第二章 皇女の依頼(1)

 明の月アウローラ十日。クレメンツ帝国学院は、しばらくぶりに子どもたちの姿と声に満たされている。冬期休暇が明け、本格的に講義が再開される最初の日。初等部から高等部まで、幅広い年齢層の生徒たちが、期待やけだるさを抱えて大きな門扉をくぐっていった。
 高等部『武術科』の生徒たちが集まる講堂も、その雰囲気は変わらない。ただ、ここには体格のいい少年少女が集っているので、他の場所よりややものものしい空気が漂っている。
 そんな中、ステラとレクシオは講堂の中ほどでいつものように合流した。示し合わせるわけでもなく、自然と隣り合った席につく。まわりの生徒たちのほとんども、変わらぬ二人の様子を気にすることはない。
「そういやステラ、残りの休みはどうでした?」
「どうも何も……取り立てて特別なことはなかったわよ。課題終わらせたり、剣の練習したり、魔力制御の練習したり」
 ふいにレクシオから振られた話題に、ステラは首をかしげながら答える。最後の一言は自然と小声になったが、常と違って『武術科』の全員が集まっている今、どうせ誰にも聞かれはしまい。
「っていうか、年末年始にはレクも来たじゃない。改めて聞くこともないでしょ」
 ミントおばさんの孤児院は、レクシオにとっても第二の家である。年末には毎年催されるささやかなパーティーに混ざりにくるし――人手が増えるのでステラにとってもありがたい――、年明けには早朝から挨拶に来てくれた。だから、ステラや彼女のまわりの様子はそれなりに見えているはずだ。そういう意味もこめて彼女が疑問の視線を向けると、レクシオは決まり悪そうに頭をかいた。
「いや、そうなんだけどさ。今回はほら、あんまり勉強会ができなかったから」
 明快さを欠く物言いに、ステラは目を瞬く。少し考えて、ようやく納得した。
 長期休暇になると、たびたびレクシオが孤児院を訪れて「勉強会」を開いてくれる。時には同好会グループの面々も巻き込んで、大規模なものになる。もちろん座学が苦手なステラのためだが、本人も孤児院に行くのを楽しみにしているらしい。だが、この冬期休暇にはそれができなかった。理由は――レクシオがたびたび寝込んでいたからだ。
 寮生たちから逐一様子は聞いていたし、ステラも二度ほどお見舞いに行った。そのときの彼の姿を思い出すと、胸の奥がつきりと痛む。原因を作ったのは自分だ、という思いはなかなかステラの裡から消えてくれない。
 このときもまた、鎌首をもたげた思いを打ち消すように手を振った。
「……気にしなくていいよ。あれはしょうがないでしょ」
「そう言ってくれると助かるわ」
「それに、たまにはレク抜きで頑張ることも必要だしね」
 ステラが澄まして言うと、レクシオは悪戯っぽく目を細める。
「で、なんとかなったか?」
「まあ…………多分」
 ステラは、ごにょごにょと呟いて目を逸らす。胸を張って、大丈夫、と言える自信はない。座学に関しては、本当に。
 レクシオが吹き出したらしい。腹立たしいほど爽やかな笑声を背中で聞きながら、ステラは肝心なところで格好がつかない己を呪った。
 そうこうしているうちに、先生たちが講堂にやってくる。その足音を聞くと、にぎやかに話し合っていた生徒たちがぴたりと口を閉じた。ステラたちも、話を止めて前を向く。
 四人ほどの先生が壇上に並び、一番大柄な男の先生――おもに体術専攻の講義を担当している、ラーデン先生が前へ進み出た。彼の重々しくも単純明快な挨拶が済んだのち、各専攻科の担当の先生から連絡事項が伝えられる。これが、学期に何度かある、学科全体朝礼の流れだ。
 そのさなか、ステラたちの担任であるリンダ・テイラー先生が、はきはきと告げた。
「職場見学の行先が正式決定しました。この後、専攻科ごとにお知らせがありますので、みなさんしっかり聴いてくださいね」
 講堂内にわずかながら、ざわめきが広がる。ステラはその中で、ぎょっと目をみはった。
