音もなく雪が降り続く。
昨日の夕方から降り出した雪は、翌日の夕方になってもやむ気配がない。おかげで、帝国北端の街は白に閉ざされつつある。
そのただ中、雪に負けずそびえ立っている建物があった。形こそ屋敷だが、重厚な門扉といい、上部にあいた穴のような窓といい、要塞もかくやという物々しさがある。国境近くということもあり、一見しただけでは軍事施設と勘違いする人もいるだろう。少なくとも、領主の住まいとは思うまい。それを示すのは、正面玄関の門の上で輝く、北極星と剣の紋章だけだ。
北方の地を守る騎士の一門、イルフォード家。その屋敷はおおむね静かだ。使用人や専属の医師なども含めて、それなりの数の人間が出入りするにも関わらず、不思議と騒がしさがない。雪がやまないこの日もまた、同様だった。
ラキアス・イルフォードは、変わらない屋敷の廊下を、自身も無言で歩く。短い栗毛と厳つい眉の下で、いつもは黒い瞳が鋭く光っている。しかし今は、瞼が閉じられ、その輝きも内に閉じ込められていた。
歩く。体も、呼吸も、そして思考も、ほとんどぶれさせないままに。
ここ最近、ラキアスが特に考え込むことは、二つだ。
一つは冬の大祭のこと。一応、現在は祖父が当主代理として立っているが、実務のほとんどはラキアスが行っている。祭りの準備の主導や事務も彼の仕事だ。やらなければならないことも、決めなければいけないことも、多い。
そしてもう一つは――実妹のことだ。
正直、彼女はもうイルフォード家に関わらない気かと思っていた。両親の死から年月が経ったということもあり、ラキアスの方から手紙を出しはしたが、返信を期待していたわけではない。ゆえに、先日手紙が返ってきたときには、ひどく驚いたものである。
その内容と、文面を思い出して、ラキアスは口もとをほころばせた。文字が昔より荒っぽくなったかな、と胸中で呟く。人によっては眉をひそめそうだが、彼は悪いことだとは思わない。成績の善し悪しは別として、一生懸命学ぼうとしている学生の字だ。むしろ、ほほ笑ましく、誇らしくすらある。
考えながら、ラキアスは歩く。彼の歩みと思考を邪魔するものはない。窓からは白い光だけが差し込んでいて、靴音だけが壁と天井に反響する。
初めて、彼の歩みが妨げられたのは――廊下の先から小さな人影が飛び出してきたときだった。ラキアスが足を止めると、相手も立ち止まった。彼に気づいたのだろう。小さな人影の主は、ぴしっと背筋を伸ばし、丸っこい顔を上向ける。
「あにうえ!」
「やあ、リオン。帰ったんだね」
「はい、ただいまもどりました!」
名を呼ぶと、大きな瞳が輝きを増した。わずかに弾んだ上体に合わせて、ラキアスたちによく似た栗毛がぴょこんと跳ねる。
赤ん坊のときに両親を喪ったリオン・イルフォードは、なんとかここまでひねくれずに成長し、兄の後をよく追いかけるようになった。今日も、ラキアスの行方を尋ねながらここまで来たのだろう。その光景を思い浮かべ、青年は我知らず笑みをこぼした。
リオンの手を取って、歩き出す。出先であったことを語る弟の声に耳を傾けながら、ラキアスはふっと目を細めた。
ステラとリオン、二人の道を分けたものは、なんだったのだろう。
ふと、そんなことを思う。
「――そういえば、もうすぐあねうえがいらっしゃるのですよね?」
無邪気な声。それは、こちらの内心を見透かしたかのように強く響く。
ラキアスは息をのんだ。だが、あくまでも平静を装って答えた。
「そう、だね。予定通り列車に乗れていれば、明後日には来るはずだ」
指先が、冷たい。そこへ、すぐ少年の熱が流れ込んでくる。
子どもというのは、どうしてこうも体温が高いのだろう。
「友人を連れてくると手紙に書いてあった。しばらくは、にぎやかになりそうだ」
「うわあ!」
ラキアスが思考をごまかすように言い添えると、リオンは弾んだ声を上げる。二人しかいない廊下に、明るい音はよく透った。
「リオンは、姉上に会いたい?」
その声があまりにも高らかだったからだろうか。そんなことを訊いてしまったのは。
「はい!」
少年の声には、よどみも雑味もない。そのことが、ラキアスには少し、うらやましかった。
「あねうえのことはあんまりおぼえていないですけど、だからこそ、会ってお話ししたいです。『ていこくがくいん』でのお話もきいてみたいです」
「……そうか」
リオンは、まっすぐな憧憬を両目に宿して語る。何も知らない弟にほほ笑みかけたラキアスは、その手を優しく握りなおして、顔を上げた。
何気なく窓の方を一瞥する。雪は、変わらず静かに降り続いていた。
※
シュトラーゼへの道のりは長い。帝都から帝国領のほぼ北端へ行くのだから、当然である。ステラたちの乗った列車はおおむね順調に進んだが、途中で乗り換えはあるし、車両の連結切り替えというので長らく待たされもした。雪による視界不良で停車したときには、さすがの六人もこわばった顔を見合わせた。
