第四章 生者の選択(2)

「ステラー! レクー! おっかえりー!」
 建物が激減する区画に入って、しばらく歩いた頃。だだっ広い雪原に、元気な声がこだました。名を呼ばれた二人は思わず顔を見合わせる。
 声のした方、なるべく遠くに目を向けて――ステラは顔を引きつらせた。
「みんな……何やってんの……?」
 イルフォード家の敷地、その南端。どういうわけか、『クレメンツ怪奇現象調査団』の四人が勢揃いしていた。みんな、髪の毛に大小の白いかたまりをくっつけている。それを見た時点でステラは事態を察したが、それでも一応、口に出して問うた。もこもこの帽子を拾って雪を払っていたトニーが、応じる。
「いやあ、あんまり雪がすごいから、雪合戦してた」
「きちんとラキアス様と当主様に許可をいただいているから、安心してくれたまえ!」
「いや……それはいいんだけど。そうだけどそうじゃないっていうか……」
 悪童みたいに瞳を輝かせているナタリーとトニー。爽やかに笑うジャック。そして苦笑しているミオン。表情はそれぞれ違うが、童心に帰って雪合戦を満喫していたという点では同じらしい。
 悪天候続きの中、シュトラーゼの地理に最も詳しい二人が不在となれば、怪奇現象の調査も難しい。結果、やることがそのくらいしかなかったのだろう。まあいいか、とステラは肩をすくめた。そして直後、軽く身をひねる。真横を白い玉が通り過ぎた。
「ちょ……いきなり何すんだ!」
「せっかくだからステラもちょっと参加してけよ」
 不意打ちに苦情をぶつけると、雪玉を投げた張本人は帽子をかぶり直してけらけら笑う。ステラは今度こそ眦を吊り上げ、頬をひくつかせた。
「よぉーし……やってやろうじゃないの……覚悟しろよ?」
「あ。スイッチ入った」
 ――それからしばらく、ステラは学友たちと本気の雪合戦に興じた。途中からなぜかリオンも加わって、大混戦となる。一応怪我人であるレクシオは、それを遠巻きに見て、乾いた笑いをこぼしていた。

「というわけで、遅くなりました……すみません、兄上」
「気にしなくていい。たまには羽目を外すことも必要だよ。みんなまだ若いんだから、なおさらだ」
 結局、ステラたちが屋敷に帰り着いたのは日没前だった。恐縮しきった妹を見て、ラキアスは軽やかな笑声を立てる。満足げなリオンの頭をなでた後、彼は学生たちを改めて招き入れた。
「たくさん動いたのだから、お腹が減っただろう? もうすぐ夕食の準備ができるそうだから、汚れを落としたら食堂に来るといい」
 そのうち四人は、口々にお礼を述べて上がっていく。後に残った二人、つまりステラとレクシオは、一瞬、視線を交わした。それから、ステラが半歩踏み出す。
「兄上」
「……ん? なんだい」
 ステラがかたい声で呼びかけると、屋敷へ入ろうとしていたラキアスは、怪訝そうに振り返る。
「夕食後、お話ししたいことがございます。よろしいでしょうか」
 あくまでも真剣にステラが言うと、青年は二人を順繰りに見て表情を引き締めた。ある程度、用件を察したのだろう。
「……わかった。場所は俺の部屋でもいいかな」
「……はい。ありがとうございます」
 ひと時の間に、空気が凍りつく。それを振り払うように、ステラは頭を下げた。ラキアスは、それに対しては特に応答せず、屋敷の中へ入っていく。
 ややあって。レクシオに肩を叩かれて我に返ったステラは、彼とともに食堂へ向かった。

