第二章 北極星の一門(4)

 ラキアスからの意外な言葉に、レクシオは大いに戸惑った。思わず、その理由を聞いてしまったほどである。当のラキアスはと言うと、清々しいくらいあっけらかんとしていた。
「君は特にステラと仲がいいようだったからね。色々と話を聞いてみたくなったんだ」
「ええ……ラキアスさんにとって面白い話はないと思いますよ」
「そうでもないよ。私が知っているステラは、せいぜい五歳くらいまでだからね。あの頃とは違う部分も、きっといっぱいあるだろう」
 幼馴染の兄に満面の笑みでそう言われては、レクシオとしても断りづらい。困惑しながらも、お誘いに乗ることにした。
 自分から上手く話題が持ち出せなかったので、ラキアスの質問に答えていく格好になる。流れで、初等部から今までのことをなぞるように話すことにもなった。
 入学からさほど経っていない頃に知り合ったこと。最初はお互いを「変な奴」と認識していたこと。ステラの方からなぜかしょっちゅう声をかけてきたこと。それを鬱陶しく思ったときもあったこと。それでも――気づいたら一緒にいるようになったこと。
 改めて言葉にしてみると、不思議な懐かしさがこみ上げる。しみじみしているレクシオの横で、ラキアスは楽しそうに話を聞いてくれていた。
「そうか。あの子は帝都で元気を取り戻したんだな。それなら、よかった」
「……取り戻した?」
 言い回しに引っかかりを覚えて、レクシオは思わず訊き返す。ラキアスは、感慨深そうにうなずいた。
「元から活発で好奇心旺盛な子だったんだ、ステラは。けど、両親が亡くなって以降は人が変わったみたいにふさぎ込んでいた。見ていて心配になるほどだったよ」
 実際、ステラは家出して帝都まで行くという暴挙に出ている。それは心配の斜め上を行く出来事だったと、青年は苦笑した。レクシオは、いつだったかステラが語っていた身の上話を思い出す。そして、目を伏せた。
「……そういう様子を見てなお、あなたはステラを当主にと推薦していたんですか?」
 ラキアスが目をみはる。垣間見えた感情の揺らぎは、すぐに微笑の下へ隠れてしまった。
「ステラから聞いたのかい」
「ええ、まあ」
 レクシオは、しまった、と顔をこわばらせる。が、ラキアスは穏やかな表情を崩さなかった。
「その通りだ。私はステラを当主にすべきだと言い続けてきたし、その言葉に偽りはない。それが重圧になるであろうことも薄々わかっていたが、自分の主張を変えようとは思わなかった」
「なぜ、ですか」
 レクシオは、ためらいながらも問う。少し踏み込みすぎかと後悔したが、もはや取り消すことはできない。
 幸い、ラキアスは不快感をあらわにしはしなかった。だが、回廊の空気は重みを増したように思う。闇がにじり寄ってきて、互いの姿を薄く覆った。
 二人分の靴音だけが響く沈黙。それを乱したのは、ラキアスの答えだった。
「なぜ、か。そう難しい話ではないよ。私はステラこそが当主にふさわしいと思っている。だから、推す。それだけの話だ」
「ご自分は当主にふさわしくない、と思っていらっしゃるんですか?」
「ああ。私は個人的な感情に囚われすぎているから……。街を守り、騎士と民を導く者としては失格だ」
 レクシオは思わず首をかしげる。彼が、もたらされた回答を心の中で反芻したとき、ラキアスが足を止めた。
「怒りと憎しみに染まった者を領主と仰ぐなんて、嫌だろう? 私ならお断りだよ」
 自嘲的な一言。だが、それ以外の何かも、声には含まれていた気がする。
 レクシオは身をかたくした。ラキアスが振り返る。レクシオは、そこで初めて、自分が後ずさっていたことに気づいた。
「そうだ。君を誘ったのはもちろん、ステラの話が聞きたかったからでもあるんだが……もう一つ、理由があってね」
 空気が変わった。
 今度こそ、確実に。
 レクシオは、乾いた口を開く。
「理由、ですか」
「ああ、安心してくれたまえ。ややこしいことではない。確認したいことがあるだけなんだ」
 ラキアスの声は、確実に冷えていた。レクシオは唇を噛む。
 無意識に腰へ伸びていた手を握りしめる。武器を持ってこなかった己を胸中で罵った。
 彼が何もできないでいるうちに、その一言は放たれた。

「君は、ヴィントという男を知っているな?」

 心臓が跳ねる。
 レクシオは、とっさに答えられなかった。真実も、偽りも。
 ただ、鋭さを増した相手の目を見つめるだけだ。
 その沈黙をどう取ったのだろう。ラキアスは厳しい表情のまま口を開いた。
「知らない、などとは言わせない。エルデなんて姓、そうあるものではないからな」
 受容も反論もできない。
 レクシオは、手が震えていることに気づいた。ゆっくりと、左手を右手で包み込む。そうしてやっと、体の縛りがわずかに解けた。
「どう、して。そんなことを訊くんですか」
 会話もできないことを覚悟の上で、やっとそれだけを口にする。意外にもラキアスは、少年の問いに淡々と応じた。
「私たちの両親に何が起きたかは、君も知っているだろう。事件の後からずっと、私は犯人に関する手がかりを追っていた。私とステラが不在の間に父上が旅人を保護したこと、その旅人に両親が殺されたということを突き止めた。これはすぐにわかったよ。旅人と関わりを持っていた者が、家に何人もいたからね。おかげですぐに手配書も出回った」
 レクシオは無言で聞いている。何も返せるはずがなかった。
「問題はその男の素性だ。旅人は、家の者に姓も出身地も告げなかったそうだから。けれど、調べていくうちに、ルーウェン解体を逃れたデルタだということがわかった。軍や警察の情報と照らし合わせて浮かび上がったのが、ヴィント・エルデという男だった」
 ラキアスの語りはささやくように小さい。なのに、レクシオの耳にはやけに大きく聞こえた。
「ヴィントに親類はほとんどいない。いや、『解体』の際に皆亡くなったのだそうだ。『幼い一人息子』以外はね」
 レクシオは息を詰める。

