どこへ呼び出されたのかイゼットにはわからなかったが、それをアイセルに尋ねると彼女はあっけらかんとして振り返った。
「祭司長が好んで使っていらっしゃる場所があるの」
軽くほほ笑んで、顔を戻したアイセルは足を止めないまま表情を引き締めた。
「礼拝堂の内部にある小さな書庫よ」
「書庫……」
面会の場所としてそれはどうなのだろう、と首をかしげつつも、イゼットはアイセルについて歩いた。
人が多いわりに廊下は静かだ。声はしないが視線を感じる。アヤ・ルテ聖院のほどよい活気の中で過ごしたイゼットからするとぶきみに感じる。周囲に目をやると、たまに通りがかりの聖職者や騎士と視線がぶつかる。ほとんどは恐縮したように目礼するか目をそらすかするが、時にはさらに強い視線を突きつけられることもあった。イゼットは動じもしないが、聖院よりも容赦ない人々の態度に否応なく緊張した。
聖教本部をまっすぐに抜けて、大礼拝堂の最奥。列柱廊のただ中に地味な扉がある。優美さや神聖さよりも堅牢さを感じさせた。その扉の横に、白い衣をまとった祭司が立っている。そのそばにはサイードもいて、彼がまっさきに神聖騎士団式の敬礼をした。
顔の彫が深く、目が細い祭司は、それで二人の姿に気づくと恭しく頭を下げたが、開かれた唇の間から放たれた声はどこか湿っている。
「お待ちしておりました。中で祭司長様方がお待ちです、どうぞ」
定型文を読み上げるように言った後、「ただし」とわずかに語調を強めた。
「そちらのお嬢さんはお引き取り願いたい」
強い感情がのぞいた。イゼットはそれを、冷え切った空気と体の痛みで知る。振り返ると、ルーはマグナエに覆われた頭をわずかに下げて、威嚇の姿勢をとっていた。祭司と少女の間でつかのま火花が散る。しかし、口論に発展する前にサイードが割って入った。
「ルー殿、でしたか。お話が終わるまで少々お付き合いいただけませんか」
「えっ、と……」
「サイードと申します」
礼を取ってから、サイードは半歩ルーに近づいた。小声かつ早口で、彼女にささやきかける。
「ここで事を荒立てては、イゼット殿の立場が悪くなります。どうかご辛抱を」
イゼットはすぐ近くにいたのでそれを聞きとったが、むろん口を挟みはしない。今の彼は聖女の影だ。
ルーは急に大人しくなった。言われた内容が堪えたからか、ご辛抱をと言った本人がなにかに耐えているようだったのを見たからか。少しの間、太い眉を寄せていたが、やがて「わかりました」と、うなるように答えた。
ルーとサイードが離れたのを見て取り、イゼットはアイセルに目を向ける。彼女は小さくうなずくと、祭司に向かって「失礼します」と言いおいて、簡素な扉を開いた。
入室した瞬間、イゼットは文書管理室に来たように錯覚した。本棚が壁を埋めるように並んでいるからだろう。この書庫には文書管理室以上に光が入らず、昼間であっても夜のように暗い。冷ややかな闇を照らすのは一粒の火だけだ。
行灯
の中で揺れる光は白い衣をほのかに照らし、人型の影を背後の本棚に伸ばしている。
後から入ったイゼットが後ろ手で扉を閉めると、影はさらに濃さを増し、火はさらに強く躍った。
「お待たせいたしました」
凛とした声をアイセルが闇に投げかける。
行灯
のすぐそばに立っている老人が振り向き、笑みを浮かべた。
「こちらこそ、お呼び立てして申し訳ありません、猊下。しかし、急を要することと思いましたので」
「祭司長もお忙しいでしょう。急がずとも、話し合いの場など後からいくらでも調整いたしますのに」
応酬は、奥の祭司たちが身震いするほどに冷ややかだ。イゼットも思わず息をのんだ。だが、含みのある視線を感じて動揺を無表情の下に押し隠した。
「イゼット」
申し訳なさそうな主のささやきにうなずいて、彼は半歩前に出る。おお、という老人の嘆息が聞こえた。
「お会いするのは初めてですな、従士様。私、祭司たちの長を務めているユヌスと申します。お見知りおきを」
「……アイセル猊下の従士、イゼットです。このたびはご迷惑をおかけしました」
「いやいや、お気になさるな。従士様がご無事で何よりでござる」
ユヌスは大仰に礼を取った。イゼットも静かに応じたが、頭を下げたときに少し顔をしかめてしまった。相手の物腰は丁寧なようだが、粘ついた感情が、しわがれた声からのぞいている。悪意か、敵意か、それとも別の何かか。イゼットには判断できない。判断を下す前に思考を打ち切り、今の祭司長をじっと見た。
