第四章 生者の選択(1)

 語る声が途切れたからか。ステラの世界に、ゆっくりと音が戻ってきた。食器がぶつかりあうかすかな音や、柔らかい雑談の声を聞き、彼女は反射的に息を吸って、吐く。多少、気持ちが安らいだ。しかし、完全に落ち着くというわけにはいかなそうだ。
「あたしたちの、ために」
 声がこぼれる。それを自分が発したと気づくまでに、いくばくか時間を要した。
 二人分の視線を感じて、ステラは拳を握る。
「あたしと兄上を守るために……そんな、ことを」
 正面を見られそうになかった。だから、中途半端に残った紅茶のカップをにらみつける。すっかり冷めてしまった紅い水面みなもに、ゆがんだ相貌が映って揺らいだ。
「謝罪も気遣いも不要だ。少なくとも、俺にはな」
 無愛想な一声が飛んでくる。ステラは弾かれたように顔を上げた。視線の先には、ヴィント・エルデがいる。彼は先刻とほとんど変わらぬ表情だった。手にしているカップは空っぽだ。
「元来、宮廷騎士団というのは皇帝の勅命で動く集団だ。その点で言えば、ディオルグは己の仕事をしただけだと捉えられる。……俺たちに情を抱いたせいで事がこじれたのは、確かだが」
 ステラは曖昧にうなずく。そうするしかなかった。
 ヴィントの言う通りだ。両親がこの親子に刃を向けたのが、帝都からの使者のげんを受けてのことならば、彼らは職務を果たそうとして死んだ、ということになる。だが――当人や遺された者たちにとっては、それだけで済む話ではない。
 父はどれほど葛藤したのだろう。母はどれほど懊悩したのだろう。幼子は――隣にいる彼は、どれほどの傷を心に負ったのだろう。
 何も知らなかった。『解体』のことも、事件のことも。その裏で確かに育まれていた、絆のことも。
 知らぬまま過ごすこともできただろう。だが、ステラはその道を選ばなかった。自身がその道を選ぶことを、許さなかった。あの夜、幼馴染を守ると決めたからには、知らぬままではいられまい。
 だからステラは、男の名を呼んだ。
「ヴィント、さん」
「……なんだ」
「ありがとう」
 呼ばれた方は、わずかに目を見開く。そうしているとレクシオによく似ているな、とステラは思った。
「話してくれてありがとう。おかげで色々、知ることができた」
「おかしな奴だな。親の仇に礼を言うとは」
 ヴィントが呆れたような視線を注いでくる。ステラは、軽く眉を上げた。
「勘違いしないで。あなたを許す気はみじんもないわよ? レクに関わることでだって、言いたいことはまだあるし。正直、何発か殴ってやりたいくらいだわ」
 相手が少したじろいだような気がする。気がするだけかもしれないが。
 ステラは、でも、とそのまま言葉を続けた。
「これまで通り過ごしていたんじゃ、わからなかったことばかりだから。貴重な情報をくれたという点については感謝する、ってことよ」
 あえて尊大に締めくくったステラは、自分のカップを空にする。それから見たヴィントは、やはり無表情のままだった。が、口の端がわずかにつり上がっている、ように見える。
「……やはり、リーシェルの娘だな」
「え?」
 相手の声がよく聞き取れなかったステラは、反問する。だが、ヴィントは軽く手を振って、「気にするな」とだけ返してきた。追及できずに押し黙った少女を見ながら、ヴィントはぼそりと言葉を付け足す。
「とりあえず、その礼は受け取っておこう」
 目をみはったステラの横で、それまで沈黙していた少年が笑声を立てた。

「で、いいのか。警察に通報しなくて」
 あれから、会計を済ませて――こちらが何かをする前にヴィントがすべて支払ってしまった――喫茶店を出た。雪を数回踏みしめたところで、ステラの方にそんな問いが飛ぶ。訊かれた本人は首をかしげた。思わず隣を見ると、曖昧な苦笑が返ってくる。
 結局、ステラは肩をすくめて応じた。
「今回はやめておく。今、面倒事を増やすのは嫌だからね」
「……そうか」
 男はそれだけ返して、二人に背を向ける。そのまま歩き去ろうとする彼に、突然、声がかかった。
「親父」
 ヴィントが足を止める。ステラも、思わず振り返った。いつの間にか、レクシオが半歩踏み出していた。彼は、ヴィントがちらとこちらに顔を向けると、気まずげに視線を泳がせる。
「あ、いや……俺からも言っておこうと思って。ありがとな」
 困っているようにも照れているようにも見える幼馴染の横顔を、ステラはつい興味深く見た。最近、こんな彼を見ることはなかったから。
 ヴィントの方は、やはり眉一つ動かさなかった。わずかな沈黙の後、かすかに吐息をこぼす。
「無理をする必要はないぞ」
「そんなんじゃねえよ」
 今度は即座に切り返し、レクシオは頭をかいた。
「確かに俺だって、納得し切ったわけじゃない。おじさんたちのことも、途中で『お別れ』させられたことも。ぶつけたい恨み言の数なんて、十や二十じゃきかないくらいだ」
 ヴィントは少しも動かない。だが、ステラは、彼が動揺した気配を感じ取っていた。彼女が親子を見比べたとき、息子の方が、しかめていた顔を少し緩める。
「けど、それでも、親父が今こうして話してくれたのは確かだ。それに――過去や未来に何があったって、あんたは俺の父親だよ。少なくとも俺は、そう思ってる」
 色の見えなかった双眸が、わずかに見開かれる。その変化の意味を少女たちが知る前に、彼は二人に背を向けてしまった。
「そうか」
 小さな一言。それだけを残して、ヴィントは去ってしまった。
 別れの言葉は何もない。終わりはどこまでも静かだ。
 だが、それでいい――それがいいと、ステラは思った。

