第二章 北極星の一門(1)

 音もなく雪が降り続く。
 昨日の夕方から降り出した雪は、翌日の夕方になってもやむ気配がない。おかげで、帝国北端の街は白に閉ざされつつある。
 そのただ中、雪に負けずそびえ立っている建物があった。形こそ屋敷だが、重厚な門扉といい、上部にあいた穴のような窓といい、要塞もかくやという物々しさがある。国境近くということもあり、一見しただけでは軍事施設と勘違いする人もいるだろう。少なくとも、領主の住まいとは思うまい。それを示すのは、正面玄関の門の上で輝く、北極星と剣の紋章だけだ。
 北方の地を守る騎士の一門、イルフォード家。その屋敷はおおむね静かだ。使用人や専属の医師なども含めて、それなりの数の人間が出入りするにも関わらず、不思議と騒がしさがない。雪がやまないこの日もまた、同様だった。
 ラキアス・イルフォードは、変わらない屋敷の廊下を、自身も無言で歩く。短い栗毛と厳つい眉の下で、いつもは黒い瞳が鋭く光っている。しかし今は、瞼が閉じられ、その輝きも内に閉じ込められていた。
 歩く。体も、呼吸も、そして思考も、ほとんどぶれさせないままに。
 ここ最近、ラキアスが特に考え込むことは、二つだ。
 一つは冬の大祭のこと。一応、現在は祖父が当主代理として立っているが、実務のほとんどはラキアスが行っている。祭りの準備の主導や事務も彼の仕事だ。やらなければならないことも、決めなければいけないことも、多い。
 そしてもう一つは――実妹のことだ。
 正直、彼女はもうイルフォード家に関わらない気かと思っていた。両親の死から年月が経ったということもあり、ラキアスの方から手紙を出しはしたが、返信を期待していたわけではない。ゆえに、先日手紙が返ってきたときには、ひどく驚いたものである。
 その内容と、文面を思い出して、ラキアスは口もとをほころばせた。文字が昔より荒っぽくなったかな、と胸中で呟く。人によっては眉をひそめそうだが、彼は悪いことだとは思わない。成績の善し悪しは別として、一生懸命学ぼうとしている学生の字だ。むしろ、ほほ笑ましく、誇らしくすらある。
 考えながら、ラキアスは歩く。彼の歩みと思考を邪魔するものはない。窓からは白い光だけが差し込んでいて、靴音だけが壁と天井に反響する。
 初めて、彼の歩みが妨げられたのは――廊下の先から小さな人影が飛び出してきたときだった。ラキアスが足を止めると、相手も立ち止まった。彼に気づいたのだろう。小さな人影の主は、ぴしっと背筋を伸ばし、丸っこい顔を上向ける。
「あにうえ!」
「やあ、リオン。帰ったんだね」
「はい、ただいまもどりました!」
 名を呼ぶと、大きな瞳が輝きを増した。わずかに弾んだ上体に合わせて、ラキアスたちによく似た栗毛がぴょこんと跳ねる。
 赤ん坊のときに両親を喪ったリオン・イルフォードは、なんとかここまでひねくれずに成長し、兄の後をよく追いかけるようになった。今日も、ラキアスの行方を尋ねながらここまで来たのだろう。その光景を思い浮かべ、青年は我知らず笑みをこぼした。
 リオンの手を取って、歩き出す。出先であったことを語る弟の声に耳を傾けながら、ラキアスはふっと目を細めた。
 ステラとリオン、二人の道を分けたものは、なんだったのだろう。
 ふと、そんなことを思う。
「――そういえば、もうすぐあねうえがいらっしゃるのですよね?」
 無邪気な声。それは、こちらの内心を見透かしたかのように強く響く。
 ラキアスは息をのんだ。だが、あくまでも平静を装って答えた。
「そう、だね。予定通り列車に乗れていれば、明後日には来るはずだ」
 指先が、冷たい。そこへ、すぐ少年の熱が流れ込んでくる。
