第二章 北極星の一門(3)

 広大なイルフォード家の屋敷には、食事のための部屋が複数ある。一家と客人が今夜集ったのは、奥まった場所にある小さめの食堂だった。本来、家族だけの食事のときに使われる部屋。そこが選ばれたのは、客人である学生たちが必ずしも貴族の子弟ばかりではないからだ。客をもてなすための豪奢な部屋ではかえって委縮してしまう子もいるだろう、というラキアスの提言が採用されたらしい。
 兄の判断は正しい。ステラはそう思っていた。何せ、団員の中で上流階級の人間はジャックとステラだけだ。貴族社会のあれこれを知らない四人に窮屈な思いはさせたくなかった。
 ――今まさに、夕食の席で緊張しっぱなしのミオンやナタリーを見ていると、心底そう思う。ステラは食事の手を止めないまま、こっそりと苦笑をこぼした。
 特に、ミオンは若干青ざめているようにも見えるが、あれは大丈夫なのだろうか。心配になるが、今口出しするわけにもいかない。なるべく早く彼女たちが解放されることを祈るしかなかった。
 食堂には、決して和やかとは言えない空気が充満している。一般市民の四人が緊張しているから――というだけではなさそうだ。ステラはちらと顔を上げて、奥の席を見やる。
 一番の原因は、おそらく当主代理――ステラたちの祖父だろう。
 ラキアスと何やら話をした後、彼は自ら学生たちのところに顔を出して、歓迎の意を示したらしい。だから、悪気があるわけでも客人を邪険にしたいわけでもないと思う。ただ、普段から威圧感が強すぎるのだ。彼がそこにいるだけで、場は否応なく張り詰めてしまう。
 そんな中で動じていないのは、イルフォード家の人々とジャックくらいだ。ラキアスにとっては慣れたものなのだろう、悠然と食事をしている。リオンも、祖父には緊張しているようだが、明るく振る舞っていた。そしてジャックも、礼儀を守ってかつ陽気に、祖父やラキアスからの質問に答えたり帝都について話したりしている。
「俺、こういうとき、心底ジャックを尊敬するわー」
「同感」
 隣でトニーがぼそりと呟く。話し声に上手くまぎれこんだ言葉に、ステラは小さくうなずいた。ステラとしては、この状況下で好きなように料理を平らげている彼も十分にすごいと思うのだが、それは口に出さないでおいた。

 食事の後、ステラは食堂に残って家族と少し話した。といっても、さほど踏み入った内容ではなく、天候のことや大祭の準備に関することだ。
 ひと通り話を終えて、軽い足取りで客間へ戻る。最大の懸念は――多少だが――解消され、お腹もほどよく満たされた。目的地に着いた安心感も相まって、体も心もぽかぽかしている。客間の前に立つ頃には、笑みが勝手にこぼれてしまっていた。が、扉を開けた瞬間、その笑みが引きつった。
「え、えーと、大丈夫……?」
 ステラが挨拶も忘れてそう言い放ってしまったのは、ミオンが寝台に突っ伏していたからだ。かたわらで荷物を広げていたナタリーが、ステラの声に反応してか、顔を上げる。
「あ、おかえり」
「た、ただいま。あの、ミオンは」
「あー……」
 ナタリーは、そばの寝台を一瞥して、軽く手を振る。
「そっとしておいてあげてよ。ホッとしてるだけだから」
「そうなの? ならいいけど……いいのかな?」
 ステラは首をひねりつつ、戸口に一番近い寝台に腰を下ろす。自分が何を言っているのかわからなくなってきた。
 当惑のままに隣の寝台を見たとき、おさげの少女がのろのろと上半身を起こした。服も髪も一切いじらず倒れ込んだらしい。服にいつもより多めにしわが寄っていた。
「あ、ステラさん。おかえりなさい……すみません……」
「いや、あたしのことは気にしなくていいから。疲れたならちゃんと休んでね」
「すみません……ちょっと、緊張しすぎちゃったみたいで」
 ミオンがうなだれ、肩をすぼめる。元よりまじめな子だ。すっかり恐縮してしまったようである。ステラはステラで、大慌てで首を振った。謝らなければならないのは、こちらのような気がするのだ。
「ごめん、おじい様はいっつもああいう感じで……多分悪気はないと思うんだけど。怖がらせたとしたら本当にごめん」
「いえ、怖いとかそういうことは」
「ミオン、正直になった方が楽だと思うよ。まさかここにあのおじいさんが来ることもないだろうし」
 目を泳がせている同級生に、ナタリーが苦笑まじりの言葉をかける。ミオンはそんな彼女を咎めるように振り返ったが、その視線にもいまいち力がないようだった。ステラは二人のやり取りを見て、肩をすくめる。
 こうなることは想定していた。特に、ミオンは気を張りすぎてしまうだろう、と。
 祖父は良くも悪くも堅い人物だ。客人との食事にはできる限り同席しようとするだろう。ここに滞在しているうちは、なんとか我慢してもらうしかないが、自分についてきてくれている学友を困らせるのも申し訳ない。
 これは、ラキアスに相談した方がいいだろう。ステラは、まだ何やら言い合っている友人二人をながめながら、頭の中に予定を書き込んだ。
 ちょうど、そのとき。ステラの耳が一つの音を捉える。明るくにぎやかな笑い声。少年たちのものだ。ナタリーたちも気づいたらしく、客間の少女たちは一斉に顔を見合わせた。
「なんだろう」
「男子ども、ずいぶんと盛り上がってんねー」
 首をかしげる二人をよそに、ステラはすっと立ち上がる。小走りで戸口まで行き、扉を少し押し開けた。そこで、幼い声が耳に飛び込んでくる。
 ステラが顔を出した瞬間、どういうわけかジャックと目があった。彼は隣の客間から出てきた直後だったらしい。
「おや、ステラ。少し騒がしかったかな? そちらの邪魔をしていたなら、すまない」
「いや、大丈夫……だと思う」
 手振りで謝意を示す団長に、ステラはうなずいてみせる。それから問いを口にした。
「それより。もしかして、リオンが来てる?」
「うん。食堂から戻るときに話を聞きたいと言われてね。さっきまで色んなことを話していたよ。早々にトニーと仲良くなりそうだ」
「そっか。ありがとう」
 どうやら、弟は相当に行動力があるらしい。少しうらやましく思いつつも、ステラはほほ笑んだ。「お礼はいいよ。僕たちも楽しんでいるからね」と片目をつぶったジャックはけれど、ふっと表情を改める。
「そういえば。ステラ、レクシオくんを見なかったかい?」
「レク? 見てないけど、どうしたの?」
「食事の後『ちょっと休憩してから戻る』と言っていたんだけれど、今も戻っていないんだ。さすがに遅い気がするから探しにいこうとしていたんだよ」
 ステラは思わず眉をひそめる。それで部屋から出てきたのか、と納得もしたが、言いようのない不安の方が強かった。
「それなら、あたしが行ってこようか。家の中のことなら、みんなよりはわかるし」
 食堂からここまで、距離はあるが迷うほどではないはずだ。記憶力のいいレクシオが迷子になるとも考えにくい。だが、だからこそ、ステラはそう提案した。ジャックは驚くでもなく恐縮するでもなく、首肯を返す。
「そうだね、一理ある。じゃあ、お願いしてもいいかな」
「承った」
 あくまでも陽気な問いかけに、ステラはおどけて応じた。ジャックは明るくお礼を述べて、部屋へ引っ込んだ。
 ステラも一度中へ入って、二人に今のことを話し、再び客間の外へ出る。その間際、必要ないはずの剣を手にしたことに、深い理由はなかった。

