第四章 崩壊の先へ4

 しばらくぶりに見た青年は、少し疲れているようだった。けれど、二人の姿を目に入れるといつものように背筋を伸ばし、はきはきと「よろしくお願いします」と言った。
 これは苦労してるんじゃないかな、とイゼットはぼんやり思う。むろん、自分のことは棚に上げていた。
 先頭をゆくユタについて、再びシャラクの市街へ出る。ただし今度は大通りでなく、横道、裏道を通っていくつもりらしい。人ひとりがぎりぎり通れる石畳の道に小さな民家がひしめき合っていて、しかもそんな通りが複雑に枝分かれしている。左側にうねうねと伸びる道を一瞥し、「これは確かに迷路だな」とイゼットは呟いた。だが、次の時に少しほぐれた表情をまた凍り付かせた。
「――アイセル猊下が」
 主人の名が聞こえると、反射的に身構えてしまう。従士のわかりやすい反応に、振り返ったユタが苦笑した。申し訳なさそうにこめかみのあたりを二本指で押さえている。
「猊下がこの話をお知りになったとき、しばらく立ち尽くしておられたそうで。ただ、その後はすごく安心した表情をなさっていたそうです」
「……ユタ」
「この後、何が起こってどうなるかはわかりませんが。無事を知らせて差し上げてください」
 イゼットは強くうなずいた。先のことは先のこと。今はとにかく、従士としての務めを、約束を果たさなくてはならない。
 聖女の従士の表情を見、ユタはほっとした様子で肩を下げる。それ以降は前を向きなおし、ひたすらに歩きつづけた。二人もまた、それにならった。
 半刻ほど後、裏道を抜けると見覚えのある景色が広がった。ただ、少し違うとすれば、大礼拝堂の先にある聖教本部の威容がわかる。大礼拝堂より背の低い建物だが、広さは段違い。外側は美しい白壁で囲われていて、時折繊細な模様が目に付く。空の色を映したような屋根に、陽光を弾いて輝く金の装飾。そして同じ色合いの塔が六本、周囲に建っていた。
 おぼろげながら記憶にある聖教本部の姿と、大差はない。それでもイゼットは、つかのま足を止めて見入ってしまった。我に返った後、また口を開けて止まっていたルーの、外套の袖をひく。ユタは二人の反応を咎めることなく「こちらですよ」と大きく口を開けている入口を手で示した。入口の左右には、神聖騎士団の男たちが一人ずつ立っている。
 険しい顔をしている彼らへユタは臆することなく近づき、いつもの四角四面な態度を示した。
「戻りました」
「ユタ殿、お疲れ様です」
 騎士たちは揃って礼を取るが、直後、後ろの二人に不審げな視線を向けた。ユタは振り返ることなく言葉を続ける。
「猊下のお客様です。今からお通しします」
「左様でしたか! しかし……」
 右側の騎士が、胡乱な目を再びユタの後ろへ向ける。イゼットは、その目が自分の隣をにらんでいることに気づいていた。特にルーの胸の上の銀細工を注視しているようだ。だが、ルーは慣れたものなのか、そよ風が吹いたほどにも動じない。ユタもその反応は織り込み済みだったようで、詰まりもしなかった。それどころか冷たく眼を細める。
「お客様です。猊下のお許しは得ています。気にせず業務を続けてください」
 いつもより早口で青年が言うと、騎士二人は青ざめた。「は――かしこまりました」と答える声が凍っている。ユタはその二人に一切頓着せず、イゼットとルーを振り返り、ほほ笑んだ。
「さあ、ご案内します」
 あっけに取られていたイゼットは慌てて、あ、はい、というような声を返した。隣でルーも「お願いします」というようなことをもごもごと呟いている。
 なるほど、これはハヤル隊長も頭が上がらないわけだ。イゼットはしみじみと納得した。

 中に入った途端、あたりがすっと薄暗くなった。外界の音も遠ざかり、空気が地に沈んで広がる。
 内部の天井は高く、壁には一面に色鮮やかな 石板 タイル が嵌め込まれていた。昼の闇に隠れているからか、きらびやかさよりも不気味さや荘厳さを醸している。