それでもなんとか北部に入り、目的地が見えてくると、団員たちの気も緩む。
「そういえばさあ、ステラは実家へのお土産とか買わなくていいの?」
ナタリーが唐突にそんなことを言ったのも、ようやく安堵したからだったのかもしれない。「今さらかい」と突っ込みつつも、ステラは腕を組んだ。少し考えてから、続きの言葉を舌に乗せる。
「んー……礼儀的に必要な菓子折りは帝都で買ったから、いいかなあって」
「おお、ステラの口から絶対出なさそうな言葉が出た」
「やかましい」
口を挟んできたトニーの頭を軽く叩く。少年は大げさに頭を押さえつつも、悪戯っぽく笑っていた。かぶりを振ったステラは、それに、と話を続けた。
「お土産って言っても、何持ってっていいかわかんないしね」
「ああー……それもそうか」
ステラが元々家出娘だったことを思い出したのだろう。ナタリーは、急に納得したような様子でうなずいた。そんなやり取りを、ミオンは首をかしげながら聞き、ジャックとレクシオは困惑した様子で視線を交わしている。それに気づいたステラは、黙って頬をかいた。
ステラの実家は、仮にも侯爵家である。その手土産ともなると、菓子折りの中でも最高級の品を選ばねばならず、ステラは出立前から懐の寒さに震えたのだった。――が、そういう実情に気づいたのは、二人だけのようである。
気の抜けた会話をしているうちに、シュトラーゼ到着を告げる車内放送が流れる。安堵と緊張を半分ずつ抱えるステラは、ほぼ無意識のうちに、両手を外衣のポケットに押し込んでいた。同じ時、向かい側でトニーが猫みたいに丸まって体を震わせる。
前方には目的地が見えてきたらしい。だが、ステラたちの席からだとよくわからない。今のところ、白の中から生える低木と線路と金属の柵しか見えない状況だ。雪は降っていないようだが、空は暗い。近いうちにまた降りだすかもしれないな、とステラは小さく息を吐いた。
少し経つと、車窓の外は変化する。白と灰色の寂しさから、にぎわいを感じる色鮮やかなものへと。耳障りな音と凄まじい振動を車内に伝えながら列車が減速し、止まる。
到着を告げる車内放送が流れると同時、乗客たちはばらばらと動きはじめた。それを見て、少年少女も降りる支度を始めた。
降り損ねぬよう、かつ人の流れにのまれぬよう、慎重に歩く。そのさなか、トニーがよそを見て軽く首をかしげた。それに気づいたステラは、とっさにその手をつかむ。
「はぐれるよ。どうかしたの?」
「あ、悪い悪い」
少年は猫目を細めて詫びた後、また首をかしげた。
「なんか、見覚えのある人がいたような気がしたんだけど。多分気のせいだわ」
「んー? まあ、気のせいならいいけど……」
トニーの知り合いがシュトラーゼに来るという状況は、ちょっと想像しづらい。本人も「気のせい」で片付けてしまったので、ステラもその言葉を軽く流して、足を再び動かす。
ゆえに、二人の後方で背広を着た男がぎょっと目をみはったことなど、知る由もなかった。
人にもみくちゃにされながら外へ出ると、視界いっぱいに銀世界が広がる。
道を覆いつくす分厚い雪。屋根にも裸の木の枝にも、どっさりと雪が積もっている。人通りの多いところは一応雪かきがしてあるのだが、その脇には岩山みたいな白い塊ができていた。
非日常的な光景に、学生たちはつかの間ひるむ。ステラでさえ、地元に来たというのに、唖然としてしまった。
「うっひゃあ~。すご……」
ナタリーが、街を見渡して呟く。雪を楽しみにしていた彼女だが、実際に見てまた違う感慨を抱いたようだ。ステラは苦笑しつつ、目の前の階段に一歩足を踏み出した。お上りさんのようになっている団員たちを、一人軽やかに振り返る。
「じゃ、行こうか。滑ったり雪にはまったりしないよう、気をつけてね」
五人は、それぞれに返事をしてついてくる。
街は、平和そのものだ。雪に対する慣れもあるのだろう、人々はその対処に追われつつも落ち着いている。店を開いたり、新聞や物資を家々に届けたり。そういう日々の営みも、ある程度平然として行われていた。
この街は、どれだけ人が多くても不思議と静けさがある。その空気も、ステラにとっては懐かしいものだった。
領主の家の方向へ足を向ける学生たちの横で、幼い子どもたちが黄色い声を上げながら雪に飛び込んでいる。それを見て、レクシオがそっと目を伏せた。ステラは、彼の上によぎった翳に気づいたが、ほかの団員の手前、問うてみることはできなかった。ただ、視線を逸らす。
「イルフォード家にお邪魔する前に、昼食を済ませてしまおうか。あまり疲れた状態で訪問するのも失礼にあたるし、ね」
道中、そう提案したのはジャックだ。陽気な声で彼が言うことには、一理ある。ちょうどお腹も減っていたので、全員が賛成した。が、ここで重大な問題にぶち当たる。
