第七話 風眠る地・4

 リネは、微動だにしない黒壁をにらみつける。右手を空にかざし、生み出した氷のつぶてを投げつけてみるが、まじない師の術であろう壁はびくともしなかった。黒い力、そうとしか言いようのないそれは得体が知れない。けれど一方で、リネはこれがなんなのか知っている気がしていた。
「ソラ……」
 少女の声には、何者も応じない。ただ音だけが、禍々しい暗黒に吸い込まれた。

 黒い力は、変わらず不気味に蠢動しながらソラを取り囲んでいる。一歩でも動けば、それらは一斉に襲いかかってくることだろう。肌を焼く異様な気配の中で、ソラは乾いた唇を舌でなぞった。
 まじない師は笑みを崩さぬまま少年を観察している。笑顔の陰湿さは、砂漠の太陽に似た瞳の輝きに消されていた。彼は何も言わない。敵意だけをぶつけてくる。ソラも、ただ、それのみにこたえた。
 深く、呼吸。腕を上げ、勢いのままにそれを振り抜いた。腕の、手の、指の動きに合わせて白い光が軌跡を描く。彼を閉じ込める黒に、まばゆい白が食らいついた。光が弾けた瞬間に、ソラは思いきって地面を蹴る。
 風まとう腕はどこか、空駆ける天族の翼にも似ていると、少年はつかのま、そんなことを思う。戯れの想像を吹き飛ばすように、彼は黒衣の男に飛びかかった。刹那、黒い背中が狙いすましたように彼の背中に襲いかかる。ソラは動じない。想定の範囲内だ。腕にまといつく風を広げ、四方に飛ばす。白光をまとった風の刃が、黒い手を切り裂いた。わずかに晴れた視界の先でまじない師が目をみはっている。ソラは踏み込み、足を振り上げた。
 だが、渾身の蹴りは弾かれた。足に衝撃を感じ、少年は息をのむ。なんとか体勢を立て直して見てみれば、まじない師のまわりに、墨をうすく伸ばしたような膜ができていた。男がほほ笑むと同時にそれは消えたが、気配はかすかに残っている。
「そんなのありか……」
 思わずこぼれたうめき声が自分の中で消化されても、目前には厳しい現実が立ちふさがっていた。少なくとも、あの膜がある間は、体術での攻撃は無意味ということだ。ソラは苦々しく思いながらも風を呼びよせて放つ。目に見えないかたまりは、まじない師の横をかすめていった。今度は、膜は出なかった。まじない師に大きな隙ができた。再びソラが前へ飛び出したとき、にごった瞳に一筋、稲妻が走る。少年が不穏な気配に気づいたとき、黒の波が今までとは比べものにならない速さで寄せてきた。立ち止まり、大きく後ろに跳んだソラは逃げ道を探る。だが、黒壁からせり出してきている波に隙間は見えない。
 逃げられない。頭の中で叫び声が弾ける前に、体は地面に伏せていた。すぐそばで波音がして、左肩が熱を帯びる。反射的に肩を押さえると、粘り気のある液体が手に触れた。傷は思ったよりも深く、奥底から強く痛みを訴えた。
「くっそ……」
 ソラは、毒づきながらもなんとか立ち上がり、まじない師との距離をはかる。あまり離れても得体の知れない力の餌食になってしまう。近づきすぎても何をされるかわからない。第一、膜の影響もあって近づくにも限度がある。まずは薄墨に似た膜をどうにかしなくてはならなかった。あれもまじないの類だろうか、と考えながら、彼は少しずつ足を動かす。敵と自分の間隙を見定める。焦燥と緊張が胸を焼いた空白の後、動いたのはまじない師の方だった。
 男は手もとに黒い球を呼びだす。掌ほどの大きさのそれは、けれど空気を焦がすほどの力を秘めていた。ソラは、まじない師が球を解き放つ前に、風を集めて前方に放つ。それは男のわき腹をえぐった。動揺した男は、力の塊を消してしまった。
 しかし、間一髪と安堵するソラをあざ笑うように、彼のまわりに膜が現れた。
 黒い矢が耳をかすめる。第二撃をからくも避けきったソラは、細く息を吐くと銃を抜いた。弾はまだある。緊張はあるが手足にぶれはない。躊躇なく引き金をひく。衝撃と、破裂音、それが二度。二発の銃弾が間を開けて、まじない師の方へ飛んだ。弾をとらえたまじない師の前に再び膜が現れて、一発の弾丸が弾かれた。直後、ソラは駆けだした。
 銃を収めて、跳ぶ。男の顔がはじめて明確な驚愕に彩られる。敵の表情を冷徹に見ながら、ソラは上空から全身で飛びこんで、膜を破った。
