第三章 冥界の窓(4)

 ステラは、ふつふつと湧きあがる怒りと敵意を視線に乗せて、突如現れたセルフィラ神族にぶつける。一方で、冷静に彼女と周囲の様子をうかがってもいた。
 ダレットはうっすらと笑んでいるだけで、動く気配がない。そして、見えている「神」は彼女だけだ。けれどステラは感じ取っていた。ここにいるのはダレットだけではない。覚えのあるもうひとつの気配が、空間に満ち満ちている。
 ダレットは、そんな素振りをちらとも見せず、紅い唇をひらいた。
「『翼』の力を感知したものだから、急いで飛んできたのだけれど……もうここまで入り込まれるとはね。つくづく侮れない子どもたちですこと」
 歌うように語る彼女の口ぶりからは、みじんも焦りを感じられない。だから、言葉のどこまでが本当かもわからない。だが――ステラとレクシオは、得物を構えたまま視線を合わせる。自分たちが入口を見つけたあの時点で、ダレットたちに気づかれていたのは確実だろう。
 細められた目の中で、昏い瞳が動く。それは今度、驚きつつも腰の剣に手をかけているアーサーを捉えた。
「アーサー殿下。あなたも困ったお方ですね。部外者を宮殿の中に手引きなさるなんて、皇族の行いとは思えませんわ」
「……副宰相の職に就いていながら、民の虐殺を提言した者に言われたくはないな」
 アーサーは一瞬顔をしかめたが、すぐに切り返した。ダレットは驚いたふうに眉を跳ね上げた。そのしぐさはどこか芝居がかって見える。
「ああ、なるほど。当時からあなた方は『魔導の一族』を刺激することに否定的でしたものね。だから私の身辺を嗅ぎまわっていた、と。アーサー殿下お一人では大したことはできませんから、アデレード殿下も関わっていらっしゃるのでしょうね。それとも、あの方こそが首謀者でしょうか?」
 アーサーは答えない。押し黙った、というよりは、意図して口をつぐんでいるようだ。対して饒舌なダレットは、目もとと口もとを不気味にゆがめる。
「さぞかしご苦労なさったことでしょう。ここに辿り着いたこと、そしてこの時機にラフィアの『翼』を引き込んだことは称賛いたします」
 笑い含みの言葉に答える声はない。ただ、空気を揺らす細い音が響いた。細くて長い、吐息の音。それは、アーサーの口もとから発された。剣の柄に手をかけたままの彼は、息を吐き切るとダレットを鋭くにらみつける。
「そちらから出向いてくれたのなら好都合。ダレット副宰相、おぬしにふたつ、訊きたいことがある」
「なんでしょう、殿下?」
「おぬしは何者だ。宮殿に入り込み、父に取り入った理由はなんだ?」
 沈黙の中、皇子と副宰相が対峙する。視線に込められた感情がどのようなものか、ステラたちにはわからない。ただ、一分近く続いたにらみ合いののち、ダレットが小さく笑った。その声はみるみる大きくなり、最後には哄笑となる。
 ダレットはひとしきり笑うと、油断なく空中を見つめている人間たちを見下ろした。
「いいでしょう。ここまで辿り着いたご褒美に、教えて差し上げます。……彼らがいる以上、しらを切る意味もありませんしね」
 学生たちを一瞥した彼女は、胸に手を当て、優雅に一礼する。
「我が名はダレット。偉大なる主神に叛き、セルフィラ神を主と仰ぐ『情愛と欲の神』の一柱。――どうぞ、お見知りおきを」
 アーサーの体が小さく震え、固まる。晴天の瞳が見開かれる。
 その一部始終を、ステラは息をのんで見ていた。何が起きても動けるように、神経と魔力を研ぎ澄ます。
 けれど、彼女の予想に反して皇子は冷静だった。少なくとも、取り乱したりダレットの発言を頭ごなしに否定したりはしなかった。
「神、か。なるほど」
 ただ、静かに呟いて。口の端を持ち上げた。
「荒唐無稽な話だが。おぬしが神であるとするならば、だいたいのことに説明がつくな」
