第一章 闘争の狭間(2)

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 追及されて『ぼろ』が出る前に撤退した方がいい。そう判断したレクシオは、逃げるように武器屋を後にした。鈴の音を背中に受けて、深く息を吐く。
 まったく、『翼』も楽じゃあない。レクシオは胸中で呟いて苦笑した。同じ立場に立って初めて、幼馴染の悩みや心労の一片を理解できた気がする。
 背伸びして、深呼吸。そうして気持ちを切り替えたレクシオは、来た道を戻っていった。荒れた道。ねばつく視線。靴をこする土の感触。どれにも動じず、むしろ懐かしさを噛みしめながら、表へ向かって歩いていく。
 その途中、道幅の広い通りから小路へ入ろうとしたとき、ふいに大きな音がした。人の声のようだ。網の目のごとく広がる路地のひとつから響いているらしい。苛立っているのか怒っているのか、激しく何事かをまくし立てている様子がうかがえる。レクシオは、音に釣られて声のした方を振り返った。
 ――そのときだ。
「この裏切り者! 二度と来るんじゃねえ!」
 今までで一番大きな、女性の声が聞こえたのは。
 女性の声だったことに、レクシオはそこで初めて気がついた。荒々しく、それでいてどこか暗い、嗄れ声。こういう場所では珍しくもないものなのに、なぜかレクシオはその声に気を引かれる。しかし、ほどなくして我に返ると、強く首を振った。
 このあたりの住人が揉めているのだろう。部外者のレクシオが首を突っ込んだところで、何にもならない。むしろ、彼自身の身が危うくなる。
「……帰るか」
 少年は呟いて、小路につま先を向けた。

 伸びる道は、変わらず暗い。昼にもならぬ頃だろうに、そこだけ夕方のようだ。レクシオは臆することもなく歩いていたが、途中でまた足を止める。後ろから、足音が近づいてきていることに気づいたのだ。しかも、聞き覚えがある。
「あれ? レクじゃんか」
 ほどなくして、少年の声が彼を呼んだ。レクシオは振り返って目をみはる。
「トニー」
 そこにいたのは、魔導科生にして『クレメンツ怪奇現象調査団』の古参メンバー・トニーだった。見慣れた外衣コートと帽子を身に着け、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべている。しかし――彼の姿は、明らかにいつもと違った。
「何してんの、こんなとこで」
「いや……それ俺の台詞なんですけど」
「俺はほら、昔の仲間のところに顔出しに行ってただけよー」
 トニーは、愕然としたレクシオの質問に答えながら歩み寄ってくる。体が弾んだ拍子に、帽子や衣の裾から尖った破片がぱらぱらと落ちた。陶器だろうか。
 そういえば、トニーはもともと路上生活者だった。
 思い出したレクシオは、頭をかいて、一度前を向きなおす。
「俺は……武器を修理に出してきた帰り」
「武器? あっちって、武器屋か鍛冶屋あったっけ?」
 猫のような両目を瞬いたトニーに、レクシオは苦笑を向ける。「一軒だけあるんだよ、武器屋」と答えたのち、その目を細めた。
「トニーは、お仲間と喧嘩でもしたのか? 頬腫れてるし」
 レクシオが右の頬をつつくと、トニーはきょとんとしてそれに倣う。自分の頬が赤くなって少し膨れていることに、そこで気がついたようだ。うげっ、と濁った声を上げる。
「えー……さっきまでこんなじゃなかったのに」
「後から腫れたり痛みが出たりするもんでしょうよ、そういうの」
 げっそりとした呟きに、レクシオは呆れてため息をつく。トニーは、うええ、と情けない声を上げた。
「このまま寮に帰るのやだなあ。伯母さんに伝わったら面倒なことになる」
 伯母、という言葉を聞いて、レクシオは目を瞬く。やや遅れて、唐突に理解した。おそらくはその伯母がトニーの身元保証人なのだ。レクシオにとってのミントおばさんと同じである。
