終章 選定の予兆

 ヴィントはひとり歩いていた。
 その道の幅は狭く、顔を上げても細長く切り取られた白い空しか映らない。けれども窮屈さをさほど感じないのは、道にひとつもごみがなく、清潔に保たれているからだろうか。
 淡々と足を進める。途中、頭上に光が降ってきたように感じて、ヴィントは歩みを止めた。顔を上げる。店の入口に取り付けられた灯りが、煌々と黄色い光を放っていた。
 ヴィントはまぶしさに目を細め、視線を逸らす。そして――虚空に向かって声を投げかけた。
「何か用か」
 彼の声だけが道に響く。返ったのは沈黙だった。それでもヴィントが動かずにいると、やがて背後に人の気配が表れた。いや、ごくごく薄かった気配が濃くなった、と言うべきか。
「ヴィント・エルデだな」
 知らない声が彼の名を呼ぶ。その色合いからして、ヴィントよりは年下の男だろう。そして、問いにまとわりついた鋭さから、ヴィントは相手の素性を看破した。
「軍人か。俺を捕らえにきたのか」
 口を動かしながら、身構える。頭の中でいくつかの構成式を思い描いた。
 しかし、それらが活かされることはなかった。
「いいや。それは今の私の仕事ではない」
 相手の答えは、予想の斜め上を行っていた。ヴィントは顔をしかめる。
「ならば、何の用だ」
 結局、最前の問いを繰り返す。軍人は沈思黙考ののちに、言った。
「女神ラフィアにまつわる、秘された神話」
 ヴィントの眉が跳ねる。彼にとって、それは決して無視できる言葉ではなかった。
「あなたはそれについて、何かご存知なのだろう」
「……わからんな。なぜ、軍人などが古い神話を探っている?」
 ごまかさなかったのは、そうしても無駄だと判断したからだ。
 軍人は揺るがない。気配も、声色も。
「あるお方の密命だ。あなたと接触して、情報を引き出すこともな」
「軍人にほいほい情報を渡すと思うか、俺が」
 視線だけ動かして、背後をねめつける。厚手の上着でも着ているのか、軍人の体格や顔はよくわからない。それでも、思ったより細身でそれなりに背の高い男であることはうかがえた。
「何かしらの情報をいただけるのなら、あなたの罪を軽減することも考えよう」
「司法取引のつもりか。そんな権限がおまえにあるのか?」
「私にはない。だが、あのお方になら可能だろうな」
 おどけたように、相手の音が揺らぐ。だが、それはあくまで取り繕ったものだろう。ヴィントは、小さく鼻を鳴らした。
「断る。軍人や王侯貴族の施しを受ける気はないし、その権利も俺にはない」
 相手がわずかに動いた。驚きか、動揺か、そんな気配が伝わってくる。何かをされる前に、と、ヴィントは次の言葉を舌に乗せた。
「それに。女神の情報を得たいなら、俺などを頼るよりよほどいい方法があるぞ」
 人差し指を立て、腕を上げ、彼は無彩色の空を指さした。
「『銀の翼』――女神の代行者が、今、この街にいる」
 勝手にばらすな、と怒られるだろうか。そんなことをヴィントは思う。だが、それでも構わなかった。
『彼女たち』には、この軍人のような味方が必要だろう。

 街の西側、人が避けて通るほどの薄暗い小路の中に、無機質な建物がある。かつて鉄製品の保管所・流通拠点として使われていたそこは、今や無人の廃墟となり果てていた。
 そのはずの場所に響く音が、二つ。鼻歌と、足音。それは、途切れがちに、しかし絶えることなく聞こえていた。がらんどうの屋内に反響する旋律はなんとも不気味であったが、幸か不幸か、聞いている人はいない。
 明るい歌を奏でていた足音の主は、部屋の端に辿り着くと、軽やかに一回転して歌を止める。放置されたままの金属の箱に、音もなく腰かけた。
 そのまま瞑目した彼は、しばし無言で座していた。空白の時が過ぎ去ると、目を開けて、口を三日月形に吊り上げる。
「かしこまりました。手の空いている者を招集して、事に当たります」
 虚空を見つめて、ささやく。誰もいないはずの空間に一礼すると、彼はなめらかに足を組んだ。
 上機嫌な笑声をこぼして、指を鳴らす。
「さあさあ、お仕事ですよ、我が同胞。こちらへ来られる者はいますか? まあ、いてくれないと困るのですけどね」
 三十秒ほどの沈黙。ほんの一瞬、眉を寄せた彼は、すぐに表情をやわらげて「よろしい」と呟いた。
「気を引き締めて来てくださいね。敬愛すべき主――セルフィラ様からの勅命です」
 高く、美しい声が謳う。
 この上なく優美に、無邪気に、残酷に。
「いよいよ次なる『選定』が行われる。我々はそれに立ち会います。新たな『金の翼』を手厚く歓迎して差し上げましょう」
 彼は恍惚として告げ、哄笑する。赤黒い熱をはらんだ音は、暗灰色の闇が広がる空間に、長いこと響き渡った。

(Ⅳ 白雪の約束・終)