第二章 紅の誓い12

 寝台で起き上がれるようになったあたりから、なんとなく異変には気づいていた。しかし、それが表面化したのは、杖を持たずに歩けるようになった頃。なおも様子見が続いていたことに、イゼットが不信感を抱きはじめた頃でもあった。
 初めてそれを体感したのは、ベイザとともに町へ出たときのこと。町へ着くまではそれまでとなにも変わらなくて、バリスに対する愚痴のようなものを聞いたり、最近の出来事をお互いに報告しあったりしていた。中央通りに足を踏み入れ、すれ違った人々に挨拶をして、井戸の前を通り過ぎる。そのとき、火が点いたような泣き声を聞いた。見やると、通りの真ん中で、まだ幼い男の子が座り込んで号泣していた。隣で、イゼットと同じくらいか少し上の年齢の少年が困っている。それに気づいたベイザが歩み出て、年上の少年に声をかけた。
「どうかしたの?」
「あ……ベイザ……」
 少年は顔を引きつらせて半歩後ずさった。悪事が大人にばれたかのような態度に、しかしベイザは苦笑して二人を見比べる。そうしているうちに少年の方が口を開き、ぼそぼそと事情を話し出したようだった。仔細はイゼットのところからでは聞き取れなかったが、号泣している男の子の声を聞く限り、欲しかったお菓子が買えなくて駄々をこねている最中のようである。気づけばベイザと同じような顔になり、彼は男の子をなだめに走っていた。
 ひたすら泣きじゃくっていた男の子は、話を聞いているうちに落ち着いてきた。大声がすすり泣きくらいにまで落ち着いてきたところで、少年が駆け寄る。
「な、今日はいったん帰ろうぜ。また今度、父さんと三人で買いにいけばいいさ」
 男の子は無言だったが、洟をすすりながら小さくうなずいた。
 帰路につく二人を見送った後、イゼットは鈍い痛みをおぼえて右腕を押さえた。めったにないことに、首をひねる。彼の様子に気づかないベイザは懐かしそうに目を細めていた。
「兄さんも昔はあんな感じだったんだけどな」
「はは……ちょっと想像つきませんね……」
 苦笑しつつもおどけたイゼットはしかし、その直後に膝をつく。右腕から始まった唐突な痛みは、収まるどころか広がっていっているようだった。どこかの傷がうずいたのかと思ったが、そのたぐいの痛みではない。それよりも鮮烈な、殴りつけられるに似た感覚だ。
 異変を感じたベイザが振り向いたことにイゼットは気づかなかった。気づいたのは、彼女の手が肩に触れたときだ。
「どうしたのさ、イゼット! どこか痛いの?」
「うで……が、急に……」
 細かく息継ぎをしながらそこまで答えたイゼットは、限界を迎えてうずくまる。ベイザは青ざめたようだったが、さすがに 医師 あに の助手をしているだけあって、立ち直りは早かった。震えの強い右肩あたりをさすりながら、静かな声をかけてくる。
「とにかくうちに戻ろう。肩に手を回してごらん。動くかい?」
「ひだり、なら……」
 肩を貸してくれるベイザにすがりつくようにして、イゼットはなんとか立ち上がった。時折視線を感じつつ、町から離れ、坂を上る。
 幸いというべきか、そのときバリスはたまたま診療所の外にいた。帰ってくる二人を見るなり目をむいたが、すぐ医者の顔に戻り、妹からイゼットを引き取った。彼自身、そのあたりの記憶は曖昧だったが、何やらバリスが苦々しそうにうめいていたのだけは覚えている。なんとなく記憶がはっきりしてきたときには、いつもの穏やかな 医師 ドクトル がそこにいた。彼はイゼットの視線に気づくと、年少の患者に時折するように優しく髪をなでる。
「体に異常はないよ。けど、念のためもう少し休むといい」
 イゼットはぼうっとしたままうなずいた。

 小さな事件はバリスと、そしてメフルザードの知るところとなった。短い休息をとったイゼットが瞬きしながら病室を出たとき、彼はちょうどバリスから事の次第を聞いた直後だったらしい。イゼットの方も、唖然としているメフルザードと対面して一気に目が覚めた。
「あっ、せんせ――メフルザードさん」
「おまえ、起きて平気なのか」
「……なんともないです。昼間のアレが嘘だったみたいに」
 自分の体――主に右の腕と肩――を確かめて、イゼットは応じる。
 もの言いたげな傭兵をなだめたのは、食事の支度を終えたベイザだった。彼女は男の背中を勢いよく叩き、彼が少しのけぞると「ほら、座った座った」と荒々しくうながす。こういうとき、彼女の有無を言わさぬ圧は凄まじい威力を発揮する。バリスの方がそれに苦笑し、先に椅子に座ったほどには。
 なんのかので全員が食卓に揃うと、イゼットは改めて昼間のことを話した。とはいえ、何が起きているのかは自分でもよくわかっていない。説明というには曖昧な独白になってしまった。それでも 医師 ドクトル にとっては収穫だったようで、彼だけがしきりにうなずいていた。イゼットの話が終わると、いつもの調子で後を引き取る。
「僕も一通り検査したけど、異常は見つからなかったよ。この前の怪我の後遺症でもなさそうだ。知らない間に、聖院での出来事を恐怖として引きずっているっていう線も考えたんだけど……」
「にしては不自然じゃねえか。色々と」
 メフルザードは荒々しく吐き捨てて、茄子の 肉詰め ドルマ にかぶりつく。向かいで、煮汁をすくったバリスがうなずいた。
「それに、精神方面は僕の専門外だしねえ。どちらかというと君の領域になっちゃう」
 言いながら、バリスはイゼットの方へ目を流した。
 彼の言ったことはイゼットも少し考えた。けれど考えたところで解が出るわけではなく、精霊たちも答えをくれなかった。精霊がなにがしかの答えをくれる方が珍しいのだが。
 気まずい沈黙が落ちかかったものの、医師ののんびりとした言葉があっという間にそれを破った。
「しばらくは経過観察するしかないねえ」
 投げやりにも見える判断はだが、彼らが選べる唯一の道である。その場では、誰もが無言でうなずくことしかできなかった。

