第二章 皇女の依頼(2)

「国立魔導研究所の構成式部門? それなら、僕と同じだね」
 放課後の第二学習室に、今日も今日とてジャック・レフェーブルの陽気な声が響く。それを聞いたミオンが、わかりやすく安堵の表情を見せた。こわばっていた肩から力が抜ける。
「よ、よろしくお願いします」
「よろしく、ミオンくん!」
 頭を下げた少女に、『クレメンツ怪奇現象調査団』の団長は爽やかな笑みを返した。そのやり取りに、団員たちが温かな視線を注ぐ。
「私とトニーは部門違いだねえ」
「おう。魔導具部門だからな」
 ナタリー・エンシアがふと呟きをこぼし、トニーがのんびりとそれに応じる。後頭部を抱えるように指を組んだ彼は、椅子に座ったまま両足をぷらぷらさせた。
「意外と行先固まったなあ。まあ、『魔導科』と『武術科』なんてこんなもんか?」
「『ミステール研究部』の方は、見事に分かれたそうだよ」
 親友のぼやきを拾ったジャックが、振り向いて笑う。
「オスカーは新聞社、ネリウスさんは国立魔導研究所、ブライスくんは帝都警察第一支部、カーターくんは教会、だったかな」
「ところどころ意外過ぎるんだけど」
 頬を引きつらせたナタリーを見て、ジャックが首をかしげる。彼はそういうふうに思わなかったらしい。一方、トニーは半眼になっていた。
「カーターが教会に行くって、いつもと変わんなくね?」
「エドワーズ神父のところではなく、もっと大きなところだそうだ。中央通りあたりの……なんというところだったかな」
「あー。なるほど。中央っつーと、セント・ヴィリア教会かな」
 トニーが指を鳴らして笑う。それだ、とジャックが嬉しそうに手を叩いた。団員たちの会話を聞いていたミオンが、感嘆の声をこぼす。
「へええ……本当に色々なところがあるんですね……」
「ほかには、法務院、通信局、音楽学校や軍楽隊なんかも挙がっていたね。あとは、来年くらいから魔導具工房も見学できるようになるかもしれない、と噂になっていたよ」
 おおお、と、ミオンが吐息のような声をこぼしてのけぞった。茶色の瞳が好奇心に輝いている。残る女子二人が、顔を見合わせて苦笑した。
「法務院といえば。ジャックこそ、法務院とか議事堂とか勧められなかったのか?」
 両目をしばたたいたレクシオが、流れるように手を挙げる。ジャックは「もちろん勧められたし、選択肢のひとつではあった」と、あっさりうなずいた。
「けれど、今回は見送ったよ。構成式研究にも興味はあるし、見れるうちに色々な職場を見ておくのは大事だと思ったからね」
 ジャックのように議員を親に持つ生徒は、当然、学院内にいくらかいる。そういう子たちは自分たちが政治家や法律家になることを当然だと思っているふしがあり、職場見学でもそういった職種を選ぶことがほとんどだ。そんな中、異なる選択をしたジャックに、けれど気負った様子はまったくない。それどころか、とても楽しそうだ。
 常と変わらぬ団長の姿に、ステラは思わず目を細める。
「そうだよね……あたしも、来年は違うとこ希望してみようかな」
 何気なく呟いたステラは、しかし直後に顔をこわばらせた。五人が一斉に自分の方を見たからだ。しかも、全員が目を真ん丸に見開いている。
「え、なに、そんなに意外?」
「いや意外というか…………うん、やっぱ意外だわ」
「どっち!?」
 うめくように言葉をしぼりだしたナタリーは、うなずいたり首を横に振ったりと忙しい。友人の言動に戸惑っていたステラは、けれどすぐに振り向いた。男子たちの笑い声を聞いたのである。忙しさでは、彼女もナタリーといい勝負だった。
 揃って笑っていたレクシオとトニーは、ステラににらまれると、詫びるように手を挙げる。今日はその動作まで揃っていた。
「ステラといえば宮廷騎士団、って感じだもんな」
「どういう心境の変化かねえ?」
 しみじみとうなずいたレクシオの左隣から、トニーが顔を突き出してくる。彼の無邪気な問いに困って、ステラは眉を寄せた。朝霧に包まれた街のような今の自分の気持ちを、上手く言語化できる自信がない。