 確かな手ごたえ。うめき声と土の音。相手の体はよろめいた。ソラは一抹の安堵とともに、手足に力をこめた。飛びのこうとしたとき、鈍い痛みと衝撃が全身を巡る。目の前がぐらついて、火花に似た光が散る。焼けついて止まった頭を動かして、視界を全身に巡らせた彼は、薄暗い虚無を抱いた。
 腕に、足に、横腹に――体のありとあらゆるところに、太い針状に変化した黒いものが突き刺さっている。瞬く間にあふれ出る血液が、服を重く湿らせた。
 くらり、と。痛みとともに視界が傾く。終わりが近い。暗い消失を覚悟する。かすんでゆく意識の中で――けれど彼は、近づく死に抗った。
 腹の底から声を出す。そうして意識をつなぎ止めた少年は、再び風を呼び寄せた。風は光に変質して、ソラのまわりで甲高い音を立てながら弾ける。音がひとつ響くたび、体を貫く黒は、ぼろぼろと崩れた。
 煤のような力の残滓が舞い飛び、風の輝きも消えた頃、ソラはその場に膝をつく。横腹を手で押さえつけ、肩で息をしながら、まじない師をにらみつけた。彼もまた、愉悦と憤怒が入り混じった目を少年に向けていた。
「やるものだ。私の防壁術の穴を見抜くとは」
「……少し考えればわかることだろ。それもまじないの一種なら、二つのまじないを同時に使うことは難しいはずだ。右手と左手で違う図形を描けっていわれるようなもので」
「ふふ、確かにそのとおり」
 黒衣に覆われた肩が揺れる。ささやかな笑いはすぐに収まった。ソラの見間違いかもしれないが、狂った両目に少しだけ、憐憫の色が見えた気がした。
「だが、見破るのが少し遅かったな。その体では、もうなにもできまい」
 嘲笑は大きく響き、不快に傷を撫ぜた。ソラは顔をしかめる。
 不快は不快だが、彼の言う通りだ。今も、横腹の傷から血が滴り落ちて、土の上に赤い水たまりを広げている。腕と足も強い痛みを訴えていて、わずかにも動かすことはかなわない。
――普通ならば。
 ソラは、無理に口角を上げた。まじない師が意外そうに瞠目しているのを見、膝と足に力を込める。
「『忌み子』をなめるなよ」
 血が騒ぐ。ふだんは奥底で眠っている、幻獣の血が。
 それは、傷に抗うようにうずき、痛みを力に変えて喝采する。
 獣の血がソラに与える時間は、限りなく短い。相手に一発入れられるか、どうか。ならば、その時間を最大限に活用するまでだ。
 ソラは踏み出した。今動けばどうなるかは、百も承知。どちらにせよ残酷な結末しかないというのなら、後悔のない方を選びたい。
 左手で風を集め、放つ。薄い膜が一瞬見えたとき、右手のみで銃を抜き、すばやく発砲した。鉛の弾が飛び出して、一拍もせぬうちにまじない師の絶叫がほとばしる。
 男はもがくように、狂ったように手を伸ばす。五指の先に黒がにじみ出すのを見て取ったソラは、すばやく後退した。そのとき、男の唇が音なく動くのを見た。『終わりだ』と、彼は確かに、そう言った。
 黒が動く。二人だけの戦場を囲い続けてきた、黒壁が。
 剣のように先をとがらせ、槍のように長く伸びて。
 上下から、左右から、ソラの全身を貫いた。

 リネは、今までにないほど眉間にしわを寄せていた。水のかたまりが黒に食いつくされてゆく様を見る。もう何度、目にしたかわからない光景に、少女はため息をついて、手を振った。
 相棒の名を呼ぶ。これも、何度目かわからない。何度呼んでも、全部目の前の壁が吸いこんでしまって、相手には届かない。どれほど壁をにらんでも現実は動かない。
 あのまじない師は、彼を閉じ込めてどうする気なのだろう。何を考えているのだろうか。意地悪そうに、ひどく不気味に笑う男の顔を思い出し、リネはだだをこねるように首を振った。想像しただけでも気分が悪い。今は、壁を破る方法を考えようと、むりやり思考を切り替えようとした。
 そのとき、突然黒が揺らいだ。
 目を瞬くリネの目前で、闇より深い黒は、揺らめきながら薄墨のような色合いになっていった。しまいには、名残さえなく消えてしまう。呆然としていたリネは、求めていた姿を見つけて息をのんだ。
「ソラっ!」
 駆けだそうとして――しかし、その足はすぐに凍りつく。
 唯一無二の相棒は、点々と散る血の中に倒れていた。