序章 人と神の対峙

 夜に沈んだ森の上を、鳥の影が通り過ぎた。ギャアッという力強い鳴き声の余韻が、静寂の中に残る。
 その音を拾った彼は、ほとんど反射で顔を上げた。鳥の影はもうない。あるのは、黒々とした木々と、その隙間から見える紺碧の空だけ。細長い空に雲はかかっていない。そのはずなのに、星のひとつも見えなかった。自分がどこに立っているのか、もはやわからない。そのことが、彼の不安を増幅させた。
 ゆらり。空気が動く。彼は出かかった悲鳴をすんでのところでこらえ、代わりに走り出した。もう、すでに、これ以上走るだけの体力は残されていない。恐怖心と本能に背中を押されているようなものだった。
 顔だけで背後を振り返る。闇に沈んだ森の小径に、動物の気配はない。なんの影もない。
 だが、まだ『いる』。確かに『いる』のだ。彼はそれを、動物とは別の気配と、時折聞こえる笑い声で確信していた。
 走る。感覚のない足を動かして、ひりひり痛む肺を酷使して。
 確かに走っているのに、ちっとも前に進んだ感覚がない。
 空気が、笑いさざめく。
『あらあら、頑張るのね。人間のくせに』
 聞こえてくるのは女の声。少し前に聞いたものと、全く同じだ。
『でも、そろそろあきらめた方が身のためよ? 息が上がっているし、体の軸も定まっていない』
 色香にくるまれた嘲笑を、彼は無視し続けている。反応して立ち止まったらその瞬間、よくないことが起きる気がしたからだ。
 だが、今回は立ち止まらざるを得なくなった。突然、前から生ぬるい突風が吹いてきたのだ。風に押し戻される格好で、彼はよろめいて後ずさる。この時点で転ばなかった自分を褒めてやりたかった。
 ささやかな正の感情は、顔を上げた瞬間に消え去った。いつの間にか、前に人がいた。長い黒髪、夜陰にまぎれる色の衣をまとった、女性。顔はよく見えないが、どことなく妖しい雰囲気をかもし出している。そして、それ以上に――今まで感じたことのない威圧感を、彼は覚えていた。
 先ほどから聞こえていた声の主だ、と根拠もなく直感する。それと同時に、女性が口を開いた。
「白状なさい。あなた、『あれ』を見たんでしょう」
 静かな声と気迫に圧され、彼はとうとう尻餅をつく。だが、こちらに向く視線の鋭さはちっとも変わらない。
「見たんでしょう?」
「あ……な、なんの……こと、ですか」
 ようやっと、それだけの言葉をしぼり出しながら、彼は一生懸命頭を回転させていた。
 こんな意味のわからない存在に追われるようなことは、した覚えがない。だが、彼女の言う『あれ』にはわずかながら心当たりがある。彼が配属されている教会の資料室、今はほとんど開かれない棚の中から出てきた、妙なもの――
 めまぐるしい思考は、ささやきのような吐息にかき消される。我に返った彼は目をみはった。刹那、周囲の風景が大きく上にぶれる。次いで、喉がきつく絞まるのを感じた。
 風景が動いたのではなく、自分が浮かされたのだ。彼がそのことに気づいたのは、自分の方に伸びる白い腕を見たときだった。
「かっ……あ……」
 渇いた空気が吐き出される。視界がゆがんで、にじんだ。
「『あれ』の内容を教えなさい。そうすれば、見逃してあげてもよくってよ」
 甘く、おぞましい声が語りかけてくる。彼はそれに答えなかった。いや、答えようがなかった。首を絞めてくる手を外そうと、必死にもがく。しかし、細い腕はびくともしなかった。それどころか、ますます力を込めてくる。
 口だけが上下する。もがく力もそのうち失って、思考がまとまらなくなってきた。暗くなる視界の中で、彼は茫洋と死が近づくのを感じた。
 途切れかけた意識の端で、誰かの魔力を感じたのは、そのときだ。
