第三章 冥界の窓(5)

 ヌンはその二つ名通り、一言も発さない。顔もほとんど見えないものだから、表情の機微も読み取れなかった。彼はただ、ダレットの宣言を聞くと同時、あらぶっていた力を静かに収める。一拍の間の後、金色の防壁も薄らいで、消えた。
 大きく息を吐き出したレクシオがよろめいて、オスカーに支えられる。ステラはその様子を視線だけでうかがいながら、そっと足をずらした。剣先は逸らさない。
 しばしの間、どちらの陣営も静止していた。
 言葉のない時。
 どこかから漏れる風の音だけが、断続的に駆け抜ける。
 ステラが耳の下に触れる冷気を二度ほど感じた後――唐突に、世界が動いた。
 最初、何が起きたのかわからなかった。暗闇の中でより濃い黒が動き、天井を覆いつくす。それがヌンの腕だと気づけたのは、不気味に光る眼の位置が、少し上に動いたからだ。
 空気が鳴る。太い黒が降ってくる。無造作に振り下ろされた腕が大気を切り裂いたその瞬間、ステラとアーサーはとっさに飛びのいていた。
 地下空間がみしみしと音を立てる。同時、凄まじい衝撃が広がった。暴風と、轟音。それは幾度も神殿の中で破裂して、人間たちを容赦なく襲った。
 何の備えもなければ、人の体など紙くず同然に吹き飛んでいただろう。しかし、この場の六人は辛うじて無事だった。ステラとレクシオが女神の魔力であたりを覆ったからだ。
 ヌンは緩慢に腕を持ち上げ、その二人をじっと見下ろす。かと思えば、前触れなくその腕を薙いだ。
「うぎゃっ!」
 しとやかさの欠片もない悲鳴を上げて、ステラは転がるように後退する。鼻先を暴風と衝撃が通り過ぎた。一瞬後、ヌンの腕が右の壁に激突する。爆音とともに地面が揺れた。
「無事か、ステラさんや」
「なんとか」
 後方からレクシオの大声がする。それにやはり大声で応じたステラは、改めて剣に魔力を通した。刃が銀色の光を帯びて、さえざえと輝く。それと同時に、視界の端で金色の粒が舞った。
「しゃーない。やりますか」
 飄々とした言葉に誘われて、ステラはつかの間振り返る。レクシオが、背負っていた剣を抜いたところだった。刃は少し汚れて摩耗しているが錆はなく、辛うじて剣としての体裁を保っている。
「本当に使うの、それ?」
「おう。こうなっちまったからには、なまくらでもなんでも使うしかないだろ」
 レクシオは答えて、両手で柄を握る。その立ち姿からは、少しの緊張も感じられなかった。ステラは肩をすくめて前を向きなおす。
 彼女の隣でアーサーが顔をしかめたのは、そんなときだ。
「あれが冥府の神とはな。人間の想像などあてにならぬ、ということか」
「どうでしょう。今ここにいる彼らも『ヒトのような姿をとっている』だけですから、むしろ私たちの想像図に寄せている可能性がありますよ」
「……ふむ。興味深い話だ」
 皇子の渋面が深くなる。が、軽口を返す余裕はあるようだ。
 ヌンは、続けて動こうとはしなかった。ダレットも何かを仕掛けてくる様子はない。高みの見物を決め込むつもりだろうか。
 少しの間、彼らの様子をうかがっていたステラは、数度の深呼吸ののちに軽く腰を落とす。
「――援護、任せた!」
 そして、叫ぶと同時に駆け出した。
「はい!」
「任された!」
「しかたない、やるか」
 三者三様の応答を背中で聞きながら、ステラは大きく踏み込む。黒い巨人の下へ駆け込んだ。足があるであろう箇所へ、剣を叩きつける。
 銀光が散る。手ごたえあり。けれど相手の体は揺らがない。続けざまに突きを入れるも、あまり効いてはいない様子だ。ステラは拘泥せず飛び退る。
 ヌンが身じろぎし、緩慢に腕を持ち上げた。それが振り下ろされた瞬間、彼女の背後から無数の尖った石が飛来する。大男の手と腕に粉砕された石は細かな粒となり、あたり一面を覆った。ステラはとっさに顔をかばう。
