第四章 生者の選択(3)

「俺を殺してあなた方の気が晴れるなら――そうすればいい。俺自身は、それを受け入れますよ」
 レクシオの静かな声が、冷たい部屋に染み渡る。
 音を言葉として理解できた瞬間、ステラの中に何かがこみ上げた。
「レク……!」
 反射的に声を上げ、しかしすぐに口をつぐんだ。レクシオの瞳が自分を見たことに、気づいたからだ。
 ここは任せてくださいよ、とでも言われた気がして、ステラはそろりと腰を下ろす。それでも、不安はぬぐいきれなかった。
 唇を軽く噛んだステラをよそに、レクシオは冷淡とすらいえる態度で再び口を開く。
「けど、もしあなたが俺を殺したら、今度こそ父は黙ってないと思いますよ。最悪、イルフォード家全部を潰しにかかるかもしれません。それに……」
 恐ろしい可能性を口にして、少年は肩をすくめた。かと思えば、ステラを悪戯っぽく一瞥する。
「ステラだって納得しないでしょう。今、ここにいるほかの学生たちもね。うぬぼれと思われるかもしれませんが、そう信じられるくらいの付き合いはしてきたつもりだ」
 誇るでもなく、照れるでもなく。淡々と語る幼馴染の横顔を見て、ステラは息を詰めた。こんなときだというのに、温かい感情が胸を突く。
 一方、それを受け止めるラキアスも静かだ。ひととき瞑目したかと思えば、ひたと少年を見すえる。
「脅しのつもりかな?」
「滅相もない。考えうる可能性を述べているだけです」
 レクシオは臆することなく、おどけたように言葉を返す。だが、彼の声はこわばっていた。繕われた音は次の瞬間、ほんの少しだけ本質をのぞかせる。
「俺だって嫌ですよ、こんな可能性の話をするの。だって、その先に待つのなんて、結局傷つけ合いの殺し合いじゃないですか。お互いの親がやってしまったことと同じ。正直、そんなのもううんざりです」
 音が繋がるごとに。言葉が重なるごとに。秘められていた傷が表れて、開かれて、存在と痛みを訴える。ぐっと目を細めたレクシオは、ラキアスの方に上半身を乗り出した。まるで、自ら首を差し出すように。
「ラキアスさん。あなたはどうなんです? ステラやリオンくんに、二度目を味わわせたいですか?」
 染み入るように問いは響く。ともすれば穏やかにすら聞こえた。だが、隠し切れない激情と哀切をはらんでいる。それは、ステラの胸を強く、強く締めつけた。
 ステラは眉を寄せて、少年と青年を観察する。
 ラキアスは、しばし黙して何も言わなかった。考え込んでいるようにも見える。だが、決してそうではないことを、ステラは察していた。
 彼がまとっている空気は、戦場に立つ武人のそれだ。沈黙の中で彼の手が俊敏に動く。ステラは、心臓が跳ねたように感じた。
 ステラは今度こそ立ち上がる。ほぼ同時、ラキアスが椅子を蹴って動いた。彼の手にきらめいた短剣が、細く空気を切り裂いて、レクシオの喉元に突きつけられる。
 そこで一度、すべてが止まった。
 レクシオは動かなかった。感触を感じられそうなほど近くに剣先があっても、凪いだ瞳を相手に向けている。
 ラキアスはラキアスで、短剣をぴたりと止めたまま、少年をにらんでいた。
 ステラは最初こそ唖然としていたが、すぐに思考が切り替わる。何かあったらすぐ動けるよう、二人の様子を注視した。その一方で、どちらに対して行動を起こすべきか、決めあぐねてもいた。
 やがて、大きなため息が凍てついた空気を揺らす。
「本当に、逃げないんだな」
 いくつもの感情が混ざり合い、ゆえに真情が読めない声。それは、ラキアスのものだった。
 問いのような、非難のようなものを向けられたレクシオは、いびつな微笑を浮かべる。
「言ったことは守りますよ」
 悪戯っぽい返答の下で、手が小刻みに震えている。それを見て取ったステラは、思わず兄をにらんだ。すぐに淡白な視線が返ってくる。
 ラキアスは、再び吐息をこぼすと、短剣を引いた。衣服の下、忍ばせていた鞘に武器を収めると、疲れたように座り直す。
「そうだな。俺も妹や弟にこれ以上辛い思いはしてほしくない。イルフォード家に再び災禍が降りかかれば、家人たちの苦労も増える。それも嫌だ」
「……兄上」
 遅れて座り直したステラは、慎重に兄を呼ぶ。彼はそれにほほ笑みで返した。