 何かが音もなく飛来する。ヒトの皮膚を焼くほどの熱を持ったそれは、女性の体を大きく揺らしたようだった。彼女が鋭く舌打ちをして、飛びのく。同時に、白い手はヒトの首から離れる。
 地面に投げ出された彼は、その場で激しく咳き込んだ。体は勝手に空気を取り込もうとするが、そのたびに気管と肺が痛みを訴えて上手くいかない。代わりに腹の方から何かがせりあがってきて、涙がにじんだ。
「……何者?」
「神官を絞め殺そうとするとは、罰当たりな奴もいたものだな」
 女性の問いに、聞いたことのない低音が答える。直後、彼の前に人が立った。またも闇のせいで姿かたちはわからない。それでも、旅衣をまとった背の高い人だということは知れた。そして、声から考えるに、男性だ。
 彼は涙目をその背に向ける。顔もわからぬ男性は、ただ、恐ろしい女性の方だけを見ていた。
「あら、誰かと思えば。こんなところへ何をしに来たのかしら、哀れな哀れな放浪者」
「俺たちのことを知っているのか」
「多少はね。でも、意外だわ。まだ逆らおうとする者が残っているなんて。抵抗する気も起きないくらい徹底的にやって、ってお願いしたはずなのだけれど」
「……何?」
 それまで平坦だった男性の声色が、一段低くなる。
 二人の間で交わされる言葉の意味が、彼にはよくわからない。それでも、この雰囲気と状況がよくないことだけはわかった。さりとて、彼に事態をどうこうするだけの力はない。それどころか、草と土の上にうずくまっていることしかできなかった。
 男性のまわりの空気が、少し冷えた気がする。彼の周囲で魔力が流動し、熱く、冷たく、渦を巻いた。
「貴様、何を知っている」
 男性の問いに、彼の方が息をのむ。対して女性は軽やかに笑ったようだった。
「多少は知っていると言ったでしょう、『デルタ一族』。まあ、今や枯れ葉同然のあなた方に教えて差し上げる気もないけれど」
 笑い声が響くと同時に、世界が揺れる。彼は、反射的に己の体を抱いた。
 突風が吹きつける。草葉を揺らし、枝をしならせ、石と砂を巻き込んだ風は、強烈に彼と男性の方へ吹きつけた。彼は思わず目を閉じる。しかし、その衝撃は思ったほど長く続かなかった。彼は恐る恐る瞼を持ち上げ――そして瞠目した。
 いつの間にか、自分たちを金色の膜が覆っている。防壁魔導術、魔導術の中でも初歩的な術だ。もちろん彼も知っているし、同じ術を使える。だが、ここまでまばゆく強固な防壁を見たのは、これが初めてだった。
 目の前の男性がやったのだと、確信した。彼がその立ち姿に言葉を失っている間に、女性の声が響く。
「まさか防がれるとはね。これだから『魔導の一族』は……」
 忌々しげなその声が急に途切れた。かと思えば、ややしてため息が聞こえる。
「……そうね。増援を呼ばれても面倒だし、『あれ』を探るのはいつでもできるわ」
 その独白は、まるで誰かに話しかけているようだった。彼が違和感に眉を寄せると同時、男性も身構える。だが、彼が動くより前に、女性の姿が忽然と消えた。それは、彼がいるところからでも見えた。
 何の前触れもない消失、あるいは転移か。どちらにしろ人間業ではない。同じことを思ったのか、唖然としている彼の前で、男性も舌打ちをこぼした。
「なんだあれは。妖魔のたぐいか?」
 誰に問うでもなく呟いた男性は、それから身をひるがえす。初めてこちらを見た、それに気づいた彼は、息をのむ。
 やはり、顔の細かいところまでは見えない。それでも、不機嫌そうにしていることと、瞳の色が緑だということは知れた。
「動けるか」
 衣の下から平板な声が漏れる。それが問いだということに気づいた彼は、慌てて答えようとした。だが、背筋を伸ばした拍子に視界がぶれる。それと同時に、にぶい頭痛と気分の悪さが襲いかかってきた。
