アイセルはイゼットの手を長くにぎった後、流れるように立ち上がった。若者の少し後ろで呆然と立っていたルーを見て、恥ずかしそうにほほ笑む。
「情けない様をお見せして申し訳ありません、アグニヤの戦士よ」
「はいっ!……あ、いい、いえいえっ!!」
突然声をかけられたルーは、ぶんぶん首と手を振った。立ち上がったイゼットはその様子を顧みて顔をほころばせる。だが、すぐに表情を引き締めると主へ向き直った。まだ若い聖女は優美な礼を取り、ほんの少し頭を下げる。
「ロクサーナ聖教聖女、アイセルと申します。よろしくお願いいたします」
アイセルはささやくような、それでいて難なく耳に届く名乗りを上げる。それを受け止め、わざとらしく喉を鳴らしたルーが姿勢を正した。
「アグニヤ
氏族のジャワーフの娘、ルーといいます。えっと……よ、よろしくお願いします!」
裏返った声を受けてアイセルは唖然として目をみはる。ぽかんとしていた彼女は短い間の後、くすくすと笑いだした。途端にルーが顔をこわばらせたのを見て、彼女は白い手を前に出す。
「申し訳ありません。初々しいなと思いまして」
「うっ、ういうい……?」
「おかげで気持ちがほぐれました。よろしくお願いしますね、ルーさん」
「は、はい。あ、ルーで結構です」
極度の緊張から立ち直ったルーは、それでもまだおたおたしている。その様子を見ていたイゼットは、いつもの癖で頭をぽんぽんと叩いた。それで、ようやくルーの肩から力が抜ける。
イゼットは、視線を感じて振り返った。アイセルが食い入るように二人の方を見ている。無邪気な子どものように見えるが、ふしぎな圧力が漂っていた。若い従士は、主人の前であったことを思い出し、慌てて姿勢を正した。
「失礼しました」
「気にしないで。イゼットが元気そうで安心したわ」
でも、と聖女はかすかに表情を曇らせる。
「あなたのことを早くから知っていたハヤルは、あまり詳しいことを教えてくれなかったの」
「左様でございましたか……」
「ええ。だから聴かせてほしいの。聖院から逃げ出した後、何があったのか。――ルーのことも知りたいし」
イゼットとルーは顔を見合わせる。自然と表情がこわばった。癖で跪きかけたイゼットは、それを寸前で堪えて頭を下げる。
「かしこまりました」
すると、小さな笑声が聞こえた。きょとんとして従士が聖女を見返すと、彼女は蕾がほころぶような笑顔を見せた。
「そういうまじめなところは変わらないわね」
「猊下……」
「せっかくだから何か食べながらお話しない? 二人とも、昼食はまだでしょう」
聖女の思わぬ提案に、イゼットとルーはとっさに言葉を返せなかった。状況をのみこめないまま曖昧にうなずくと、アイセルは嬉しそうにして、「手配をお願いしてきますね」と言った。
ややして、小さな部屋の絨毯の上に食事が並ぶ。アイセル自身が嬉々として皿を並べている姿がイゼットには印象的だった。
ここ数年の食卓と比べると、皿の数は倍近くなる。よく食べるルーですら、最初は少しひるんでいた。それでもお腹は減っていて、いざ食事が始まると好奇心に目を輝かせながら肉やシミット(ごまをまぶしたパン)を頬張りはじめる。イゼットはその横顔をときどきうかがいながら、近くの皿の
肉団子
をつまんだ。
持てあますほどの料理をつまみながら、二人は少しずつアイセルに状況を話した。バリスの診療所での日々はもちろん、ルーの修行場を巡る旅のことも。二人の冒険譚を聖女は楽しそうに聞いていたが、話が一段落すると表情を翳らせた。
「それにしても、月輪の石が割れただなんて……にわかには信じられないけれど」
イゼットは顔をしかめた。沈痛な面持ちで呟く彼女を見ると、胸がきしむ。心の底の揺らぎを裏付けるかのように、腕がにぶい熱を帯びていた。気づかれぬよう痛みをのみこみ、従士の若者は大きく息を吐く。