 子どもというのは、どうしてこうも体温が高いのだろう。
「友人を連れてくると手紙に書いてあった。しばらくは、にぎやかになりそうだ」
「うわあ!」
 ラキアスが思考をごまかすように言い添えると、リオンは弾んだ声を上げる。二人しかいない廊下に、明るい音はよく透った。
「リオンは、姉上に会いたい?」
 その声があまりにも高らかだったからだろうか。そんなことを訊いてしまったのは。
「はい!」
 少年の声には、よどみも雑味もない。そのことが、ラキアスには少し、うらやましかった。
「あねうえのことはあんまりおぼえていないですけど、だからこそ、会ってお話ししたいです。『ていこくがくいん』でのお話もきいてみたいです」
「……そうか」
 リオンは、まっすぐな憧憬を両目に宿して語る。何も知らない弟にほほ笑みかけたラキアスは、その手を優しく握りなおして、顔を上げた。
 何気なく窓の方を一瞥する。雪は、変わらず静かに降り続いていた。

 シュトラーゼへの道のりは長い。帝都から帝国領のほぼ北端へ行くのだから、当然である。ステラたちの乗った列車はおおむね順調に進んだが、途中で乗り換えはあるし、車両の連結切り替えというので長らく待たされもした。雪による視界不良で停車したときには、さすがの六人もこわばった顔を見合わせた。
 それでもなんとか北部に入り、目的地が見えてくると、団員たちの気も緩む。
「そういえばさあ、ステラは実家へのお土産とか買わなくていいの?」
 ナタリーが唐突にそんなことを言ったのも、ようやく安堵したからだったのかもしれない。「今さらかい」と突っ込みつつも、ステラは腕を組んだ。少し考えてから、続きの言葉を舌に乗せる。
「んー……礼儀的に必要な菓子折りは帝都で買ったから、いいかなあって」
「おお、ステラの口から絶対出なさそうな言葉が出た」
「やかましい」
 口を挟んできたトニーの頭を軽く叩く。少年は大げさに頭を押さえつつも、悪戯っぽく笑っていた。かぶりを振ったステラは、それに、と話を続けた。
「お土産って言っても、何持ってっていいかわかんないしね」
「ああー……それもそうか」
 ステラが元々家出娘だったことを思い出したのだろう。ナタリーは、急に納得したような様子でうなずいた。そんなやり取りを、ミオンは首をかしげながら聞き、ジャックとレクシオは困惑した様子で視線を交わしている。それに気づいたステラは、黙って頬をかいた。
 ステラの実家は、仮にも侯爵家である。その手土産ともなると、菓子折りの中でも最高級の品を選ばねばならず、ステラは出立前から懐の寒さに震えたのだった。――が、そういう実情に気づいたのは、二人だけのようである。
 気の抜けた会話をしているうちに、シュトラーゼ到着を告げる車内放送が流れる。安堵と緊張を半分ずつ抱えるステラは、ほぼ無意識のうちに、両手を外衣コートのポケットに押し込んでいた。同じ時、向かい側でトニーが猫みたいに丸まって体を震わせる。
 前方には目的地が見えてきたらしい。だが、ステラたちの席からだとよくわからない。今のところ、白の中から生える低木と線路と金属の柵しか見えない状況だ。雪は降っていないようだが、空は暗い。近いうちにまた降りだすかもしれないな、とステラは小さく息を吐いた。
 少し経つと、車窓の外は変化する。白と灰色の寂しさから、にぎわいを感じる色鮮やかなものへと。耳障りな音と凄まじい振動を車内に伝えながら列車が減速し、止まる。
 到着を告げる車内放送が流れると同時、乗客たちはばらばらと動きはじめた。それを見て、少年少女も降りる支度を始めた。
 降り損ねぬよう、かつ人の流れにのまれぬよう、慎重に歩く。そのさなか、トニーがよそを見て軽く首をかしげた。それに気づいたステラは、とっさにその手をつかむ。