「さすが、聡明ですこと」
「それで? おぬしの主とやらのために宮殿やこの国を引っ掻き回していた、とでもいうのか」
 アーサーの視線が、ほんのひとときダレットから逸れる。その視線は確かに『魔導の一族』の二人を捉えていた。
 ダレットの笑みは少しも崩れない。
「広い意味で申し上げれば、そうなりますね。二つ目の質問への回答をいたしましょう。私が宮殿に入り込んだ目的は、ふたつ。ひとつは、ラフィア神が選ぶ代行者――『翼』を排除しやすくするため。もうひとつは、ある物を探し出すため」
 ぴくり、と金色の眉が動く。
「……ある物?」
「殿下がお気に留められるほどの物ではございませんわ」
 なめらかな返答に、アーサーはむっと眉を寄せる。一方ステラも、ダレットを注視した。わざわざ皇子に釘を刺すということは、探られると都合の悪いことなのかもしれない。それこそ「本来の目的」に関わるような。
 ある物。彼らが探し求めるような物とは、なんだろう。
「ルーウェンを解体させたのも、だからですか」
 少女の声が、張り詰めた空気を切り裂いて、響く。
 ステラはそちらを見なかった。誰の問いかは、振り返らずともわかる。
 意外そうに目を丸めたダレットの前へ、声の主――ミオン・ゼーレが踏み出してくる。彼女は剣に手をかけ、うっすらと魔力を身に帯びて、茶色い瞳を神族に向けた。
「あの町を壊し、人々を殺したのも――そう仕向けたのも、目的のためですか?」
 ミオンは冷然としていた。そこにいたのは、ステラたちが知らない少女だった。
 顔にかかった黒髪を払ったダレットが、しばし無言で彼女を見つめる。それから、何かを思い出したように目を瞬いた。
「ああ。あなた、生き残りなのね。まだ隠れていたなんて」
 侮蔑を、嘲笑を、取り繕おうともしない言葉。それを受けたミオンが唇を噛み、けれど少しも動かなかった。身にまといつく魔力は濃さを増したが、それがダレットに向くことはない。
「そうね。あれも『翼』を排除するための計画ではあったわ」
 ダレットは、先ほどとは打って変わって投げやりに答える。
「『魔導の一族』は『翼』の適性が高い人々で、実際過去に彼らの中から『翼』が選ばれている。だから、『銀の選定』が近いと知ったとき、私たちは真っ先に彼らを排除すべきという意見で一致した。そして、皇帝を使って殺させた」
 ミオンが息をのみ、レクシオが瞑目し――ステラは、彼らを振り返る。
 ダレットの言葉は、以前フィンレイ神官が話してくれたことと重なった。『翼』の選定基準のひとつが、女神の魔力に耐えられること。だから、魔導術に長けた彼らは最適な人材なのだと。
「ご満足いただけたかしら、お嬢さん?」
 ダレットがミオンを見下ろしてほほ笑む。そのまなざしは娘を見守る母のように優しくて。ゆえにこそ、不気味だった。
 ミオンは答えない。唇を引き結び、剣の柄を握ったまま立っている。その手が、小刻みに震えていた。
 情愛と欲を司っていたという神族は、ため息をついてかぶりを振る。
「……国の中枢に入り込み、人々を扇動し、ルーウェンの町ごと彼らを消す。それ自体は難しいことではなかったわ。想定よりも多くの者が生き残ってしまったけれど、私たちにとってそれは、ほんの小さな誤算に過ぎなかった。今代の『銀の翼』が選ばれる、その瞬間まではね」
 切れ長の目が細められる。それまでと違い、明確な殺意がステラたちを射抜いた。二人も、負けじと相手をにらみ返す。
「親の仇を片割れに選ぶだなんて、イルフォード家のお嬢様はずいぶんと物好きなのね」
「親の仇は、ヴィントであってレクシオではないので」
 ステラは即座に切り返す。周囲がざわついたことには気づいていたが、あえて無視して足を踏み出した。