 逆に飛び出したのはアーサーだ。石の粉を避けながらヌンの前へ躍り出た彼は、その勢いのまま跳躍した。そして、剣を鋭く一閃する。巨体を揺るがすことは叶わなかったものの、上半身がわずかに震えた。布の隙間から見える瞳が、つかの間小さくなった気がする。皇子も深入りはしなかった。衝撃を利用して後ろに跳ぶと、ステラのすぐそばに着地する。
「まるで手ごたえがないな。どうしたものか」
 やや上ずった呟きにどう返すのが最適か、彼女にはわからない。だから「どうしましょうかね」とだけ投げ返して相手を見据える。
 黒い体が大きく動いたのは、そのときだった。影がうねると同時、ステラとアーサーは左右に分かれて駆け出す。一瞬後、先刻まで二人が立っていた場所に、巨岩が落ちてきた。――いや、巨岩のような拳だ。
 衝撃が地面を揺さぶり、轟音が叫びをかき消す。ジャックとミオンがとっさに張った防壁でステラたちは負傷をまぬがれた。が、それがなければただでは済まなかっただろう。
 ヌンは拳を持ち上げると、そのまま腕を左右に振る。魔導術によるものだろう、石の刃や炎の球がいくつも着弾したが、『冥府と沈黙の神』を止めることはできない。せいぜい、人や神殿に伝わる衝撃を少し軽減する程度だ。
「ああああ無茶苦茶だ! こいつ、今までに会った神さまの中で一番無茶苦茶だ!」
「ステラ、どうどう」
 ステラは思わず剣を構えたまま叫ぶ。粉砕された石の粉を避けながら駆けてきたレクシオが、やけ気味な彼女の背中を叩いた。
「でかいってのはそれだけで質が悪いな」
 ジャックとミオンの前に立ち、粉と衝撃から二人を守っているオスカーが、舌打ち混じりに呟く。
「なんでこの神殿は少しも壊れないんだろうね。彼がここまで大暴れしているのに」
 首をかしげながらも、ジャックが空中を指で弾く。同時、現れた構成式がほどけて周囲に風が起こった。やわらかな風の渦が、石の粉と砂煙を吹き飛ばす。
 ステラはあたりを見回した。ジャックの言う通り、神殿の壁や床には少しの傷もついていない。普通に考えて、ヌンほどの大男がここまで暴れたら、とっくに崩れていてもおかしくないというのに。
「先ほどダレットが言っていたことが関係しているのかもしれません。ほら、信仰を集めてきた場所だから相応の力が溜まっている、っていう……」
 呟くように応じながら、ミオンがアーサーの方に防壁を展開する。ちょうど、振り下ろされた腕を彼がかわしたところだった。ついでに手首を切りつけたようだが、やはり手ごたえはないらしい。
「ってことは、だ」
 細い刃のむこうから、レクシオが緑の瞳をのぞかせる。――不気味に光るまなこと、彼の視線が、かち合った。
「建物にあまり気を遣わなくてもいい、ってわけだな」
 呟いて、彼はなぜか剣を収める。
 ヌンが再び腕を持ち上げた。同時、レクシオは駆け出す。走りながら器用に構成式を編んだ彼は、大きな手が振り下ろされる直前に床を蹴った。その瞬間に巻き起こった魔導の風が、少年の体をより高いところへ舞い上げる。
 ヌンの強烈な平手打ちが床を揺らしたとき、レクシオはその太い腕に飛び乗っていた。そのまま跳ぶように駆け上がり、肩に到達した彼はそこで再び剣を抜く。黄金色の燐光が暗がりに飛び散った。
 幼馴染の意図を察したステラは、ヌンの足もとに忍び寄る。レクシオの気合の声が耳に届いたのは、そんなときだ。彼女が見上げた先で、レクシオが低く構えた剣を振り抜いていた。鮮やかに輝く刃が巨人の首を捉えてきらめく。