髪も髭も白いが、眼には強さがある老人だ。イゼットが聖院にいた頃には違う人が祭司長を務めていたので、襲撃事件以降に任命されたのだろう。前祭司長はものやわらかな人だったが、ユヌスから受ける印象はまったく違った。
「ユヌス祭司長」
イゼットがその場にとどまったままでいると、後ろから少し棘のある声がした。アイセルだ。
「先刻、急を要すること、とおっしゃいましたね。具体的にはどのようなご用件で?」
「おっと、そうでしたな。従士様のことです」
さりげない口調でユヌスは応じた。しかしそのとき、空気が変わる。いつかの少年の殺意よりよほど冷淡でにごった感情の渦を、イゼットは肌を刺すような痛みとして受け取った。額ににじむ汗に気づきつつ、それでも平静を装って立つ。そして老人の瞳が若者を見た。
「アヤ・ルテ聖院が襲撃された時のこと――おおよそは、猊下からうかがいました。しかし、あなた様からもお話をうかがいたいのです。特に、猊下と別れられた後のことを」
覚悟はしていた。だがイゼットは、自分の胸の奥が緊張にこわばるのを確かに感じた。すぐには答えず、頭の中で数字を数える。そして彼は、己の主を顧みた。
アイセルは目を伏せている。迷っているようにも、不満を表しているようにも見えた。しかし祭司たちが身じろぎひとつせずに二人をにらんでいるのを見返すと、深く息を吐いた。空気は、彼女の胸中を示すように大きく震える。
「イゼット――お願い」
それは、二人だけにしか聞こえぬ声だった。
彼女の瞳に涙はない。だが彼女の声は泣いていた。
イゼットはそれを静かに受け止め、こうべを垂れる。
ユヌスに向き直り、彼は、今まで何度かしてきた話を改めて舌に乗せた。メフルザードやバリスのことは彼らのためにも伏せなければならなかったが、それ以外はすべて話した。むろん、月輪の石のことも。その話題のとき、祭司たちがどよめくのを聞いた。
「なんと、なんと。それは苦労なさいましたな。無事にお戻りいただけたこと、嬉しく存じます」
無言で応じたイゼットはしかし、続いた言葉に肩をこわばらせた。
「唯一困りごとがあるとすれば、月輪の石の件ですな。割れるなどということが起きるとは、信じがたい話だ……」
それから少しの間、ユヌスはかすかにうなり、悩むそぶりを見せた。
薄暗い空白の中。火が揺れる、その音だけが響く。
火の勢いが弱まった頃、老人は厳かに口を開いた。
「この件は、会議にかける必要がありますな。さっそく、関係者たちを集めねば」
やはりなにげない、もっと言えばのんびりとした口調である。しかし、老人の青みがかった黒の目にはげしい光が走ったのを、イゼットは確かに見た。彼はとっさに口を開きかけたが、それを遮って娘の声が空気を打った。
「お待ちください。会議を開くには時期尚早でしょう。月輪の石が割れるなど前代未聞、もっとよく調査をして、情報をそろえてからにすべきではないですか」
「歴代聖女ですら詳細を知らぬものに関して、この聖教本部からどれほどの情報が出ると?」
ユヌスの声が、明らかに尖った。アイセルは息をのみ、押し黙る。その隙にユヌスはゆっくりと続けた。
「もちろん、事前の調査はこちらで進めさせていただきます。文書管理室も含め、詳しい者を集めましょう」
「それならば、私も――」
「なりませぬ」
ユヌスの言葉がいっそう厳しくなった。それは落雷のように天を割り、
行灯
の火を強く揺らす。はっと息をのんだ聖女に、祭司長が畳みかけた。
「会議の事前調査に聖女猊下が介入なさるのはよろしくない。『会議』の規則に触れかねません。関係者の心象も悪くなるでしょう」
「しかし――」反駁しかけたアイセルは、けれどもうつむき、黙ってしまった。イゼットも口をつぐんでいるしかない。彼はあくまで従士だ。聖女と祭司長のやり取りに口を挟む権利はない。それに、うかつなことを言えば、アイセルが騎士団やファルシードに協力を頼んでいたことが露見しかねない。
主従が反論できないでいる間に、祭司長は他の祭司たちを振り返り、淡々と指示を出しはじめた。
イゼットは、少しずつ動きはじめた白い衣を見つつ、槍を強くにぎりしめる。右半身が強く痛んだ。精霊が叫んだ。内外の警告に対して、イゼットはなんの対策を講じることもできない。弱さを見せぬよう、その場に崩れ落ちないよう、必死に歯を食いしばっているしかなかった。