 逃げたい。
 逃げなければならない。
 けれど、体が言うことを聞かない。

「君がその息子なんだろう。レクシオ・エルデくん」
 できるのは、目前の青年から視線を逸らさないことと、口を動かすことだけだ。だからレクシオは言葉を選ぶ。どうせ、偽ったところで得も意味もない。真実を紡ぐ代わりに、口の端をいびつに持ち上げた。
「そうだ、と言ったら……どうするんです?」
「決まっているだろう」
 互いの音が跳ね返って、消えた瞬間。レクシオの呪縛が完全に解けた。思考が回転する前に、少年の足は床を蹴っている。後退した彼の目の前を、鋭い何かが通り過ぎていった。一拍遅れて黒い髪が数本飛び散り、頬にかすかな痛みが走る。
 武器を向けられたと自覚する頃には、視界の中心に剣を持ったラキアスがいた。レクシオは、形ばかりの笑みを浮かべる。
「むちゃくちゃだな、おい……」
 彼の独り言は、ラキアスには届かなかったらしい。彼は刃のように目を細め、炎のように烈しい殺意を向けてきた。
「ヴィントが姿を現さず、法による裁きを受けるつもりがない以上、俺が剣を向ける先は一つしかない。――血族の罪、その身を以て贖うがいい」
 厳かな宣言。それが響くと同時、青年の姿がかき消えた。レクシオはとっさに横へ跳び、身をかがめる。すぐそばを白い光が通り過ぎる。白刃はすぐに翻り、少年を捉えた。避けていては間に合わない。レクシオは舌打ちをこぼし、とっさに構成式を組み立てた。
 金色の防壁が立ち現われ、すんでのところで剣を弾き返す。一瞬後、防壁にひびが走り、すぐに砕け散った。黄金色の破片が光となって消えていく間に、レクシオは体を低くして走り出す。剣戟はその間も間断なく繰り出されて、彼をじわじわと焦らせた。
 ステラと手合わせをしているときも、その才能に舌を巻く瞬間がある。だが、ラキアスの現在の実力はステラの上を行っていた。剣は速く、それでいて空気を低くうならせるほどに重い。
 ぎりぎりのところで逃げ回り続けていたレクシオは、突き上げるような悪寒を覚えて床に身を投げ出す。そのすぐ上を刃が通り過ぎた。避けきれず、頭の一隅に鋭い痛みが走った。乱れた呼吸の下から、さらに低いうめきが漏れる。
 逃げているだけでは何も進展しない。むしろ、追い詰められるだけだ。
 立ち上がったレクシオは、数回深く呼吸して、頭の中でいくつかの構成式を思い浮かべる。そして――弾むように駆けだした。
 なるべく、速く。意識して、距離を詰める。
 突き出された刃を、軽く首をひねってかわす。同時、思いっきり魔導術を叩き込んだ。周りに揺蕩う冷気を集めた、氷の刃。それは、ラキアスの横顔に小さな傷を刻んで砕けた。
 刹那の空隙。その後、腹に重い衝撃を受けて、レクシオはうめいた。体が勢いよく吹っ飛び、柱に叩きつけられる。回廊を駆け抜けるほどの轟音が、やけに遠く聞こえた。
 押し出される空気も、体を苛む激痛も、じわりと広がる血の味も、すべて他人事のように感じる。それでいて何よりも近くにあって、少年を縛り付けた。
 レクシオはうめく。つかの間、何もできなかった。
「――見直したよ」
 そこへ、声が一粒落とされる。
 なんとか顔を上げたレクシオの目に、立ちふさがるラキアスの姿が映った。表情は、よくわからない。怒っているようにもほほ笑んでいるようにも見えるのは、なぜだろう。
「あの状況で踏み込むとは、大した胆力と判断力だ。本当は肢体を一本ずつ切り落としてから殺してやろうと考えていたが、気が変わった。その勇気とこれまでの行いに免じて、一瞬で終わらせてあげよう」
 淡々と紡がれる言葉。それはさながら演説のようだった。
 レクシオは、ただ喘ぐ。応答も反抗もできなかった。よどみ、潤んだ緑の瞳に、剣の光が茫洋と映る。切っ先は静かに頸を狙う。

 戦士の剣が命を奪う凶刃となる、直前。二者の間に、銀光が奔った。

 どちらもが、目をみはる。『最悪の事態』を察したレクシオとは逆に、ラキアスは飛びのいた。警戒したのだろう。そうしてできた隙間に人影が滑り込む。とっさのことのように振り下ろされた剣を、もう一振りの剣が受け止めた。
 金属音がこだまする。それは間もなく、熱く冷たい沈黙を生み出した。
 互いが構えを解かないまま対峙する。やがて口を開いたのは、闖入者の方だった。
「これは、どういうことですか」
 問う声が、震えている。怒りを宿して燃えている。
「答えてください、兄上」
 彼女は――ステラ・イルフォードは、レクシオをかばうように立ったまま、血を分けた兄をにらみつけた。