 彼が妹から視線を移したときには、やわらかな微笑は消えていた。代わりに浮かぶのは、仮面のごとき無表情。しかしそこには、冷たいほどの威厳が同居していた。
「わかったよ。今回はここまでにしておこう。だが、レクシオくん。俺は君たちを許してはいないよ」
「ええ」
 レクシオは、噛みしめるように相槌を打つ。それから、目を細めた。
「許さなくていいですよ。憎んでくれていいんです。いろんな人に守られて、いろんなものを犠牲にして生きている自覚はありますから」
 ラキアスは虚を突かれたように目を丸くする。わずかな空白の後、彼は声を立てて笑った。
「なるほど。まったく、大物だな」
 首をかしげているレクシオを見て、彼はまた少し笑声を立てる。
 こみ上げてしかたがないらしいそれを収めたのち、青年はふっと真剣な顔をした。居住まいを正して、レクシオに向き合う。
「レクシオくん」
「えっと……はい」
「君たちを許してはいない。が、昨日の件は謝罪するよ。説明もせず、事情も聞かずに斬りかかってしまって、申し訳なかった」
 厳かに言ったラキアスは、その場で深く頭を下げる。そうされた側のレクシオは、口と目をいっぱいに開いて固まった。彼だけでなく、やり取りを見守っていたステラでさえも、唖然とした。兄が身内以外の者に対して、心の底から謝罪の意を示したのを見るのは、これが初めてだった。
「え? いや、えっと……とりあえず無事だったんでいいっていうか……俺はもうそんなに気にしてないんで……頭上げてください」
 レクシオはうろたえて、両手をわたわたと振っている。その言葉に応じてラキアスが頭を上げた後も、うろうろと目を泳がせていた。が、何かを思いつくと、視線をラキアスに定める。
「あー、っと、そうだ。あのおっかない剣、今度は父に向けてください!」
 声と表情に、妙な力がこもっていた。イルフォード兄妹は、揃ってぽかんと口を開ける。生ぬるい沈黙の果てで、妹は肩を落とし、兄は爽やかに笑った。
「そうだね。そうするよ」
 清々しげな兄に、レクシオは乾いた笑いを向けている。
 今頃ヴィントがくしゃみをしていそうだ、と、ステラは思った。

 その後、談笑らしいことはできなかった。できる空気ではなかったのだ。元々の用事は済んだのだから、と、紅茶だけ頂いて、二人はラキアスの部屋を辞した。
 どちらも、しばし無言で歩く。足音だけが、広々とした廊下に反響する。
 そのうち、階段が見えてきた。ラキアスの部屋からはかなり離れたはずだ。ひと気のない、その場所で――
「…………はああああ」
 ステラとレクシオは、同時にへたり込んだ。
 鼓動が速い。冷たい汗がそこかしこから吹き出している。ずっと震えていた手足が脱力したせいか、上手く力が入らなかった。ステラはがくりとうなだれる。おそらく、レクシオも似たような状況だろう。
 ほどなくして、くぐもった声がした。
「死ぬかと思った……」
「いや本当、死ぬ気かと思った」
「あれくらいしなきゃだめでしょ、あの兄さんは」
 ステラはやっと顔を上げ、うつむいているレクシオの頭をわしづかみにした。そのままぐりぐり左右に動かしていると、よくわからないうめき声が聞こえてくる。
 ステラは手を止めず、横目で幼馴染をにらみつけた。
「兄上が本気で殺しに来たらどうするつもりだったのよ、この馬鹿」
「ええー……」
 またも気の抜けた返答がある。ステラはさすがに、レクシオの頭を解放した。彼はしばらくゆらゆらしていたが、やがては視界が落ち着いたのか顔を上げる。
「その点はあまり考えていなかった」
「おい」
 ステラは思わず語気を荒げた。しかし、レクシオは一切動じず、どこか楽しげに目を細める。
「だって、そうなったらステラが止めてくれただろ?」
 ステラは絶句した。口を半開きにしたまま、少年を見つめる。顔が赤くなっている自覚はなかった。
 驚きと呆れが過ぎ去った後に、怒りに似た熱がこみ上げる。ステラは荒々しく鼻を鳴らすと、思いっきりレクシオの脇腹を小突いた。
「ばか! おばか! ばかちん!」
「ちょ、ま……そこ、昨日蹴られた、とこに、響く」
「知るか。響け。いっそ痛い思いしろ」
「ステラさん落ち着いたいいたい」
 ――結局、ステラはレクシオが降参と謝罪の声を上げるまで、彼の脇腹を小突きつづけた。
 さらにその後、事態を知った侍医に「怪我人に乱暴するんじゃありません」と叱られた。