 銀色の切っ先を、宙に向ける。
「……っていうか、あの事件も元を辿ればあなたたちのせいでしょう。ルーウェンがあんなことにならなければ、ヴィントが人殺しをすることもなかったでしょうに」
「さあ、それはどうかしらね」
 ダレットの声に揺らぎはない。そこからは何の感情も読み取れない。先ほどのような愉悦も、侮蔑も、嘲りも。
 これは、神本来のまなざしだ。
 そう悟った瞬間、ステラの全身を悪寒が駆け巡る。心臓が縮み、手足が震えそうになり、冷たい汗が噴き出す。全身が警鐘を鳴らしている。
 畏れにすくむ彼女をその場に留めたのは、彼女自身の意志と――
「よくわかった」
 ――陽光のような一声だった。
「おぬしらがここ十数年、様々な事件の裏で糸を引いていたこと。そして、人の生命をなんとも思っていないこと。それが、よくわかった」
 かすかな金属音が、空間にこだまする。
 ステラの隣に立ったアーサーが、抜き放った剣を躊躇なくダレットに突きつけた。
「そして、そのような者を野放しにするわけにはいかない。相応の罰は受けてもらうぞ」
 朗々と響くは宣戦布告。それを受けてなお、黒い女神は悠然としていた。
「人間社会の裁きや罰に興味はないのだけれど。まあいいわ」
 そう呟くと、滑るように台座の上へ降り立つ。風をはらんで舞い上がった上衣が、再び体に吸いついた。
「……ねえ、ご存知? この台座の後ろ――柱と柱の間の空間は、『冥界の窓』と呼ばれていたそうよ。供物を捧げて祈ることで、一時的に死者たちの世界を覗き見ることができると考えられていたから、らしいわ。人間らしい、面白い考え方ね」
 大仰に両手を挙げて台座の背後を示し、彼女はそんなふうに語る。眉根を寄せる人間たちを見下ろす目には、刃のような光が宿っていた。
「実際、冥府の神に対する多くの祈りと信仰を集めたこの場には、相応の力が溜まっている。『窓』になるかどうかは別として、ね。つまり――彼にとってはとても居心地がいい空間なの」
 ステラは『はっ』とした。心臓が跳ねる。肌が粟立つ。何かを考えるより先に、剣をその場に突き立てていた。
「――来る!」
「みんな、下がれ!」
 ステラの叫びとレクシオの警告が重なった。
 三人が後退し、アーサーが飛び下がると同時、金色の膜があたりを覆う。
「おいでなさい、ヌン」
 その刹那。甘いささやきが落ち、黒い力が降ってきた。
 それは夕闇のように地下空間へと広がり、六人をぐうっと包み込む。それから、巨大な影が現れた。それは凄まじい圧迫感をもって覆いかぶさってくる。
 突き立てた剣を支えにして、ステラは歯を食いしばった。腹に力を入れて踏ん張り、魔力の流れを意識して外へ押し出す。波紋を広げる水面のように、薄く、確かに、幾重にも――。
 短い間深層に潜っていた彼女は、すぐ後ろから聞こえてきたうめき声によって我に返った。暗い谷底から一息で明るいところに引っ張り上げられるような感覚。急激な変化がもたらしためまいに耐えながら、ステラは声の方を振り返る。魔導術の防壁を維持しているレクシオが、顔をゆがめて、額に汗をにじませていた。
「レク!」
「まだ、平気だ。それより、ステラは動けるようにしとけ」
 思わず呼びかけると、レクシオはいびつに笑った。彼の言葉の意味を察したステラは、うなずいて剣を引き抜く。そして、それを再び構えた。
 金色の防壁のむこう側。台座の奥に、ヒトのようなものがいた。巨大な体躯を黒い布で覆い、感情の見えない両目をこちらに向ける存在。彼をステラは、いや、彼らは知っている。
 かつてこの場所で祭られていたであろう神々のうちの一柱、ヌンだ。
 その巨体を仰ぎ見ていたダレットが、振り返る。
「さあ、闘争の続きを始めましょう」
『情愛と欲の神』は、相貌に喜悦をにじませてささやいた。