 医師 ドクトル バリスの判断のもとに、しばしの経過観察と定期的な検査が行われた。それ以外にも、彼は色々と調べていたようだが、いつまで経ってもイゼットの異常の根本を突き止めることはできない。もどかしさと同時に募るぶきみさが、ギュルズで息をひそめる四人の間で蔓延していた。
 だが、わからないことだらけでもなかった。

「よーし。準備はいいか、お坊ちゃん」
 メフルザードが楽しげに剣の腹で手のひらを叩く。イゼットは、彼の笑顔に不穏なものを覚えながらもうなずいた。イゼットの訓練に付き合うという名目でここにいる傭兵は、どう見てもわくわくしている。
 イゼットは剣の感触を確かめる。ある日突然、傭兵から押し付けられたものだ。十数日で多少はなじんだ気もするが、まだ心もとない。とはいえ騎士見習いに混じっての鍛錬の中で、ひととおりの武器の扱いは学んでいる。「殺されないこと」を目標に立ち回ればなんとかなるはず、と自分に言い聞かせた。
 戦いは唐突に始まった。メフルザードの目に鋭い光が走ったのを見た瞬間、イゼットは身を低める。次の時にはもう、暴風のような戦意と白刃が近くにあった。イゼットは最初かわすことを考えていたが、実際は回避どころではない。反射的に一撃を受け止めた。
 疑似戦闘とは思えぬ金属音が鳴り響く。剣戟と敵の重みが少年の腕に強くのしかかった。歯を食いしばって、一瞬それに耐えた彼は、ひねるように剣と腕の向きを変える。刃と刃が滑り、メフルザードの体勢がわずかに崩れたところで、イゼットは相手めがけて斬りこんだ。しかし一撃は空を切る。次には下から凄まじい衝撃が襲ってきた。
 後ろによろめいてそれでも踏みとどまった少年を、傭兵は楽しそうに見やる。
「なあんだ。やるじゃねえか。神聖騎士団は形がいいだけのお坊ちゃん集団かと思ってたぜ。ちと反省だな」
「そ、それはどうも……」
 両腕に走る痺れをこらえつつ、イゼットはどうにか返す。次なる一撃がくる前に、彼の方から踏み込んだ。
 三、四合打ち合った後、イゼットは弾かれるように飛びのいた。呼吸を整えながらも、構は崩さない。十歩ぶん前にいるメフルザードが、何やら考え込むようなそぶりを見せた。もちろん、まったく油断していないのはわかる。何事かを呟いている傭兵に、うかつな手出しはできなかった。
「試してみるか」という声を聞いた気がする。そう思った次の瞬間、周囲の空気が一変していた。
 遠くで一斉に鳥が飛び立つ。あたりが一息に静まり返る。皮膚を突き刺す鋭い気配に、イゼットは思わず後ずさりしそうになる。だが、その前にメフルザードの長剣がうなった。空気に当てられひるんでいる暇はない。一撃をかわし、前へ飛び込み、振り下ろしの攻撃をかいくぐる。だが、そうしてメフルザードの目と向き合った瞬間、イゼットの『中』でなにかが動いた。
 鋭い、強い、激しい――どの言葉でも表せないようでいて、そのすべてを内包しているなにかが、頭の中に広がった。彼は、最初それを白い光としてとらえていた。光が世界中に広がり、そして消えかかったとき、みぞおちのあたりを殴りつけられた。
 気がついたときには後ろに吹っ飛んでいた。剣を手放さなかったのは見上げたものだが、だからといってそれを振るうことはできなかった。せき込み、空気を欲してあえいでいたところに、男は近づいてきた。
「うーん、どうもそういうことだなあ。これは」
 頭をかきながら呟いたメフルザードは、剣を鞘に収めてそのへんに放った。息も絶え絶えの少年の前に座り込み、背中をさする。
「やりすぎた。悪いな」
 イゼットは激しく首を振る。その頃には、呼吸もだいぶ落ち着いていた。少し顔を上げると、しかめっ面の傭兵と目が合う。
「せんせい……これ、って」
「んー。おまえの考えてる通りじゃないか」
 推測が正しければ、そうささやいたメフルザードを、イゼットはぼんやりと見つめる。そんなことがあるのだろうか。思いはしたが、彼に詰め寄っても何にもならないだろう。信じられない思いでいるのは、皆同じのはずだ。
「なあ、イゼットよ」
「……はい」
「この推測が正しければ、だが」
 メフルザードは繰り返し、珍しくためらった後、それでも口を開いた。
「怪我が治っても、従士への復帰は難しいぞ」