見えた。
 ステラが慌てて駆け寄ると、レクシオ・エルデは「おはようさん」と片手を挙げた。ステラはそれに手振りで応じて歩を緩める。
「ごめん、遅くなった」
「大して待ってないから大丈夫よ。孤児院いえの手伝いしてたんだろ」
「うん、まあ、そんなとこ」
 飄々と応じた幼馴染に、ステラはうなずいた。孤児院の手伝いを言い訳にはしたくないのだが、朝食の片づけに駆け回っていたのは事実である。彼女のしかめっ面からそのあたりの葛藤を察したのだろうか、レクシオは笑って手を振った。
「ほれ、行こうぜ」
「うん」
 今度は、二人並んで歩き出す。なんだか懐かしい光景だ、と感慨に浸っているステラの横で、レクシオが伸びをした。そのときステラは、今日の彼が剣帯をつけてきていないことに気づいて、目を瞬く。帝都に帰った後に切れてしまった鋼線のことを思い出した。
「そういえば、武器、どうなった?」
「ああ、とりあえず修理に出しといた」
 ステラが問うと、レクシオはこともなげに答える。その横顔を見ながら、少女は顎に指をかけた。
「あれ作ったの、裏通りの武器屋さんなのよね。気になるなあ。会ってみたい」
「ステラならそう言うと思ったよ」
 レクシオは後頭部に両手を回しながら笑声を立てる。
「でも、正直おすすめはしないな。道が複雑だし、無法地帯のど真ん中みたいなところにあるし」
 そんなふうに言う彼は、けれど鋼線を武器屋に持っていったという。つまり、「無法地帯」に踏み込んでいるということではないか。ステラはじろりとレクシオをにらみつけた。気づいているのかいないのか、彼はなんの反応も返さない。
 そんな会話をしているうちに、教会が見えてきた。朝の祈りとその後の『雑談』が終わった頃合いだろうか。家路につく人の姿がちらほらと見えはするが、相変わらず静かだ。いつもより暗いように見えるのは、日の光が届いていないせいだろう。
 ステラたちがいつもの調子で扉の方に足を向けたとき、横から突然声がかかった。
「あらまあ、学生さん? お祈りの時間はもう終わってしまいましたよ」
 ステラが振り返った先には、一人の老婦人が立っていた。白地に小花柄が散りばめられた布で白い髪をまとめ、深緑色の長衣を着ている。それに合わせた茶色い革靴が、少しふくらんだ裾まわりからのぞいていた。
 衣服こそ日ごとに違うが、この婦人は何度か見かけている気がする。ステラは、やんわりと微笑した。
「教えていただきありがとうございます。ですが、ご心配には及びませんよ。私たちは別の用事で来たんです」
 彼女がなめらかにそう答えると、老婦人は、あらあら、と呟いて、頬に手を当てた。
「そうなのね。相談事かしら?」
「そのようなものです」
 どこか楽しげな問いかけに、ステラはつとめて穏やかに返す。すると、老婦人は鈴を転がすような笑声をこぼした。
「それなら、あなたたちはとても幸運ね」
「幸運?」
「ええ。今日は神官様もいらっしゃっているから。いつもと違った助言やお祈りもしていただけるかもしれないわ」
 ステラは、軽く目をみはる。思わず隣を見ると、レクシオと目が合った。
 二人が顔を見合わせている間に、老婦人は「よい時間になるといいわね」と言い残して去っていく。少し丸まった後ろ姿を見送った学生二人は、再び互いを見た。
 少しの沈黙の後、揃って苦笑する。
「……とりあえず、行こうか」
「そうだな」
 乾いたやり取りをしたのち、二人は改めて教会の入口に向かった。その周囲は無人だ。
 扉を叩くと、ほどなくして応答がある。短い間の後、重い音を立てて扉が開いた。そのむこうに立っていた神父・エドワーズは、二人を見るなり一礼してほほ笑んだ。
「お久しぶりです、ステラさん、レクシオさん。ようこそいらっしゃいました」
「どうも、お久しぶりです」
「こちらこそ、お時間を作っていただきありがとうございます」