気軽に入れる食堂がどこもほぼ満席状態だったのだ。少なくとも、六人連れの学生が入れるところはなかった。頭を悩ませたすえ、屋台で軽食を買って済ませることになった。
「いやあ、店があんなに混んでるとはねえ。冬期休暇とか、関係あるのかね?」
街の広場のすみっこ。連なる家々によって陰になっている場所で、それぞれが昼食にありつく。白身魚の揚げ物にかぶりついたトニーが、帽子を下げて苦笑した。ステラも、自分のパイを片手に首をかしげる。
「こんな大雪だし、むしろ空いてると思ったんだけどなあ」
「冬期休暇もだけど、やっぱり大祭が近いっていうのが大きいのかもね」
自分の分を早々に平らげたナタリーが、軽く伸びをしながら呟く。それを聞いてか、隣にいたおさげの少女が顔を引きつらせた。
「冬の大祭って、わたしたちみたいに外から見に来る人も多いんですよね。ど、どんなことになるんでしょう」
どうやら、食堂の混み具合に気おされたようだった。残る五人は互いの顔を見合わせて、なんとも言えぬ笑みを浮かべる。
「ま、学院祭みたいなものだと思っておけばいいんじゃね?」
代表して応じたトニーが、ミオンの肩を慰めるように叩いた。
イルフォードの屋敷の方へ近づいていくと、目に見えてわかる変化がある。建物も、人も、数がぐんと減るのだ。
不自然なくらいに建物同士の感覚が開き、静寂が濃さを増す。そのせいか、空気も少し張り詰めたように感じてしまう。これもまた懐かしい、そして好きになれない感覚だ。白いものがちらつきはじめた空を仰ぎ、ステラはため息をついた。
「なんか、急に寂しくなったね」
あたりを見回して、ナタリーがうすら寒そうに呟く。友人の言葉に、ステラはあっけらかんとうなずいた。
「このあたりは、イルフォードの人間の日常的な行動圏内だからね。武器を振り回したときに物を壊さないよう、わざと建物の数が制限されてるの。だから人も少ない」
「いや、なんだその理由……」
トニーの指摘はもっともだ。だが、ステラとしては笑って受け流すほかにない。彼女自身、幼少期にさんざんこのあたりで訓練や演習の見学をした身なのだ。
会話の終わり、地平線に大きな影が見えてくる。ステラは我知らず、息をのんでいた。いつもは騒がしい団員たちも口をつぐんで、それきりほとんど話さない。
イルフォードの屋敷。近づくにつれ、その全貌が浮かび上がってくる。一目見た印象だと、豪奢な貴族の邸宅だ。だというのに物々しさを感じるのは、装飾が比較的少ないからか、各所に防衛を想定した仕掛けがほどこされているからか。小さな窓が開いているであろう屋敷の上部をにらみ、ステラは深呼吸をする。
ほどなくして、門が見えてきた。だが、学生たちは門へ辿り着く前に、一瞬足を止めた。門前に立つ人影を見出したからである。門番などではない。そのことは、一目でわかった。
「げ……」
ステラなどはあからさまに濁った声をこぼしたが、結局歩みを再開する。ここで引き返したら、逆に不審だ。
風が強まる。不規則に舞った雪が、視界を薄く覆う。そんな中、学生たちは出迎えに立った人物と相対した。
長身の、がっしりとした体格の男性。彼らがよく知る神父ほどに若いのだが、向かい合った者をひるませるような威が全身からにじみ出ている。栗色の髪は短く切られていて、太い眉の下では黒い瞳が光っていた。柔和な笑みを浮かべていても、その奥にひそむ刃はごまかしきれていない。あるいは、修羅場を潜り抜けてきた学生たちだから、そう感じるだけかもしれないが。
ステラによく似た顔立ちの、その男性は、まずステラと向き合って口を開いた。
「久しぶりだね、ステラ。元気そうでよかったよ」
「お久しぶりです、兄上」
ステラは、流れるように片足を引き、弧を描くようにして右手を胸に添える。貴族式の礼を取った彼女を、同級生たちは驚いた様子で見つめていた。男性は続けて、そんな彼らにほほ笑みかける。
「そして、初めまして、ステラのご友人がた。歓迎するよ」
「突然お邪魔して申し訳ありません。快く迎え入れていただけること、たいへん嬉しく存じます――ラキアス様」
とっさに返礼したのは、ジャックだった。相変わらず切り替えの早い団長は、相手に対して目下の者の礼を示す。それに倣おうとしたほかの面子を、男性――ラキアス・イルフォードがやんわりと制した。
「礼を言うのは私の方だ。妹がいつもお世話になっているようだからね。……細かい話は、中に入ってからにしよう。ここだと、体が冷えてしまうだろう?」
悪戯っぽく笑ったラキアスは、さっと踵を返して門を開く。その奥に立っていた番兵たちが、安堵した様子で重厚な扉を開きにかかった。
兄のことだ。どうせ兵士に無茶を言って、自分が出迎えに立ったに決まっている。ステラは思ったが、口には出さない。
開いていく扉の前で、その兄が振り返った。
「ようこそ、イルフォード家へ」