 兄の部屋は、いつも冷え冷えしている。
 あまり物がないからかもしれない。イルフォード家のほかの部屋と同じく、最低限の家具――棚などは質のよいものが使われているが、華やかな飾り物や娯楽の品のたぐいはほとんどないのだった。強いて言えば、棚の上段に幼少期のステラが贈ったカップと鳥の置物が飾ってあるくらいだろうか。
 だからか、空気そのものが寂しく、冷たい気がする。それは幼いステラが抱いた感情であったが、今でも部屋の雰囲気は大して変わっていないようだった。
 ラキアスは、部屋に少年少女を迎え入れた後、お茶を用意しにいった。今頃、自分で紅茶を淹れているところを目撃されて女中を大慌てさせているかもしれない。
 兄の帰りを待つ間、ステラとレクシオの間に会話はなかった。ただ、丸テーブルを囲む椅子に座っている。
 ステラは、贈り物が陳列されている棚をぼんやりとながめていた。懐かしい記憶を辿りながら、チーク材の木目を視線でなぞる。そうしているうちに、扉の開く音がした。
「やあ、待たせたね」
 朗らかに入室してきたラキアスは、こちらが会釈をしている間に、レクシオとステラの前にカップを置いた。最後に、自分の分を持って、ステラたちの対面に着席した。
 彼が紅茶を一口飲んだのに、ステラたちも倣った。茶器の音が少し部屋の空気を揺らしたところで、ラキアスが口火を切る。
「それで、話というのはなんだい?」
 視線を向けられたステラは、背筋を伸ばした。
「はい。――父上と母上のお墓参りに行ったとき、ヴィント・エルデに会いました」
 彼女が親の仇の名を口にした瞬間、ラキアスの目がすっと細った。彼は、持っていたカップをソーサーに置く。その動作は静かで、優雅ですらあった。だが、ステラは息をのんだ。静か、だからこそ圧されてしまう。兄の全身からは確実に、怒気と呼べるものが立ち昇っていた。
「逃げられたのか」
「いいえ。捕まえることも通報することも、試みませんでした」
「なぜ」
 低く、短い問い。それは確実にステラの全身を締めつけた。心臓が早鐘を打つ。全身から汗が吹き出す。それでも少女は平静を装って、大きく息を吐いた。
「ご子息の前でやることではないでしょう」
 隣の幼馴染を一瞥して、答える。ラキアスは何も返さない。
 大丈夫、わかっていたことだ。ステラは努めて淡々と、言葉を続けた。
「それに、私はヴィントから話を聞きたかったんです。彼が――彼らが滞在している間、この家で何があったのか。どうして保護されていた彼が、両親を手にかけることとなったのか――ヴィントは、当時のことを明瞭に覚えている、唯一の当事者ですから」
 こちらに向けられていた圧が緩む。その代わり、強い視線が二人ともに注がれていた。
 無言の催促を受けて、ステラはヴィントから聞いた話を兄に伝えた。エルデ親子が放浪するきっかけとなった『解体』のこと。その後、父が彼らを拾ったこと。穏やかな日々と、その崩壊まで。ステラがつっかえた部分はレクシオが多少補足してくれた。彼と一緒に来て正解だった、とステラは内心安堵していた。
 ひと通り話し終えて。ステラは呼吸を整えると、改めて正面を見た。ラキアスは、こちらを見ていなかった。何事かを考えこむように目を伏せ、右手を唇の下に添えている。
 しばしの沈黙の後。ラキアスが顔を上げ、ステラをにらんだ。にらんだ、と言うに相応しい視線の鋭さであった。
「なるほど。俺の読みはおおよそ当たっていたわけだ」
「……はい」
 応じたステラはしかし、すぐに言葉をつないだ。
「ですが、やはり彼らだけが悪いのではないと思います」
 ラキアスのまとう空気が冷える。それでも彼は口を挟んでこなかった。ステラは一拍置いてから、再び息を吸う。
「ヴィントが父上と戦ってお二人を手にかけたのは事実。しかし、ヴィントの話が本当なら、先に幼い子どもに手を出そうとしたのは父上の方です。子どもにも親と同様の罪があるのなら、私たちとて同罪でしょう。無知なまま人質として使われ、お二人を追い込んだのですから」
 ラキアスは一度も口を挟まなかった。それどころか、相槌すら打たなかった。ただ、ステラが言葉を区切って待っていると、ため息のような声を吐き出す。
「確かに、おまえの言うことには一理ある」
 ステラは軽く目をみはる。思わず隣を横目で見るが、少年の表情は変わっていなかった。だが、ラキアスの続く言葉を聞いたとき、彼もわずかに瞠目した。
「それに俺も――両親のことを抜きにして言えば、『解体』という名目で故郷を追われ、親類や同郷の者を無残に殺された人々には同情していた。憂えてもいた。皇帝陛下のやり方に、疑問を抱いてもいた」
 ステラは思わず身を乗り出す。
「『解体』のことを……ご存知だったのですか?」
「当初は知らなかった。後で調べて知ったことだ。それも、ステラたちが聞いてきたほどの詳細な情報ではなかった」
 ラキアスは、声にわずかな悔しさをにじませて答えたのち、紅茶に手をつける。ステラも、緊張から喉が渇いていることを自覚して、彼に倣った。
 いつだったか、ジャックが似たようなことを言っていたのを思い出す。現在、実質上の父の代理として立っているラキアスでさえ、詳しい情報を得られなかったのだ。ルーウェン解体と呼ばれる虐殺の記録は、相当厳重に蓋をされているのだろう。
「――だが。大切な者を奪われた人間の感情というのは、理屈で抑え込めるほど単純ではない。ステラだって、そうだろう?」
 その一声に、はっとする。脇道に逸れていた思考を戻し、ステラは兄と向き合った。
「否定はしません。ですが、大切な人を奪われたのは、ヴィントだって同じですよ。奥さんはもちろん――聞いている限りでは、父上や母上との関係も、途中まではよかったようですから」
 ラキアスは、ひとつうなずいた。そうかと思えば、視線をステラの方からゆっくり隣へ滑らせる。
「それなら、ステラ。例えばヴィントやレクシオくんが『おまえがいなければあんな争いは起きなかったのに』と言って刃を向けてきたら、どうする?」
 息をのむ。その音は、重なった。
 ステラは、自分が動揺したことを認めていた。このとき問うたラキアスの声が少し弾んでいたことに、後から気づくくらいには心が揺れていた。
 それでも、「大丈夫。やれる」と己に言い聞かせる。瞼を下ろして、呼吸を整える。再び目を開き――彼女は兄に、自分の答えを提示した。