「えーっとね……。ほら、秋からこっち、色んなことがあったでしょ。それで、今まで知らなかった世界を知ったし、びっくりするものもたくさん見たし」
 それでもステラが重い口を開くと、五人の学友は顔を彼女の方へ向ける。真剣そのものの視線を感じて、ステラは焦燥と安堵を同じだけ抱いた。
「それでさ。色々と見聞きしていくうちに、皇帝陛下をお慕いする気持ちが揺らいできたんだ。尊敬や信頼よりも、疑いとか不信感とかが強くなってきた感じ」
 声をうんと潜めたのは、無意識のことだった。しかし、いざ思いを口に出すと、鼓動が一気に速まる。冷たい汗がにじんだ手を強く握った。そんなステラをよそに、少年少女は納得したような表情をしている。ミオンなどは気まずげに目を伏せていたが、それもステラの発言を否定したりたしなめたりするような反応ではない。
 ステラは、彼らの目から逃れるように思いっきり体を伸ばした。椅子がか細い高音を奏でる。
「それで、宮廷騎士団に行くのが本当に正解なのかなーってぼんやり思ってるとこなの。それに――」
 口早に語ったステラはしかし、途中で慌てて口を閉じた。喉元どころか舌先まで出かかっていた言葉をなんとか飲み込む。ざわり、と胸の奥が波立った。
 不自然に言葉を止めたステラを見て、団員たちが怪訝そうな表情をする。
「それに?」
「あ、いや……」
 悪意のないナタリーの問いに、ステラはすぐ答えられなかった。目を泳がせ、その果てで、みずからの片翼を見る。
 ――ステラが剣と身命を捧げる相手は、彼だけだ。それは一生涯揺らがぬであろうと、不思議なほどに強く確信していた。
 たった一人に忠誠を誓った自分が、皇族に従う騎士を『演じられる』のか。それが、今のステラにとって最大の不安であり、悩みだった。
 しかし、おそらく『翼』にしかわからないであろうこの胸中を団員みんなの前で吐露するのは気が引ける。一瞬のうちに思考したステラは、笑顔をつくり、右の拳でみずからの胸を叩いた。
「ほら、あたし『イルフォード家の跡継ぎにはなれません』って兄上に言っちゃったし!」
 まだ誰にも伝えていなかった事実を話題に上げると、五人は意外そうに目をみはる。
「ほう。跡目争いから抜けたのかあ」
「争ってた覚えはないわよ」
「それは……今決めてしまって、よかったのかい?」
 楽しげに呟いたトニーに、ステラはじっとりと一瞥をくれる。そんな彼女へ、ジャックが気づかわしげに問うてきた。イルフォード家の令嬢は、真剣な顔をつくって学友たちを見回す。
「いいの、いいの。あたし、『翼』になっちゃったでしょ? 教会で力を持っちゃった人がイルフォード家の当主なんかになったら、絶対、確実に、揉める。そういうの面倒だからさ」
 それもまた、ステラの本心であるには違いない。だからか、特に追及は受けなかった。ただ一人、レクシオだけはうかがうように目を細めたが、それも一瞬のことである。厳しい表情は、すぐにいつもの飄々とした微笑に取って代わった。

 職場見学に関する情報と思いをひとしきり交換したところで、会合はお開きとなった。差し迫る行事が終わるまでは、同好会グループらしい活動はできないだろう。それはどの同好会グループでも同じことだ。
 今日はステラがまっさきに席を立った。仲間たちに挨拶をし、彼らの笑顔に見送られながら第二学習室を出る。ずしりと重い鞄を抱えて、夕闇に沈みつつある廊下をしばらく歩いた。
「ステラ」
 同じように帰ろうとしている生徒たちのざわめきが遠くに聞こえたところで、よく知った声が背後から響く。ステラは足を止め、踊るように振り返った。柱が生み出した影の下で、幼馴染が片手を挙げている。
「レク? なんか用事?」
 駆け寄ってきた少年に、何気なく問いかける。その瞬間、彼の笑みが少しかすんだような気がした。
「ちょっと、言っておきたいことがあってな」