 喫茶店で話し込んでいる間に、雪の勢いはだいぶ弱まっていた。蛍火のような白が舞い落ちる中、ステラたちも帰路についた。
 結局、落ち着いて墓参りができなかった。気候のいいときを狙ってもう一度顔を出しにいこうか。そんなことをつらつら考えていたステラの耳に、いきなり声が飛び込んできた。
「なあ、ステラ。大丈夫か?」
 それは、すっかり耳に馴染んだ声だった。
 こちらをのぞきこんでいるレクシオを、一瞬だけ振り返って、ステラはかたい微笑を浮かべる。
「さっきの話のこと? ……まあ、正直、頭は混乱してるけど。立ち止まるほどじゃない」
「そっか」
 相槌を打ったレクシオに、ステラは一度、うなずいた。
 思いのほか動揺が少ないのは、事件の裏側を多少予想していたからかもしれない。それに――両親なら、きっとそうしたのだろう、という妙な確信もあった。ステラにとってはそれよりも、『解体』の実態の方がよほど衝撃的だった。
 だから、改めて幼馴染を振り返る。首をかしげた彼を見て、目をすがめた。
「レクの方こそ大丈夫じゃないでしょ。顔、真っ青だよ」
 指摘すると、レクシオは頬をひくつかせた。まさか、ごまかせていると思っていたのだろうか。ステラは出かかったため息をのみこんで、代わりに少年の背中を強めに叩いた。
 衝撃で若干よろめいた彼は、困ったように笑う。
「や、俺はちょっと思い出しただけだ。母さんが死んだときのこととか、あの日のこととか」
 言葉の終わりが震える。それを聞き、ステラは息をのんだ。
 きっと、無意識に封じていた記憶だろう。それは大丈夫なのだろうか――と思っていたのが、顔に出ていたらしい。レクシオは、ステラに向かって笑いかけると、強引に話題を変えた。
「で? これからどうするよ、ステラさん」
 至極当然の問いだった。
 ステラは眉を寄せて考え込み、浮かび上がった言葉を口にする。慎重に、しかし力強く。
「あたしは――兄上と、ちゃんと話がしたい」
 レクシオからの明確な応答はない。代わりに、凪いだ新緑の瞳がこちらをひたと見つめていた。
 ――両親の件はやはり、彼らだけの罪ではない。ステラはそう思う。
 両親が自分たちのために保護した親子との約束を違えたというのなら、ステラたち兄妹とて無関係とは言えないはずだ。そして、元を辿れば、大人たちを追い詰めたのは帝国そのものだ。
 きっと兄だって、心の底ではわかっている。だから、もう一度、過去の事実と互いの想いを共有し、確認したかった。今度は剣ではなく、言葉で。
 ステラは、無意識のうちに拳を固めていたことに気づいて、それを緩める。小さなため息が響いたのは、そのときだった。
 ステラが顔を上げると、苦笑している幼馴染と目が合う。
「ステラならそう言うと思ってた」
 言うなり、少年は大きく肩を回して、胸の前で拳を握った。
「――っし。んじゃまあ、俺も腹をくくりますか」
 レクシオの言葉に、ステラは軽く目をみはる。
「え? レクも話するの? 無理しなくていいんだよ」
「いやおまえ、当事者が一緒に行かなきゃ意味ないでしょ」
 レクシオは軽やかに、ステラの気遣いを一蹴した。確かに、彼は三人の中で唯一、事件の渦中にいた人間だ。正論ではあるのだが、ステラとしては一抹の不安をぬぐえない。とはいえ、本人がやる気になっているのを無理に止めるのも、違う気がする。
 悩んだすえ、ステラはひとつうなずいた。
「しょうがないな。じゃあ、何か起きたらあたしが守ってあげる」
 すると、今度はレクシオの方が目を丸くした。一瞬の沈黙の後、彼は失笑する。
「ほんっと頼もしいお嬢様だな。いいのか、相手は兄貴だぞ?」
「何を今さら。昨日思いっきり剣向けちゃったんだから、二度目があろうとなかろうと大差ないわ」
「……さいで」
 ステラが胸を張ると、レクシオは呆れたような目を向けてきた。彼女は幼馴染の視線を歯牙にもかけず、気合十分で歩き出す。
 きちんと話をするためにも、しっかり休んで、しっかり食べて、英気を養わねばなるまい。彼女のそんな内心を読み取ったわけでもなかろうが、レクシオはそれ以上追及することなく、苦笑して追ってきた。
 二人並んで、シュトラーゼ市街を行く。その後ろに漂う躊躇と後悔の影は、往路よりいくらか薄らいでいた。