 ヌンの目がぎょろりと動いた。首をひねる。剣の狙いは外れたが、刃は肩を切り裂いた。黒い布の下からうめき声が漏れる。彼は小さな虫を追い払うように手を振った。当然、人間にとってそれは暴力以外の何物でもない。払いのけられたレクシオは吹き飛ばされた――かに見えたが、壁や柱を使って上手く衝撃を逃がしたらしい。巨体の陰に着地する姿が見えた。やや遅れて、彼のそばに細剣が落ち、けたたましい音を立てる。
「レク!」
 こちらにまで振りかざされた手を剣で弾き、ステラは思わず叫ぶ。
 だが、彼女が駆け出すより早く、レクシオの周囲を金色の半球が覆った。そこから漂う魔力はもう一人の少女のものだ。
 防壁の中で、レクシオは剣を拾って立ち上がる。一見した限りでは、大きな外傷は見当たらない。ステラがほっとしたのもつかの間、彼は険しい顔をこちらに向ける。
「みんな、こいつの手足に気をつけろ! 触れたら――」
 鋭い警告はけれど、最後まで紡がれなかった。――その声をさえぎるように、赤い壁が立ちはだかったから。
「……え?」
 ステラは呆然と呟いた。赤い壁、それが炎であることに気づいたのは、自分の声を聞いたときだ。
 火の粉が弾ける。鋭い熱が肌を炙る。周囲を煌々と照らし出した火光かこうは、刃の輝きと揺らめく影を際立たせた。
 なんだ、これ。疑問の言葉は声にならない。ステラはじりじりと後ずさった。その反応をあざ笑うかのように、赤い舌が幾度も伸びてくる。
「なんだ、いきなり。ジャック、ミオン、何かしたか?」
「い、いえ。わたしは何も」
「僕もだ。これは一体――」
 困惑しきった仲間たちのやり取り。その言葉は、ステラの意識の外側を滑っていく。音として、言葉としては理解できるのに、内容が少しも入ってこない。
 炎は変わらずそこに在り、彼女たちとレクシオとを分断している。勢いは衰えず、かといってさらに燃え広がる様子もない。
 なぜだろう。あの炎を見ていると、ひどく心が揺さぶられる。腹の底から冷たいものがひたひたと這い出てきて、全身に浸透していく。吐き気を催す。足がすくむ。正体のわからぬ寒気は、思考の深いところまで染みてきて、ヒトの本能を揺さぶった。
 息をのむ。剣先がぶれる。己が震えていることを自覚した瞬間、ステラは崩れ落ちそうになった。寒気はとうとう、彼女の理性をも揺さぶる。
「――幻だ!」
 鋭い一声が響き渡ったのは、そんなときだった。
 その音を聞いた瞬間、ステラの全身からすっと冷たいものが引いていく。寒気も動揺も完全に収まったわけではないが、我を忘れて取り乱すほどではなくなった。
 ステラは背後を振り返る。彼女たちの団長が、全身に汗をにじませながらも炎を見据えていた。
「みんな、吞まれてはだめだ! あれは炎じゃない! 僕らは幻を見せられているだけだ!」
 ぱちぱちと爆ぜる火の音に負けじと、ジャックは声を張り続ける。ステラとミオンは息をのみ、オスカーが静かに赤い壁をにらむ。
「幻? 何かの魔導術か?」
「いや、おそらく違う」
 落ち着いた答えを受けて、少年はさらに静謐なまなざしを炎に注ぐ。
 その目を見ているうちに、ステラの心も静まってきた。深呼吸して、彼女もオスカーと同じように炎を見つめてみる。
 数秒後。炎の壁の中心に穴があいた。そこから炎が両側に広がり、ふっと消える。煙も臭いも焦げも、一切残らない。はじめからそこには何もなかったのだ、と主張するように。
 薄闇が戻る。冥府の巨人は無言でたたずんでいて、その陰に少年がいる。そして――彼のそばに、女が一人、浮いていた。
「あらま。もう見破られたのね。まあいいわ、ちょっとしたお遊びだったから」
 鈴を転がすような声が響く。
 ステラは剣を構え、踏み出そうとする。しかし、鋭い視線に抑えられた。
 ダレットは、紅い唇を笑みのかたちにゆがめると、鈍く光る瞳で『金の翼』を見下ろした。
「やっぱり、ヌン一人に『翼』二人の相手をさせるのは酷だわ。だから――私も参加させていただくわね」