「……? 珍しいね、どしたの?」
「いや。おまえが進路に悩んでるとか言うもんだから」
 ステラは軽く目をみはる。心臓の音がいつもより大きく響いたのは、きっと気のせいではない。
 レクシオが隣に立つ。そして、静謐なまなざしをステラに注いだ。
「俺の――『金の翼』のことを気にしてるのなら、そういうのはよしてくれ」
 その声は穏やかだった。なのに、刃のように鋭くステラの胸に届いた。
「俺は確かに、ステラの戦友ともとして、片割れとして、王として共に在ると決めた。『銀』の誓いが固く強いものだってこともわかってる。けど、俺は、おまえの全部を束縛したいわけじゃない」
 緑の瞳が、夕方の光と闇を飲み込んで、虹色に輝く。それを見つめて、ステラは息をのんだ。
「俺たちは、『翼』である以前に、人間だ。十六年、必死こいて生きてきた一人の人だ。女神の代理人としての使命や誓いとは別に、そいつ自身の人生を大事にする時があってもいいはずだ」
「レク……」
「俺は、ステラに、ステラ自身の人生を大事にしてほしい」
 音は静かに、やわらかく落ちる。
 ステラはそれを受け止めて、噛みしめて、呑み込んだ。鋭い刃が、やわらかな熱に変わっていくような感覚がある。じんわりと胸に広がったこの感情に名前をつけるのは、難しい。それでも、ステラはほほ笑んだ。ほほ笑んで、いつになく真剣な表情の片翼を見つめる。
「ありがとう」
 レクシオが、瞠目した。その瞬間、ステラは彼の脇腹を小突く。相手が声を上げてよろめいたところで、意識して眉をつり上げた。
「でも、その言葉はそっくりそのままお返しするわ」
「ええ?」
 脇腹を押さえたレクシオが、情けない声を上げる。心底戸惑っているような表情が新鮮に映った。ステラは小さく笑声をこぼして、レクシオに向き直る。
「確かに、あの誓いのことを考えてないって言ったら嘘になる。けど、それでいいんだよ。あたしが望んで悩んでることだから」
 足を踏み出した。弾むように前へ出る。その場で半回転して、胸に手を当てた。
「私の王はあなただけ。ただ一人、私が選んだ『金の翼』。この先何があっても、それは絶対に変わらない。たとえ、これまで追いかけてきた夢をあきらめることになったとしても」
 レクシオの瞳が揺らぐ。そのとき、日がかげった。虹色が消えて、新緑の色が闇に沈む。それでもステラには、彼の相貌がちゃんと見えた。色のない静けさをまとった顔が。泣きそうな両目が。
「イルフォード家を継がないって決めたのだって、後悔してないよ。それよりも大事なものを見つけたから。それを守りたいって思ったから」
 彼の目に、今の自分はどう映っているのだろう。――少しは、騎士らしく見えているだろうか。
「だから、レクシオ、自分のせいだとか思わないで。堂々としていて。ありのままのレクでいて。私はそれが、一番嬉しい」
 ステラは笑う。つくったものでもなく、繕ったものでもなく。湧きあがる感情に任せた笑顔を、彼に向ける。
 レクシオは目を閉じた。そして、少しの間、黙っていた。
 再び、窓から日が差し込む。光と影がくっきりと分かたれる。
 目を開いたレクシオが、光の中へ踏み出した。
「……そこまで言われちゃ、返す言葉もないわ」
 茜色に染まった顔には、朗らかな笑みが浮かんでいる。
「わかったよ。さっきの件については、もううるさく言わない。そんで、俺は俺で好きにやる。それでいいよな、俺の騎士さま?」
「もちろんでございます、我が王」
 芝居がかった応酬をしたのち、二人揃って吹き出す。少し笑ってから、レクシオが右手を差し出してきた。
「せっかくだから、俺も途中まで一緒に行くわ」
「よしきた。どうせなら孤児院に顔出していったら?」
「それは時間次第だな」
 飄々と答えたレクシオにうなずいて、ステラは己の左手を彼の右手に重ねる。そうしてただの学生に戻った二人は、廊下を早足で歩き出した。

 ――そして、職場見学の日がやってくる。