「『レクシオがそれを望むなら』、私はその刃を受け入れましょう」

 馬鹿だと呆れられてもいい。
 考えなしだと罵られてもいい。
 これが、ほかの何者でもない、ステラ自身の答えだった。

 沈黙が返る。二人とも唖然として固まっていた。
 ややして、ラキアスが小さく吹き出す。
「なるほど。おまえらしい」
 喉を鳴らして笑う兄を見て、ステラは首をかしげた。どういう意味です、と彼女が問う前に、彼の目は彼女ではないところへ向いた。
「では、君はどうだい?」
「……そうですね」
 何かを探るような声がする。ステラは、勢いよくレクシオの方を振り返った。
 彼は一見、いつも通りだった。紅茶を一口飲んでから、静かに相手と向き合っている。
「俺も、父から話を聞いた後、色々考えました。結論としては、ステラとだいたい同じところに行きついたのかなと」
「というと?」
「ラキアスさん。最初に話をしたとき、あなたは俺を殺そうとしましたね。あのときは、正直、意味がわからなくて逃げましたけど――今ならあの剣に、正面から向き合える気がします」
「ほう」
 ラキアスの声が一段低くなる。ステラは、幼馴染の言葉を遅れて理解し、思わず立ち上がりかけた。彼女がそうする前に、レクシオの「答え」が凛と響く。
「俺を殺してあなた方の気が晴れるなら――そうすればいい」