「申し訳ありません。本来、猊下にお返しするはずだった月輪の石を――」
「イゼットが自分から割ったわけじゃないでしょう? それに、もしあなたの不調の原因が石だとしたら――仮に無事であっても、それが良いとは言い切れません」
「月輪の石が、悪いものかもしれないってことですか?」
口のまわりについた汁をぬぐったルーが、怪訝そうに尋ねる。アイセルはやんわりと首を振った。
「善し悪しの問題ではないのです。月輪の石の力が、
人間
に扱いきれないほど強大かもしれない、ということです。強すぎる力は容易に人を狂わせます。持たずに済むなら持たない方がいい」
険しく目を細め、聖女は語る。その口調はいつになく重々しい。イェルセリアを形成した歴史を知り、みずからも人並み外れた力を持つ彼女だからこそ言えることであろう。――この国の前身となった王国も、人智を越えた力によって滅んだのだ。
しかし、とイゼットは口を開く。
「聖教本部の誰もがそう思っているわけではないでしょう」
「……そうですね。月輪の石は聖女と並ぶロクサーナ聖教の象徴です。今となっては聖女以上の存在と思われているかもしれない」
ささやく声には自嘲の響きがあった。黙りこんだイゼットをルーが心細げに見上げてくる。だが、そうしたところで答えが出るはずもなかった。
イゼットは、つかのま瞼を下ろす。久方ぶりに耳を傾けた精霊たちの声は、その多くが穏やかであった。ただ、時折、悲鳴に近い金切り声がもうひとつの耳を突き刺してくる。えもいわれぬ苦痛に顔を歪めて、彼は目を開く。それだけで音なき音は遠のいた。
食事の片づけが済んだ後、突然誰かが扉を叩いた。アイセルは慣れた様子で被きを下ろし、扉に向かって誰何の声を上げる。その先の相手は、サイードと名乗った。神聖騎士団の団長だ。
自分たちはここにいてよいものかと、イゼットとルーは不安そうな互いを見やる。アイセルは二人を一瞥して「大丈夫」とばかりに片目を閉じた。そして「どうぞ入って」と扉の先に告げた。
ややして入室してきたのは、大柄な男だった。もともとの上背と鍛えられた肉体のせいで、ぱっと見岩山のようだ。メフルザードより大きな人だとイゼットはぼんやり思った。赤銅色の髪を刈り上げて険しい表情を貼り付けた彼は、見本のような礼を取ると、単刀直入に切り出した。
「祭司長様が猊下にお会いしたいそうです」
「わかりました」
アイセルはうなずいた。その目は氷のようである。たじろいだ様子を見せたサイードはしかし、すぐには退室しなかった。心持ち目を伏せて、「それと」と続ける。
「従士殿にもご同行願いたい、とのことで」
それまで冷ややかだったアイセルが、一転して顔をこわばらせた。イゼットも息を詰める。聖院時代の癖で聖女の半歩後ろに立っていた彼は、口を開こうかどうしようかと逡巡した。しかし、アイセルがものを言えない状態なのに気づいてサイードに向き合った。
「かしこまりました。後ほど伺います」
「――お願いいたします」
サイードは安堵した様子で頭を下げる。踵を返した彼は、堅苦しい靴音を立てて退室した。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。それをしっかり聞き届けて、三人は揃ってため息をついた。
「予想以上に早かったな……」
イゼットは思わずうめいた。彼の服の袖をルーが引く。
「ど、どうしましょう。大丈夫ですかね」
「わからない。けど、まあ、呼ばれたからには行くしかないよ。ここで下手に拒んでも、やましいことがあるのだろう、って勘繰られるだけだし」
「むうっ……」
「イゼットの言うとおりね。行きましょう」
イゼットは、主の言葉に沈黙と礼をもって応じた。ルーも釈然としない様子ながらうなずく。反応は三者三様だが、胸中に暗雲が渦巻いているのは同じだった。