 職場見学。中等部三年から毎年、冬期休暇が明けてすぐに行われる、いわば新春の一大行事だ。だいぶ前から話は出ていたはずなのだが、学院祭フェスティバル以降、色々なことがありすぎて頭から抜け落ちていた。
 ステラの行先は――あそこしかないだろう。

 テイラー先生の言葉通り、学科全体朝礼が解散して間もなく、その話が上がった。日程の説明の後、行先の説明や見学内容の詳細が書かれた紙が生徒一人ひとりに手渡される。ステラは、名前を呼ぶテイラー先生の声を聞くともなしに聞いていた。ややして、自分の名が呼ばれると、立ち上がって教室の前方、教壇の上へ行く。妙に厚い二つ折りの紙を受け取って元いた席に戻ると、静かにその紙を開いた。
『帝国陸軍特別部隊・宮廷騎士団』――一行目の文字に目を通して、息を吐く。予想通りだ。
 冬の間に実家に行ったのは正解だったかもしれない。
 これまでは、宮廷騎士団と聞くたび、軍部へ見学に行くたびに父のことを思い出して居心地が悪くなったものである。けれど、今はさほど心がざわついていなかった。
「お、ステラは予定通りだったか」
 少しして、からりと明るい声がする。ステラは紙を開いたまま顔を上げた。名前を呼ばれて戻ってきたらしいレクシオが、緑の瞳を丸くしてこちらをのぞきこんでいる。彼の言い方に引っかかるものを感じて、ステラは頭を傾けた。
「レクは予定通りじゃなかったの?」
「ある意味予定通り、かな。俺はほら、はっきり進路希望出してないからさ。先生にいくらか案を出してもらって――ここに決めた」
 レクシオは言いながら、自分がもらった紙を開いて、左上を叩く。それを見たステラは、両目をこぼれんばかりに見開いた。
 最初の一行。そこに書かれている文字は、ステラのものと一字一句同じだった。

 職場見学の行先は、生徒本人の進路希望に基づいて決定される。高等部にもなると、その種類がより多彩になると聞いていた。ちなみに、進路希望が定まっていない生徒については、本人の適性や環境などを考慮したうえで先生の方からいくつか提案があり、その中から選ぶ形になるらしい。
 それは知っていたが、レクシオが宮廷騎士団を選ぶのはまったくの予想外だった。
「え、え? レクが宮廷騎士団行くの? なんで?」
「進路とはまったく別の、きわめて個人的かつ我々十人に関係がある理由で」
 レクシオはよくわからないことを早口で言い終えて、ぱたりと紙を閉じた。飄々と席についた彼を見て、ステラは眉を吊り上げる。
 言いたいことはよくわからなかったが、「十人に関係がある」という一言は聞き逃していない。十人、つまりは『クレメンツ怪奇現象調査団』と『ミステール研究部』。この全員に関係があることといえば、怪奇現象かラフェイリアス教に絡む案件である。職場見学中に怪奇現象の調査をするはずもないので、ほぼ確実に後者だ。実にきな臭い。
 ステラは、幼馴染の発言を追及しようと口を開く。しかし――
「やっほー! 二人はどこ行くの?」
 発するはずだった問いは、後ろから響いた声に封じられた。
 振り向いた瞬間、視界いっぱいにふわふわの赤毛が飛び込んでくる。ステラは、身をひねってブライス・コナーの突撃をかわした。あっさりと突撃をあきらめ、二人の前に着地した『ミステール研究部』の少女は、二つ折りの紙を片手に無邪気な笑みを浮かべる。その後ろから、ミオン・ゼーレがおずおずと顔を出した。
「ねえねえねえ、二人はどこ行くの?」
「はいはい教えるから落ち着きなさい」
 前のめりになるブライスの顔に、ステラは自分の紙を押し付ける。ぱっと身を引いた赤毛娘は、一番目立つ文字をながめてまばたきした。
「あ、軍部組かー。そりゃそうだよね」
「『武術科』の子の大半は、軍部のどっかを志望するからね。ブライスは違うの?」
「私はちゃんとした進路希望出してないからさ。とりあえずここにした」
 わはは、と口にしたブライスは、紙を広げてみずからの行先を示す。『帝都警察第一支部』の文字を見て、ステラとレクシオは目を丸くした。
「警察?」
「正直、意外だな」
 捉え方によっては失礼な言葉を、二人は揃ってこぼす。しかし、言われた当人はあっけらかんとしていた。
