第三章 白雪の約束(10)

 ヴィントは、その後すぐに息子を連れてイルフォード家を離れた。幸い、屋敷に招かれた時点で私物などなかったので、準備という準備は不要であった。誰にも告げず、黙って屋敷を、町を出る。
 二人の遺体もそのままにしてきた。イルフォード家の者に後を任せた方がよいだろう、と考えたのだ。――あるいは、彼らを自らの手で埋葬することにためらいがあっただけかもしれないが。
 考えても詮無いことだ、と、ヴィントは己に言い聞かせた。

 しばし放浪し、春の気配が感じられるようになった頃。二人は、初めて聞く名前の小さな町に辿り着いた。久方ぶりに喧騒の中に身を置いたヴィントは、己の左下をちらと見下ろす。レクシオが目と口をいっぱいに見開いていることに気がついて、ほんのわずか、口もとをほころばせた。
「見ていくか?」
 問えば、レクシオは弾かれたように顔を上げる。無愛想な父を映す緑の瞳は、緑玉エメラルドも霞むほど輝いていた。
「いいの!?」
「ああ。だが、少しだけだぞ」
「うん!」
 力いっぱいうなずいたレクシオの手を握りしめ、ヴィントはフードの端をつまんで下げた。
 町を歩く。今は何かのいちの最中なのだろうか。色鮮やかな屋根を持った露店が立ち並び、草花が描かれた旗が至る所でなびいている。
 それらを見るともなしにながめながら、ヴィントは短くない旅路に思いをはせた。

 シュトラーゼを出てからの旅は、今まで以上に過酷だった。より人々の目につかぬよう気を遣わなければならなかたからだ。侯爵にも叙されているイルフォード家の当主夫妻を殺したのだ。指名手配されるのも時間の問題である。
 幸い、前のようにレクシオが体調を崩すこともなく、比較的順調にここまで来た。だが、彼の息子はあの事件以降、少し変わったようだ。今でこそ混乱から立ち直って明るく振る舞っているように見えるが、時折表情に影がよぎるのだった。

 露店で少しだけ食べ物を買った二人は、宿を探してそぞろ歩く。できるだけ安い宿を見つけ出したい、というのがヴィントの心情だった。
 新聞を抱えた紳士、子供の手を引く男女、工夫らしきいでたちをした年かさの男たち――様々な人々が行き交う街路を、放浪親子は黙ったまま歩く。そこに暗さはないが、わずかなぎこちなさ、いびつさが残っている。
 ヴィントは、何の気なしに通りの脇を見た。ちょうど、店と住居のはざまに鎮座する大きな板が目に入る。掲示板、と書かれていた。町の行事のお知らせや、遺失物捜索の依頼などが雑多に貼りだされている。そのうちの一枚に、ヴィントの視線は吸い寄せられた。
 手配書、と書かれた紙の群れ。その中に、自分の似顔絵を見つけたのだ。