「はぐれるよ。どうかしたの?」
「あ、悪い悪い」
 少年は猫目を細めて詫びた後、また首をかしげた。
「なんか、見覚えのある人がいたような気がしたんだけど。多分気のせいだわ」
「んー? まあ、気のせいならいいけど……」
 トニーの知り合いがシュトラーゼに来るという状況は、ちょっと想像しづらい。本人も「気のせい」で片付けてしまったので、ステラもその言葉を軽く流して、足を再び動かす。
 ゆえに、二人の後方で背広を着た男がぎょっと目をみはったことなど、知る由もなかった。

 人にもみくちゃにされながら外へ出ると、視界いっぱいに銀世界が広がる。
 道を覆いつくす分厚い雪。屋根にも裸の木の枝にも、どっさりと雪が積もっている。人通りの多いところは一応雪かきがしてあるのだが、その脇には岩山みたいな白い塊ができていた。
 非日常的な光景に、学生たちはつかの間ひるむ。ステラでさえ、地元に来たというのに、唖然としてしまった。
「うっひゃあ~。すご……」
 ナタリーが、街を見渡して呟く。雪を楽しみにしていた彼女だが、実際に見てまた違う感慨を抱いたようだ。ステラは苦笑しつつ、目の前の階段に一歩足を踏み出した。お上りさんのようになっている団員たちを、一人軽やかに振り返る。
「じゃ、行こうか。滑ったり雪にはまったりしないよう、気をつけてね」
 五人は、それぞれに返事をしてついてくる。
 街は、平和そのものだ。雪に対する慣れもあるのだろう、人々はその対処に追われつつも落ち着いている。店を開いたり、新聞や物資を家々に届けたり。そういう日々の営みも、ある程度平然として行われていた。
 この街は、どれだけ人が多くても不思議と静けさがある。その空気も、ステラにとっては懐かしいものだった。
 領主の家の方向へ足を向ける学生たちの横で、幼い子どもたちが黄色い声を上げながら雪に飛び込んでいる。それを見て、レクシオがそっと目を伏せた。ステラは、彼の上によぎった翳に気づいたが、ほかの団員の手前、問うてみることはできなかった。ただ、視線を逸らす。
「イルフォード家にお邪魔する前に、昼食を済ませてしまおうか。あまり疲れた状態で訪問するのも失礼にあたるし、ね」
 道中、そう提案したのはジャックだ。陽気な声で彼が言うことには、一理ある。ちょうどお腹も減っていたので、全員が賛成した。が、ここで重大な問題にぶち当たる。
 気軽に入れる食堂がどこもほぼ満席状態だったのだ。少なくとも、六人連れの学生が入れるところはなかった。頭を悩ませたすえ、屋台で軽食を買って済ませることになった。
「いやあ、店があんなに混んでるとはねえ。冬期休暇とか、関係あるのかね?」
 街の広場のすみっこ。連なる家々によって陰になっている場所で、それぞれが昼食にありつく。白身魚の揚げ物にかぶりついたトニーが、帽子を下げて苦笑した。ステラも、自分のパイを片手に首をかしげる。
「こんな大雪だし、むしろ空いてると思ったんだけどなあ」
「冬期休暇もだけど、やっぱり大祭が近いっていうのが大きいのかもね」
 自分の分を早々に平らげたナタリーが、軽く伸びをしながら呟く。それを聞いてか、隣にいたおさげの少女が顔を引きつらせた。
「冬の大祭って、わたしたちみたいに外から見に来る人も多いんですよね。ど、どんなことになるんでしょう」
 どうやら、食堂の混み具合に気おされたようだった。残る五人は互いの顔を見合わせて、なんとも言えぬ笑みを浮かべる。
「ま、学院祭フェスティバルみたいなものだと思っておけばいいんじゃね?」
 代表して応じたトニーが、ミオンの肩を慰めるように叩いた。

