第二章 紅の誓い11

「――二段目の一番右の薬瓶! 急いで!」
「わかった!――あんたは追加の包帯持ってきて! 責任持ってちったあ手伝いな!」
 また別の、知らない人間の声を聞く。暗闇の中を漂い、音だけを聞いている。
「まったく。最後の最後に厄介な患者を連れてきてくれたね」
「どのみち聖院の人間だ。後日死体で見つかるよりはましだろ」
「ごもっとも!」
 明瞭と不明瞭を行き来する声と声。足音。鼻をつく臭い。赤い明かり。近くにいるのに、遠くで聞いている感覚。そのすべてを覚えていて、けれど自分自身のことはほとんど覚えていない。脳が焼き切れるくらい熱かった気も、凍えるくらい寒かった気もする。心の声は湧いてこない。ただ空っぽの己を抱いて、長いこと揺蕩っていた。

 イゼットは目を開けた。彼自身にとっても不意のことであった。右上から差し込む光がまぶしい。その色に目が慣れた後、映ったのはこれまで一度も見たことのない景色だった。木の板と、棚。それ以上のものを認識する前に、人の声が降ってくる。
「……と。どうやら、意識を取り戻したみたいだ」
 少しばかり霞んでいる視界に男性の顔が映りこむ。体も顔も痩せていて、亜麻色だか茶色だか見分けのつかない髪は長く、覇気のない目つきをしている。見覚えのない顔だったが、彼の口からこぼれる声には、どうしてか聞き覚えがあった。
「初めまして。お話はできそうかな?」
 尋ねてくる声は、夜明け前の無風の海に似て穏やかだ。彼をぼうっと見つめ返したイゼットはかろうじて、はい、と答えたが、乾いた喉がちくりと痛んだ。まさかそれを察したのか。名前を知らない男性は軽く目をみはり、ふにゃりとほほ笑んだ後に、イゼットから顔をそらした。
「ベイザ。飲み水はあったかな」
「朝メフルザードに汲んできてもらったから、水はあるけど……念のためろ過した方がいいよ、あれ」
「ふむ……。頼んでいいか」
「わかった」
 少し離れた場所でこれまた知らない女性の声がした。足音ののち、扉が開いて、閉まる音。それらを耳に入れてはいたが聞いてはいなかった。イゼットは、ハシバミ色の瞳にのぞかれて我に返る。皮膚は分厚いが細い指が、イゼットの左手を握った。握られて初めて、そこが左手だ、と認識する。
「それじゃあ――今からいくつか質問するから、答えてもらっていいかな。『 肯定 はい 』なら一回力を込めて僕の指を握って。『 否定 いいえ 』なら二回。できそう?」
 感覚の遠い左の手指をゆっくり、一回握りこんだ。男性は顔をほころばせる。
「僕の顔が見えるかな」
 肯定すると、男性はうなずいた。
「痛みやだるさを感じる?」
 少し間を開けて、肯定。認めたからか、ゆっくりと全身の感覚が戻ってきて、少年は顔をしかめる。
「体の感覚がないとか、変な感じがするとかいうことは、あるかい」
 沈思黙考したのち、否定した。男性は少し考えた後で「まあ、そこは追々かな」と一人納得する。そうこうしているうちに、扉が開く音がして、先ほどの女性の声がした。
 名のわからなかった男性は、バリスと名乗った。医者だという彼は、イゼットが水を飲み終えて簡単に名乗ると、状況を教えてくれた。今いるのがギュルズにある彼の診療所で、聖院が燃えた日から今日で三日経つという。
「ほか、なにか知りたいことはある?」
 診断と処置をしつつバリスがそう尋ねてきたので、イゼットは聖院とその関係者のことを知りたいとせがんだ。自分の素性が知れるかもしれないという懸念はあったが、今は考えないことにする。どのみち、聖院にいたことは知られているのだから、素性を伏せようが伏せまいが大して変わらない。