 いつもの調子で応じたレクシオの横で、ステラは静かに頭を下げる。それから、こちらへ、と体を内側に向けた神父について、教会の中に入った。人影に気づいたのは、そのときだ。
 祈りの間の奥、女神像の方から人が歩いてきていた。白が混じった金髪と茶色い瞳を持つ男性だ。年齢はよくわからないが、少なくともエドワーズ神父よりは年上に見える。髪は短く整えられていて、前髪を左側に流していた。暗がりの中でも映える衣を見て、ステラは彼の素性を看破する。――神聖魔導術を修めた聖職者、神官だ。
 エドワーズが神官に一礼する。彼もそれに倣ったが、すぐ後、ステラたちに気づくと目をみはった。
「エドワーズ神父、もしやこちらの方々は……」
「はい。当代の、ラフィア様の『翼』です」
 驚愕に彩られた神官の問いに、エドワーズはほほ笑んだまま答える。一方、ステラもまた、目を丸くしてエドワーズを仰ぎ見た。彼が一分のためらいもなく『翼』にレクシオを含めたからだ。しかし、その困惑とも驚きともつかぬ感情は、すぐに別の衝撃で上書きされることとなる。
 神官が、二人の前までやってくるなり、ひざまずいたのだ。空色の衣が空気を撫ぜて、重い音を立てる。
「お初にお目にかかります。セント・ソロネ大聖堂所属の神官、ダニエル・フィンレイと申します。新しき『翼』のご尊顔を拝謁できますこと、恐悦至極に存じます」
 ステラたちは唖然として白金色の頭を見下ろした。彼が涙ぐんでいるように見えたからだ。実際、発された声は震え、ぼやけている。ステラは思わずエドワーズを振り返った。彼は何も言わずにほほ笑みかけてくる。「ね?」とでも言いたそうな表情に、ステラは頬を引きつらせた。仕方がない、と気持ちを切り替え、ダニエル・フィンレイと名乗った神官に改めて向き合う。
「あの、どうかお顔を上げてください」
 おずおずとそう呼びかけると、神官の肩が小さく動いた。しかし、低頭したままだ。躊躇しているらしい。ステラは目を伏せてほんの少し考えると、口もとに笑みを刷いた。
「私が仕える『金の翼』は、選定を終えたばかりで教会に慣れていないのです。ですから、今は学生相手と思って接していただけませんか」
 そう言い募ると、フィンレイは「あなた様がそう仰るなら」とささやいて、ようやく顔を上げた。やはり『翼』という言葉は効果てきめんだ。
 神官が立ち上がったところで、ステラは深々と一礼した。
「改めまして。ラフィア神より『銀の翼』を任命されております、ステラ・イルフォードと申します。よろしくお願いいたします」
 それからやや遅れて、レクシオも彼女に倣う。
「このたび『金の翼』の任と御力を賜りました、レクシオ・エルデと申します。よろしくお願いいたします」
 その動作も名乗りもなめらかだ。けれど、いつものレクシオを知っているステラからすると、ややぎこちないように感じられた。顔も肩もこわばっている。先の言葉は方便のつもりだったが、あながち間違いでもなかったらしい。
 ちなみに、二人が使った口上は、だいぶ前にエドワーズから教わったものだ。学生としての『銀の翼ステラ』を知らない教会関係者に出くわしたときに戸惑わないように、と、過去の文献を探って教えてくれたのだった。まさか、帝都教会で口にすることになるとは思っていなかったが。
 フィンレイは恭しく頭を下げた。イルフォード家のことも、ヴィント・エルデのことも多少は知っているだろうに、何も言わない。それがありがたくもあり、いたたまれなくもあった。
「さて」
 ステラがぐっと息を詰めたところで、穏やかな声が空気を揺らす。三人ともが振り返ると、声の主、エドワーズはいつものように言葉を継いだ。
「それでは、ステラさん、レクシオさん。シュトラーゼであったことを聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
「……はい」
 ステラは、安堵の息とともに返事を吐き出した。