 短い間思考したのち、レクシオはトニーの腕をとる。すぐ近くで、猫目が大きく見開かれた。
「しかたねえな」
「ん? なんだい、レクシオ」
「いいから。ついてきなさい」
 レクシオは、首をかしげるトニーを連れて、跳ぶように歩いていった。

 表と裏を繋ぐ小路を進む。その途中、レクシオはある建物の前で足を止めた。三階建ての集合住宅。淡い黄色の壁と小さな窓が印象的だ。今は廃屋となっており、人の気配は微塵も感じられない。
 レクシオは集合住宅の正面扉を強引に押し開けると、トニーの手を引いて中へ踏み込んだ。扉が軋む耳障りな音は、聞かなかったことにする。
「お、おいレク。こんなところに何の用事だよ」
 トニーの震える声が、真っ暗な玄関広間エントランスに反響する。
 レクシオは、両目を見開いた友人をこともなげに振り返った。
「俺と親父が帝都に潜伏してた頃に寝泊りしてた場所だ。ここなら人も来ないだろ」
 まだあって助かった、と呟いたレクシオは、空間の中央あたりでトニーを手招く。放置されたままの長椅子にみずからの外衣を敷くと、彼の肩を叩いた。
「ほれほれ、座りなさい」
「なんなのさ」
「いいから」
 レクシオが穏やかに言葉を重ねると、トニーはようやく長椅子に座った。ぶつくさと文句を言いながら、ではあったが。
 レクシオはそんなトニーの横でしゃがむと、虚空である構成式を編み上げる。それが済むと、友人の腫れた頬に手をかざした。
「はい、動かないでくださいねー」
 そんな、気の抜けた呼びかけの後、構成式が弾ける。トニーがわずかに瞠目した。腫れた個所に光が集まり、広がる。火花のように散った光が完全に消える頃には、少年の頬の赤みもすっかり引いていた。
 感覚の変化からそれを察したのだろう。こわごわと頬を触ったトニーが、レクシオを振り仰ぐ。
「……びっくりした。レクシオって医療系の魔導術も使えるのか?」
「とんでもない。そっちは専門外だ。今のはただ腫れと痛みを抑えただけ。だから、寮に戻ったらちゃんと診てもらえよ」
 腰に手を当てたレクシオがそう言うと、トニーは「あー」と情けない声を上げた。けれど、ほどなくして目もとを緩める。
「でも、見た目が派手じゃなくなっただけいいや。ありがとうな」
「どういたしまして」
 レクシオも笑い返した。が、すぐに表情を改める。
「で? 昔の仲間と何があったんだよ」
 問うた後で、「ま、話したくなけりゃ詮索はしないけど」と軽く付け足した。しかしトニーは、苦笑してかぶりを振る。
「これはあいつらにやられたわけじゃないよー」
「ん? じゃあ誰に――」
「俺を産んだ人」
 トニーは笑顔で、けれどぴしゃりと答える。レクシオはしきりにまばたきして、友人を見つめ返した。一瞬、言葉の意味が呑み込めなかったのだ。
 ややあって、音が言語として頭に入ってくる。
 彼を産んだ人――それは一般的に、彼の「母親」と呼ぶのではないか。
「あの人に顔見せる予定はなかったんだけど、ばったり出くわしちゃってさあ。一方的に怒鳴られて殴られちまった。とんだ災難、ってやつだ」
 笑い含みの声が語る。それが、レクシオにはひどくむなしく聞こえた。
 少し前、裏通りで聞いた女性の声を思い出したのは、偶然ではないだろう。裏切り者、と誰かを罵る低い声。あれは、きっと――
「トニー」
「ん?」
「もしかして、ちょっと前に裏通りにいたか?」
 確信を抱きながらも、レクシオは問いを舌に乗せる。トニーはきょとんとしていたが、やがてその相貌にほろ苦い微笑が広がる。
「あー……ひょっとして、聞いちゃった? 裏切り者ーって叫び声」
 案の定だ。レクシオがうなずくと、トニーは右手をひらりと振る。
「すまんかったね。嫌な気分になっただろ」