 ありがたいことに、バリスは詮索をせず答えだけをくれた。あの事件で死者は多数出たが、生き残った者もそれなりにいて、ほとんどが聖都に避難しているという。重症の者はギュルズや近くの町にとどまっているが、順次聖都に集まってもらう予定らしい。死者の中に聖女シディカが含まれていることを知ったが、思ったほど心は波立たなかった。襲撃者たちの言葉で予想できていたからかもしれない。
 聖女の死去に伴い、近々次の聖女の任命式が行われるだろうが、予定はまだ決まっていない、とバリスは言った。その言葉に反応し、イゼットは一生懸命口を動かす。
「その、次の聖女、というのは」
「アイセル様だね。 聖院 あそこ で修行してた候補は彼女一人だ」
 薄暗く茫洋としていた世界に、初めて光を見た気がした。
――生きていた。アイセル様は無事だった。
 主たる少女の姿を思い浮かべる。彼女が無事で、自分がしたことが無駄ではなくて、それだけでイゼットは救われたような気がしていた。しかし、何気なく続いたバリスの言葉は、決して無視できぬ影を落とす。
「ただ、問題なのが――彼女の従士となるはずだった少年が、あの騒ぎの中で行方不明になったってことだね。従士がいないまま聖女になるのは、今の状況じゃさすがに危険だ。かといって、空位にしておくわけにもいかないから難しいね」
 イゼットは目をみはる。息が止まるかと思った。自分が彼女の隣にいないことで、状況を悪くするかもしれない。理解していたつもりだが、まともに考えたことはなかった事実を突きつけられて、急に明確な感情が胸を突く。
 急がなければ。あそこに戻らなければ。
 だが、どんなに焦っても体は言うことを聞かない。今だって、全身が痛みを主張しだしたおかげで、話を聞いているのがやっとなのだ。
 バリスが包帯を取り換えながら口を開く。
「そうすぐ治るものじゃないよ。外傷を治すのに二か月。大まかな怪我の完治にはさらに一、二か月必要だ。その後、身体機能の回復までを含めると一年はかかる。少なく見積もって、一年だ。ま、気長に治療しよう」
 のんびりとした、しかしすべてを見透かしたような言葉。イゼットは、それに見合うだけの反論の言を持たず、押し黙るしかなかった。
 今はアイセルが生きていたことを喜ぶべきだろう。しかし、彼女以外の者たちの安否がわからない。他の騎士見習いたちや、指導役の巫女はどうなのか。ハヤルは無事だろうか。そういったことを脈絡なく考えているうちに、イゼットは少しずつ眠りの底に落ちてゆく。
 奥底へたどり着く直前、あの夜の最後に聞いた声が、届いた気がした。

 杖の先端が床を突くなり、硬質な音が立つ。自分の先を棒が行くという感覚に当初は戸惑いもしたが、今はさすがに慣れた。歩行訓練を始めてからずっと使っていたおかげだろうか。
 できるだけ屋内を傷つけないようにしたいと思いながら、今日の『課題』をこなしている最中、ふとこの家の主の机に目がいく。書付や薬瓶が乱雑に置かれている机のすぐ下に、紙が一枚落ちていた。達筆すぎて何が書かれているのか全く読めない。少し考えてから、彼は杖を壁に立てかけ、片手を隣についた。紙に手を伸ばしかけたとき、脇腹が鈍く痛む。顔をしかめてよろけたところで、横から伸びてきた大きな手に支えられた。
「何をやってんだ、おまえは」
「―― 師匠 せんせい !」
 あきれ顔の傭兵と目が合って、彼、つまりイゼットは素っ頓狂な声を上げた。「せんせいはやめれと言うのに」とイゼットの額を小突いた傭兵は、彼にもう一度杖を持たせる。それから自分で紙を拾い、雑に机へ戻した。
「こういうことは本人やベイザにやらせとけ。その方がずぼら 先生 ドクトル のためでもある」
「あ……すみません」