「だっしょー。ま、軍部がお堅そうだからって、消去法で選んだだけなんだけどね」
「どっちもどっちだと思うがね」
「はっはっは。言ってくれるな、幼馴染くん」
 ブライスはその場で何度か飛び跳ねる。そうかと思えばぴたりと固まり、つぶらな瞳を少年に向けた。
「そういえば、幼馴染くんも軍部組?」
「ん? そうよ。ステラと同じとこ」
 ほれほれ、と、レクシオは分厚い紙を振ってみせる。ブライスはうなずいたのち、彼の方に顔を寄せた。
「大丈夫なの? おっかなぁい人がいっぱいいるところでしょ」
 言いながら、両目を見開き、眉を吊り上げる。彼女なりに真剣な表情をつくっているつもりらしい。レクシオはきょとんとしていたが、少ししてうなずいた。
「大丈夫、大丈夫。今回、憲兵隊とは関わらないだろうから。それに、宮廷騎士団は、名前だけ見りゃ陸軍の一部っぽいけど、実際は全然別の組織だからな。……だろ? ステラ」
 流れるように視線を向けられたステラは、条件反射でうなずく。それと同時に、ブライスが案じていることを察した。あえて明るくほほ笑み、幼馴染に追随する。
「さすがのダレットや憲兵も、職場見学前後に手出しはしてこないわよ。いくらなんでも目立ちすぎる」
「それもそうか。なら、とりあえず安心、だね!」
 顔を輝かせたブライスは、その場で軽やかに一回転した。その様子を苦笑してながめていたステラは、ふとその後ろを見やる。先刻から視界の隅で沈黙している、もう一人の姿を捉えた。
「ミオン? どうしたの、小さくなって」
 名を呼ぶと、少女はそろりと顔を上げた。
「いえ、あの……わたしがすごく場違いな気がして……」
「本当にどしたの、急に」
「えと……行先が全然違うので……」
 消え入りそうな声で答えながら、ミオンは三人の輪に近づいてくる。それから、そっと紙を示した。ミオンのそれには、一行目に『国立魔導研究所・構成式部門』と書かれている。
「おおっ。『魔導科』の定番!」
「でも、『武術科』じゃミオンだけかもね」
 少女二人が目を輝かせると、ミオンはぎこちなくうなずく。「同好会グループの誰かが一緒だといいんですが」というささやきが聞こえた。
 ステラは、どことなく心細そうな少女に再び目をやる。
「ミオン、自分から希望したの?」
「いえ……テイラー先生から提案されて……」
 ミオンは、『魔導の一族』であることを伏せるために『武術科』に入ってきた。レクシオと同じように。だが、レクシオと違って、ある程度魔導術を使えることが生徒たちに露見している。だからこそ、テイラー先生も魔導士としての選択肢をひとつ示したのかもしれない。
 ステラは、胸に薄い靄がかかるのを感じて顔をしかめた。直後、すぐ横からおどけたようなささやきが聞こえてくる。
「実はちょっと気になってるんだよな、国立魔導研究所」
 ステラはどきりとした。しかし、振り返った先のレクシオは、いつものようにほほ笑んでいる。
「魔導学がわかる奴には絶対楽しいぞ、あそこ」
「楽しい、ですか」
「ん。ミオンはとりあえず楽しんでくればいいと思う。高等部つっても、まだ一年だしな」
 ミオンは虚を突かれたように目をみはっていたが、その表情はじんわりと笑みに彩られていく。やがて、彼女はおさげを揺らしてうなずいた。
「わかりました。楽しんできます。……レクシオさんの分まで」
「おっ、いいな、それ。土産話も期待しちゃおうかな?」
「そういうことなら、張り切って色々見てきますね!」
 同胞の少年少女は、やわらかな笑声を弾けさせる。そんな二人に「観光に行くんじゃないんだからね?」と釘を刺しながら、ステラも笑っていた。
 ひとしきり笑ったのち、レクシオが三人を見回して唇をゆがめる。――笑みの色合いが、変わった。
「俺も、みんなにいい土産話ができるように、しっかり確かめてくるわ」
「確かめる? 何を?」
 頭を傾けたブライスに、レクシオは片目をつぶってみせる。そして、不明瞭な答えを口にした。
「ある恩人の正体、かな」