「いや……」
 曖昧に答えたレクシオは、「やっぱり行けばよかった」とこぼす。無意識のことだった。耳のいいトニーは、その小声をばっちり拾ったらしい。彼の方を見て、首を振った。
「レクの判断は正しいさ。あんな場所で怒鳴り声のもとに行こうもんなら、何されるかわからない。そんな危険なことしちゃだめよ。病み上がりなら、なおのこと」
 返る声はやわらかい。それでもレクシオが黙っていると、トニーは笑顔で自分の頬をつついた。先ほどまで腫れていた箇所だ。
「ここ、治してくれただろ。わざわざ人目を避けてさ。それだけで十分以上にありがたいよ」
 それを聞いて、ようやくレクシオも相好を崩した。
「なら、よかった」
「うんうん。それでいいのよ」
 トニーは勢いをつけて立ち上がる。下に敷いていた外衣を回収して軽く丸めると、レクシオに差し出した。
「さ、行こうぜ。昔の君らにゃ悪いけど、こんなところに長居したら黴が生えそうだ」
 レクシオは苦笑して外衣を受け取った。

「俺に魔導士の適性があるってわかったのは、確か七歳のときだ」
 細長く切り取られた空に、明るい声が響き、立ち昇ってゆく。
「なんでだっけなあ。仕事の客にたまたま魔導士がいたとか、そんなだった気がする」
 ぽつぽつと、彼がそんなふうに語りだしたのは、廃屋を出てすぐのことだった。「レクシオになら話してもいいか」などと呟いて、話を切り出したのである。レクシオは小さくない驚きを抱きつつも、黙って耳を傾けていた。
「んで、それがわかった何日か後、俺のところに父方の伯母さんと叔父さん――父親のお姉さんと弟さんがやってきた。どこから情報をつかんだのか知らないけどね。俺に対して、自分たちのところに来ないか、って言ってきた」
 レクシオは思わず顔をしかめる。その変化を見て取ったのだろう。トニーも肩を揺らして苦笑した。
「当時の俺も、それがどういう意味かわからないほどニブチンじゃなかったけどさ。何しろ法律上の親があんなだから、あの人のところにいるよりはましかなーって思って、彼らの提案に乗ったのさ」
 土と砂を踏む音ばかりが二人を包む。その隙間からこぼれるように、それに、という少年の声が落ちた。
「最初、叔父さんは怖いくらいに愛想がよかったんだけど、伯母さんはすんごいしかめっ面だったんだ。だから伯母さんも怖い人なんかなーって思ってたけど、話してるうちにちょっとずつ顔が優しくなってね。俺が提案を受け入れた後、『ごめんなさい』って言ってきたんだよな」
 トニーが地面を蹴りつける。つま先にすくいあげられた土は小さく跳ねて、少し先に落ちていた紙袋にかかった。
「こっちからしてみりゃー、謝るくらいなら何年も放置すんなよ、って話なんだけどな。ま、あの人や叔父さんよりはまともな人なんかなって思って。そんで、ヴィオラ伯母さんのところに行くことにしたんだ。クレメンツ帝国学院に『編入』することになったのは、それから少し経ってからだよ。読み書き計算ができなきゃ話にならないからね」
 そこまで語ったトニーは、足を踏み出したときの勢いで体を半回転させる。そうして、踊るようにレクシオを振り返った。
「だから、俺を産んだあの人にとって、父方の親族は自分から子どもを取り上げた極悪人。彼らについてった子どもは最低最悪の裏切り者、ってわけ」
「ああ。さっきのって、そういう……」
 暴力的な言葉を思い出しながらレクシオが呟くと、トニーは笑ってうなずいた。帽子のつばをつまんで、前を向きなおす。
 見慣れた後ろ姿からは、けれど哀切のようなものがにじみ出ている。弾む背中をまんじりと見つめたレクシオは、自分が小さかったときのことを思い出し、孤児院の子どもたちの姿を思い出し、それから血のつながった家族のことを思い出した。
 歩きながら、ため息をこぼす。