 ステラが食堂から出た頃、レクシオ・エルデはひとり回廊に立っていた。
 いささか窮屈な会食の後、なんとなく一人になりたくて、ほかの団員たちと別れたのだ。それ自体は、別におかしなことでもないだろう。トニーやミオンあたりも、心の一隅にはそんな思いがあったかもしれない。
 レクシオの奇妙なところは、道も現在地も確認しないまま、初めてであるはずの場所を歩いていってしまったことだ。人目を避けてそぞろ歩いているうちに、こんなところに行きついてしまった。
 とはいえ、外の空気を吸えるのは悪いことではない。ここなら、庭を眺めることもできる。もっとも、今は闇と雪に閉ざされてしまって面白味がないのだけれど。
 レクシオは漫然と庭を眺めていた。耳が痛くなるような冷気を感じても、なんとなくその場を動く気にならなかった。白い帽子をかぶった低木と石に、意味もなく目を向ける。
 思考も、なんだかまとまりがない。思いや記憶が浮かんでは消えて、それらは時々、胸にひっかき傷みたいな痛みを残す。最後に思い出したのが、できれば思い出したくなかった取調官の声だったのは、最も近い記憶だからだろうか。
「おや? 君は――」
 足音と、誰かの声。息をのんで、レクシオは振り返る。その瞬間に、嫌な記憶は煙のように消えてしまった。
 朧な光の中から姿を現したのは、ラキアス・イルフォードだった。彼は少年の視線に気づくと、柔らかくほほ笑む。そして、足を止めた。
「誰かと思えば、ステラのご友人か。確か、レクシオくんだったかな」
「あ、はい。どうも……」
 先ほど別れたばかりの人に、レクシオはおずおずと頭を下げる。その姿を『調査団』の団員たちが見たら、首をかしげたかもしれない。だが、今日が初対面であったラキアスは、気にするふうでもなく彼の隣に並んだ。
「何をしていたんだ? ここは冷えるだろう」
「や、えっと……食後の休憩と言いますか……庭を見ていたんです」
「そうか」
 うなずいたラキアスは、それからふんわりと苦笑する。
「窮屈な思いをさせていたなら申し訳ない。祖父はいつもあんな感じでね」
「ああ、俺は大丈夫です。慣れてるもので」
 そうなのか、と応じるラキアスは、どこか少年めいた雰囲気をかもし出している。レクシオも思わず苦笑した。
 イルフォード家の当主代理は、大方予想通りの人物だった。それがわかると同時、改めて幼馴染に同情してしまった。確かに幼少期からあの人がそばにいて、しかもほかに頼れる人がいないとなれば、家出したくなるのかもしれない。
 ただ、レクシオは縮みあがりはしなかった。むしろ、どこか懐かしさを覚えてしまったのは――その寡黙さが、自分の父と重なるからかもしれない。
「レクシオくん」
 名を呼ばれ、少年は肩を震わせる。ごまかしきれない動揺を宿して、隣の青年を見上げた。彼はあくまで穏やかに微笑を深める。
「歩きながら、少し話さないか?」
 唐突な提案に、レクシオは目をみはった。