 イルフォードの屋敷の方へ近づいていくと、目に見えてわかる変化がある。建物も、人も、数がぐんと減るのだ。
 不自然なくらいに建物同士の感覚が開き、静寂が濃さを増す。そのせいか、空気も少し張り詰めたように感じてしまう。これもまた懐かしい、そして好きになれない感覚だ。白いものがちらつきはじめた空を仰ぎ、ステラはため息をついた。
「なんか、急に寂しくなったね」
 あたりを見回して、ナタリーがうすら寒そうに呟く。友人の言葉に、ステラはあっけらかんとうなずいた。
「このあたりは、イルフォードの人間の日常的な行動圏内だからね。武器を振り回したときに物を壊さないよう、わざと建物の数が制限されてるの。だから人も少ない」
「いや、なんだその理由……」
 トニーの指摘はもっともだ。だが、ステラとしては笑って受け流すほかにない。彼女自身、幼少期にさんざんこのあたりで訓練や演習の見学をした身なのだ。
 会話の終わり、地平線に大きな影が見えてくる。ステラは我知らず、息をのんでいた。いつもは騒がしい団員たちも口をつぐんで、それきりほとんど話さない。
 イルフォードの屋敷。近づくにつれ、その全貌が浮かび上がってくる。一目見た印象だと、豪奢な貴族の邸宅だ。だというのに物々しさを感じるのは、装飾が比較的少ないからか、各所に防衛を想定した仕掛けがほどこされているからか。小さな窓が開いているであろう屋敷の上部をにらみ、ステラは深呼吸をする。
 ほどなくして、門が見えてきた。だが、学生たちは門へ辿り着く前に、一瞬足を止めた。門前に立つ人影を見出したからである。門番などではない。そのことは、一目でわかった。
「げ……」
 ステラなどはあからさまに濁った声をこぼしたが、結局歩みを再開する。ここで引き返したら、逆に不審だ。
 風が強まる。不規則に舞った雪が、視界を薄く覆う。そんな中、学生たちは出迎えに立った人物と相対した。
 長身の、がっしりとした体格の男性。彼らがよく知る神父ほどに若いのだが、向かい合った者をひるませるような威が全身からにじみ出ている。栗色の髪は短く切られていて、太い眉の下では黒い瞳が光っていた。柔和な笑みを浮かべていても、その奥にひそむ刃はごまかしきれていない。あるいは、修羅場を潜り抜けてきた学生たちだから、そう感じるだけかもしれないが。
 ステラによく似た顔立ちの、その男性は、まずステラと向き合って口を開いた。
「久しぶりだね、ステラ。元気そうでよかったよ」
「お久しぶりです、兄上」
 ステラは、流れるように片足を引き、弧を描くようにして右手を胸に添える。貴族式の礼を取った彼女を、同級生たちは驚いた様子で見つめていた。男性は続けて、そんな彼らにほほ笑みかける。
「そして、初めまして、ステラのご友人がた。歓迎するよ」
「突然お邪魔して申し訳ありません。快く迎え入れていただけること、たいへん嬉しく存じます――ラキアス様」
 とっさに返礼したのは、ジャックだった。相変わらず切り替えの早い団長は、相手に対して目下の者の礼を示す。それに倣おうとしたほかの面子を、男性――ラキアス・イルフォードがやんわりと制した。
「礼を言うのは私の方だ。妹がいつもお世話になっているようだからね。……細かい話は、中に入ってからにしよう。ここだと、体が冷えてしまうだろう?」
 悪戯っぽく笑ったラキアスは、さっと踵を返して門を開く。その奥に立っていた番兵たちが、安堵した様子で重厚な扉を開きにかかった。
 兄のことだ。どうせ兵士に無茶を言って、自分が出迎えに立ったに決まっている。ステラは思ったが、口には出さない。
 開いていく扉の前で、その兄が振り返った。
「ようこそ、イルフォード家へ」