「子どもに対して裏切り者も何もないだろうにな」
「それはそう。そもそも、俺らはてめーの道具じゃねえって話よ。でも、そう思えない『親』だって、世の中にはごまんといる」
「そうだな。色んな親がいる」
 レクシオはしみじみと相槌を打った。そのとき、トニーがちらりと振り返る。
「なあ。レクの母親ってさ――」
 彼は言いかけて、けれどかぶりを振った。
「いや。やっぱいいわ」
 レクシオは首をかしげる。しかし、トニーがわざとらしく鼻歌をうたいだしたので、追及をあきらめた。――先の一瞬、心の中に立った波に気づかぬまま。

 歩いているうちに、聞き慣れた騒音が近づいてくる。ほどなくして、表通りに出た。あたりがまばゆい光に包まれたかのように錯覚する。
 人馬が行き交い、あちこちから煙が立ち昇る。そんな表通りの空気も決して清潔ではないが、裏の空気に比べればお綺麗なものだ。
 少年二人は思わずその場で深呼吸し、しばし解放感に浸った。通りがかりの紳士淑女に見られていたとしても構うまい。
 胸を大きく反らした姿勢から元に戻ってすぐ、トニーが目を瞬いた。彼は数歩前に出た後、軽やかにしゃがみこむ。レクシオが後を追うと、友人は何かを拾ったところだった。
「なんじゃこりゃ。高そうな落とし物だな」
 そう呟いたトニーの手にぶら下がっているのは、腕輪である。手首にかけるような細いものだ。陽光を受けて白く輝く小粒の宝石が輪をつくっていて、その中に二つ三つ、金色の輝きが混じっている。金ではない。それに近い色をした貴石だろう。宝石に詳しくないレクシオは「きらきらしてんな」としか言えなかったが、その金色には妙に惹きつけられていた。
 そんなレクシオをよそに、トニーはすぐ立ち上がる。あたりを見回したかと思えば、学院がある方向に向かって駆けだした。レクシオは、肩をすくめてから追いかける。
「もしもし、そこの方。これ、あなたの物ですか?」
 トニーが声をかけたのは、白いドレスをまとった女性だった。衣と同じ色の大きな帽子をかぶっていて、その下から豊かな金髪が背中に向かって流れている。
 その女性は、静かに振り向いた。彼女は、晴れた空のごとく青い目を見開いて、トニーと彼が持つ腕輪を見つめる。驚きが過ぎ去ると、その目もとはやわらかな微笑に彩られた。彼女は体ごと少年たちの方を向いて、少しだけ頭を傾ける。
「まあ。その腕輪は確かに、わたくしのものです。あなたが拾ってくださったのですか?」
 問う声は、春風のように温かく、明るく響く。トニーは何度か目をしばたたいたのち、ようやっと「はい」と答えた。
 彼がおずおずと腕輪を差し出すと、女性は軽く身をかがめて受け取る。所作のすべてが流麗だ。
「ありがとうございます」
 彼女はトニーとレクシオにほほ笑みかけた後、背筋を伸ばす。それから一礼して音もなく踵を返すと、最後に少しだけ振り返ってから去っていった。
 トニーとレクシオは、呆然とそれを見送る。女性の姿と気配は、あっという間に雑踏に埋もれていった。それから少し経って、少年たちはようやく顔を見合わせる。金縛りが解けたかのような心地だった。
「……すごい人だったな」
「うん。自分から声かけておいて何だけど、すげーびびった」
 しみじみと呟いたレクシオに、トニーが何度もうなずく。そんなやり取りをしたのち、二人もやっと歩き出した。
「ありゃ絶対どっかの貴族か王族だな」
「トニーがそう言うんならそうなんでしょうよ。でも、それならなんであんなところを一人で歩いてたんだろう」
「さあねえ。俺らが気づいてないだけで、どっかに護衛がいたのかもよ?」
 たった二人の会話など、表通りの喧騒の中ではすぐにかき消されてしまう。それをいいことに、彼らはしばらく好き勝手に言葉を交わした。
 その中で、レクシオはまた金色の石がちりばめられた腕輪のことを思い出していた。