 傭兵はしゅんとした少年の頭をぐしゃぐしゃにした。すぐに離れた手を見上げ、イゼットは首をかしげる。今までいた場所で、彼にこんな態度をとる人がいなかったからか、いまだに慣れない。実家の召使の振る舞いに近いものがあるが、彼は彼で主人の息子と召使という一線を越えてはこなかった記憶がある。  イゼットが奇妙な感慨に浸っていたところへ、診療所の主が帰ってきた。バリスは扉を開けるなり、傭兵の姿に目を丸くする。
「おかえり、メフルザード。思ったより早かったね」
「ああ。思ったより早く片付いた。というわけで、『拾い物』の様子を見に来た」
 拾い物と言いながらイゼットの頭に手を置く傭兵に、バリスは感情の見えない微笑を向けた。一応机上の整理をしながら、彼は話し始める。
「聖院方面はまだ慌ただしいよ」
「そういや、また一人負傷者が移動したんだってな。手伝いに行ってたのか」
「うん。動ける程度に回復した人は、順次聖都に移ってもらっている」
 イゼットは、杖を持つ己の手が短く震えるのを感じた。否応なく反応してしまう。頭の隅が少し痛んだ。
「君はまだここで様子見だよ、イゼット」
 今度、外側は反応しなかった。だが、胸がひきつるような感覚を覚えた。イゼットが見上げると、バリスはいつもより少しだけ目もとを引き締めている。
「申し訳ないけどね。気になることがあるんだ。もう少し診させてくれ」
 細い指がこめかみのあたりをつつく。イゼットがなにかを言う前に―― 医師 ドクトル はさらりと言葉を継いだ。
「偉い大人っていうのは、君が思う以上にずるくて、容赦ない。彼らと真っ向から戦うなら、万全の状態で臨まなきゃ。そうでしょう、従士殿」
 イゼットはよろめきかけた。頭が真っ白になるのを感じた。バリスを見返し、その視線をメフルザードに向ける。片方はのんびりとほほ笑み、片方は頭をかいた。
「気づいて……」
「そりゃ気づくさ。他の騎士見習いとは明らかに服装が違った。それに、ただの騎士見習いなら、連中もあんな執拗に追いかけまわさんだろう」
「聖女様のことをやたら気にするしね」
 気まずげなメフルザードの横で、バリスは肩をすくめる。それから彼は、外で仕入れてきたのであろう情報を二人の前にさらした。
「大丈夫、今のところ彼女を排除するような動きはないみたいだ。替えがいないからね。まあ、危うい状況には違いないけど」
先生 ドクトル 、従士の前で替えがどうとか言ってやんなよ」
「ええ? でも、現実を一番知っているのは彼でしょう」
 のんびりとした口調でしかし核心をついた男性は、穏やかにイゼットを見返した。どう答えてよいものかわからなかったイゼットは、とりあえずうなずいた。それから、突っ立っている傭兵に声をかける。
「せ……メフルザードさん。気づいていたなら、どうしてここへ連れてきてくださったのですか」
「おまえの言いたいことはわかる。確かに、聖教の連中に知られたらうるさいだろうな。『従士候補をかどわかした』ってさ」
 眉を曇らせるイゼットの前で、メフルザードは大仰に両手を広げた。その手をまたイゼットの頭に置いた。
「けど、しゃーねえだろう。体が勝手に動いてたんだよ」
 自然とうつむきがちになっていたイゼットは、目もとが熱を帯びるのを感じる。顔を上げてなくてよかった、などと考えてかぶりを振った。
「要は、放っておけなかったのさ。傷だらけで今にも攫われそうな子どもを。野獣みたいなナリしてお人よしなんだよねえ、君」
 バリスが患者の名簿と診療録を眺めながら、おっとりと割り込んでくる。メフルザードはそんな彼をにらみつけて、「誰が野獣だ」と吐き捨てる。相変わらずの応酬に、イゼットは思わず吹き出してしまって、二人に不思議そうな目で見られた。
 イゼットが診療所の兄妹と恩人の傭兵に事情を明かしたのは、この夜のことである。