 静まり返った空間をユタは堂々と進む。イゼットも表情を変えずそれに続くが、後ろの少女の気配が近づいたことに気づくと、白い手を優しく取った。握り返す力が思いのほか強い。
 広い廊下に柱と扉、それと扉のない出入口が規則的に並ぶ。ユタはそれらに目もくれない。
「この先の階段を上って、それからまたしばらく歩きます。長くなりますが、ご辛抱ください」
 潜めた声でそう告げられて、二人は小さくうなずいた。
 長そうな階段が見えてくる。階段に近づけば近づくほど、足音だけでなく小さなささやきが聞こえてくるようになった。あたりを見ても祭司や騎士、そのどちらでもない人々の姿が増えてきている。そして――彼らの中から、黒く鋭い視線を感じる。
 そのほとんどがルーに向けられたもののようだ。一見クルク族とはわからない容姿ではあるが、それでも、旅人風の少女が聖教本部で浮いて見えるのは確かだ。ユタの姿を見つけると彼らはそそくさと目をそらすが、敵意はいつまでも付きまとってくる。
 階段を半ばまで上ったくらいになって、ようやく視線との追いかけっこは終わった。ルーが小さく息をつく。なぐさめるように手を握り返したイゼットは、それから周囲を見渡して体を固めた。
 二階は一階より殺風景だ。扉も入口もさほど多くないが、かわりにひときわ大きな扉がある。その周囲だけ、動物や草花の絵で彩られていた。ユタが「こちらです」とその扉の方を手で示す。――今の聖女の部屋はあちららしい。イゼットは青年について歩く途中、扉の隣に小さな礼拝部屋があることに気づいた。
 ユタが扉を叩き、名乗る。むこうから声が返ってきたが、イゼットたちには聞き取りきれなかった。しかし青年は気にしたふうもなく「失礼します」と礼を取り、扉を開いた。
「お客様をお連れしました」
「――ありがとう」
 はっきりとした、若い女性の声が返る。ユタの後ろの二人は、無意識のうちに姿勢を正した。騎士と聖女が淡々とやり取りするのを、息を殺しながら聞いている。ややして、女性の方が言った。
「ユタ、下がっていいですよ。ハヤルと――サイード団長にも報告しておいてくださいね」
「はっ」
 気持ちいいほどはっきりした声を返したユタが、きれいな身ごなしで斜め後ろに退く。そして去り際、イゼットに「どうぞ」とささやきかけた。遠ざかる足音を聞きながら、二人は聖女の部屋に足を踏み入れる。
 部屋は思いのほか狭く、殺風景だ。儀式に使う道具は数多くしまわれているが、派手な装飾は一切ない。
 部屋の半ばに若い女性が立っている。まだ娘と言ってもよい年頃のはずだが、銀糸の刺繍が施された衣をまとい、被きで顔を覆っているせいで明確な姿はわからない。だが、イゼットは直感した。
――アイセルだ。自分が仕える あるじ だ。
 一歩半ほど前に出る。そして流れるように跪いた。ほとんど考えてはいなかった。頭が回るより先に、体が動き、言葉が出る。
「猊下、ただいま戻りました。お待たせして、申し訳ありません」
 聖女はしばらくなにも言わなかった。ややして、消えそうな声が名を呼ぶ。
「イゼット……」
「はい」
 従士の若者がはっきり答えると、夜空と月の色の衣が揺れた。
「ああ――」
 震え声とともに、涙の雫がこぼれ落ちる。
 それをイゼットは音と気配と、腕の痛みとで知った。さらに深くこうべを垂れる。
 しばらく声を出さずに泣いた聖女は、顔を隠していた被きを後ろへ払った。白い肌、黒い髪、そして黒曜石のごとき瞳を持つ娘の姿が現れる。目を赤くした彼女は、その場にかがみこむとイゼットの手を取った。
「本当に、イゼットね」
「はい」
「無事で……生きていてくれたのね」
「はい、約束ですので」
「ありがとう……生きて戻ってきてくれて、ありがとう……」
 また泣き出しそうな彼女の声が、繰り返し響いて染み渡る。そこにはただ、聖女と従士と異民族の少女の姿だけが在った。