 しばらくして安宿を見つけ出した親子は、人目を忍んでそこへ入った。宿の主人には一瞬怪訝そうな顔をされたが、無事部屋の合鍵を貸してもらえた。金さえ出してくれればそれでいい、という風情である。
 軋む階段をのぼり、合鍵にぶら下がっている板と同じ番号の部屋を探す。二階の中央部に部屋を見つけると、建てつけの悪い扉を開けた。
 途端、レクシオが頬を染める。
「わああ、ベッドだ!」
寝台ベッドだな」
 ヴィントがひねりのない相槌を打っている間にも、レクシオは寝台に飛び込んでいった。古ぼけていて寝心地は悪そうだが、土や岩と比べたら極上の寝床である。
 ヴィントは少ない荷を下ろすと、寝台の方を一瞥する。枕を抱きしめているレクシオをしばし見つめ、そして、口を開いた。
「レクシオ」
 呼ばれた幼子が振り返る。最初、表情は輝いていたのだが、すぐにその輝きは翳ってしまった。ヴィントが気難しく顔をしかめていたせいだろう。彼自身、それに気づいてはいたが、あえて繕うことはしなかった。
「もうすぐ、帝都に近い町に着く。そこで一度、『お別れ』しよう」
「……え」
 レクシオの表情が凍りつく。少しして、目じりに涙が盛り上がった。
「な、なんで?」
 ヴィントは目を閉じる。
「……ぼくの、せい? ぼくが、わがまま言ったから? ちゃんと、いわなかったから、きかなかったから……だから……」
「違う」
 寝台に歩み寄る。そして男は、息子を抱きしめた。
 腕を通して、細かな震えが伝わってくる。不安と動揺の、音が、色が。
 それがわかったから、ヴィントはあえていつものように言葉を紡ぐ。
「そうじゃない、レク。おまえのわがままひとつくらいで、見捨てはしない。どちらかというと、父さんのせいだ」
 小さな頭をなでる。レクシオが、わずかに顔を上げた。
「おとうさん……?」
「父さんはここに来るまでに、たくさん悪いことをした。レクも、もうわかっているだろう」
 沈黙が返る。それは、何よりも雄弁な肯定であった。ヴィントはそれを受け止めて、続ける。
「悪事の数々が、いよいよ帝国の偉い人に知られたらしい。これ以上、父さんとレクが一緒にいるのは危険だ。だから、別々に行動しよう」
 ヴィントなりに少しおどけてみせたつもりだったが、レクシオの表情はあまり和らがなかった。苦手なことはするものではないな、と胸中で嘆息する。
「シュトラーゼからの旅で、できる限り多くのことを教えたつもりだ。レクはそれをよく覚えてくれたと、俺は思う。きっと、しばらくは一人でも大丈夫だ。だから、まずは帝都に行け」
「ていと……?」
「このあたりで一番大きくて、人がたくさんいる――武器屋のチャールズがいる街だ」
 古い知己の名を出すと、レクシオは少し目をみはった。放浪の中、少しだけ帝都に潜んだこともある。そのときのことを思い出してくれたのだろう。
 ヴィントは、ひとつうなずいた。
「帝都には大きな孤児院があると聞く。親がいないとでも言ってまぎれこめば、一人で生きていく方法を教えてもらえるだろう」
 そこで言葉を切って、ヴィントはレクシオから少し離れた。自分譲りの緑の瞳を見つめる。
「できるか?」
 わずかな、空白。
 その果てで、レクシオはためらいがちにうなずいた。
「……わかった。ぼく、『ていと』に行く」
「よし」
 ヴィントは無意識のうちに表情をやわらげる。息子の頭を軽く叩いて、彼から背を向けた。今後の計画を練らなければ――そう思っていた彼の背に、幼い声がかかった。
「おとうさん。ぼく、まだよくわからないんだ。おとうさんがおじさんたちを『ころした』っていうこと」
 思わず、息を詰める。体が、意に反して固まった。
「おじさんたちには、もう会えない。『ころした』っていうのはきっと、おとうさんが言う『悪いこと』で――それはわかるけど、でも、やっぱりよくわかんない」
「……そうか」
「でもね。どんなに悪いことをしても、おとうさんはぼくのおとうさんだよ」
 ヴィントは、瞠目した。心臓の音が大きく聞こえる。自分の手配書を見つけたときですら、こんな感覚は、こんな痛みはなかった。
「だって、ぜんぶ、ぼくのためでしょ? パンとか果物とかをぬすんだのだって、こわい人をやっつけたのだって……おじさんと、戦ったのだって。ぼく、知ってるよ。知ってるんだよ」
 今日はこれ以上顔を見るまい。そう思っていたが、気づけばヴィントは振り返っていた。
 レクシオは、笑っている。イルフォード家にいたときのように、やわらかく。だが、その両目からは涙の粒がぽたぽたとこぼれていた。
「だから……だからね……」
 続けようとしたのであろう言葉は、嗚咽にかき消される。レクシオは小さな手で何度も顔をぬぐったが、あふれる涙の量に追いついていなかった。
 ヴィントは踵を返し、寝台に腰かける。そのまま泣き出してしまったレクシオの頭をなでた。幼子が落ち着くまで、ずっとそうしていた。
 かけようと思っていた言葉を沈黙のうちに封じて。

 この数日後、ヴィントとレクシオは帝都にほど近い町で別れた。父と幼い子の別れにしては、ずいぶん淡白であったと、彼は記憶している。
 そして、男は一人、息をひそめるように旅を続けた。息子のことは、たまに来る知己からの連絡で知る程度であった。
 もう、会うことはないのだろうと思っていた。

 ある年の黄の月フラーウスに、帝都を訪れるまでは。