 何が起きたかわからぬまま、体が前に倒れる。地面に激突する寸前、彼の意識は本当の暗闇に落ちた。

 いきなり倒れた神官を、ヴィントはしばし無言で見下ろした。何度か視線をさ迷わせたのち、彼の前にかがみこむ。その様子を見て、どうやら気絶したらしい、と判定した。
 あの女から逃げ回った先で絞殺されかけた、というところだろうか。だとすれば、気絶してしまうのも無理はない。むしろ、先ほどまで正気を保っていたことの方が驚きだ。
 ヴィントは短くため息をついて、神官の体を抱え上げた。彼がどこの教会・聖堂の所属なのかわからないので、どこに送っていいかもわからない。だが、一応あてはある。この森に入る前、ヴィントは小さな教会の前を通り過ぎていたのだった。
 とりあえずそこへ預けよう、と決めて、ヴィントは来た道を戻っていく。
 森は広い。重い荷物を抱えた人間が徒歩で戻るには、かなりの時間を要した。休憩を挟み、神官の様子を見つつ歩いていく。そうして教会の影を見つけた頃には、空の端が白み始めていた。
 下の方からかすかなうめき声が聞こえる。ヴィントは、足を止めて視線を腕の方に注いだ。気を失っていた神官が、小さく身じろぎをする。
「起きたか」
 一言呼びかけると、神官はぎょっとした様子でこちらを見る。当然の驚愕と警戒は、けれどすぐに過ぎ去って、困惑の表情に取って代わった。
「あ、あの、これは一体」
「あの場に放置しておくわけにもいかんからな。とりあえずおまえを抱えて来た道を戻った」
「そ、そうだったんですね……ありがとうございます」
 神官は律儀に礼を言った後、わずかに眉をひそめた。急に動いたのが堪えたのだろう。
「無理はするな」
 神官から視線を逸らしたヴィントは、それだけを返す。少なくとも彼より若い神官は、素直に「はい」と言うと、大人しくなった。
 ――聞くところによると、ヴィントが目指していた教会は彼の赴任先だったらしい。
 ヴィントはためらいながらも教会の敷地に足を踏み入れた。さすがに抱えたままでは誤解をされかねないので、教会の前で神官を下ろす。それから、軽く扉を叩いた。
 ややあって、重厚な扉が開く。その先には老齢の司祭が立っていた。背が低く、顔は丸っこく、蓄えられた髭と太い眉は真っ白だ。そのような容姿のせいで、ヴィントはいつぞや見た老爺の人形を連想してしまう。
 司祭の驚いた顔を見たヴィントは、失礼な思考を打ち消して、会釈した。居心地の悪さを感じつつも、自分が知る限りの事情を説明する。幸い、真面目そうな神官が、斜め後ろから補足を入れてくれた。
 最初は戸惑っていた司祭だが、事の次第を知ると今度は顔を青ざめさせた。同時に、安堵した様子で息を吐く。「勝手な行動をして申し訳ありません」と平謝りする神官をなだめ、とにかく休むように、と彼を促した。
 神官を中に入れた後、司祭はヴィントを見上げてくる。
「大変お世話になりました、旅の方。お礼にもなりませぬが、食事をお出しします」
 ヴィントは動きを止める。長らく思考したのち、軽くかぶりを振った。
「……いや、結構。元々ラフェイリアス教の信者でないせいか、教会は落ち着かないので」
 司祭は心底残念そうに「そうなのですか」と言ったが、無理に引き留めようとはしなかった。そのことに安堵して、ヴィントは言葉を付け足す。
「お気持ちは受け取っておく……ありがとう」
「いえいえ、礼を言うのはこちらの方です。あなたの旅の無事をお祈りしております」
 胸に手を当て、頭を下げた司祭に、ヴィントも一礼して背を向けた。逃げるようにして教会の敷地から立ち去る。その間、扉が閉まる音は聞こえなかった。

 ヴィントは、歩きながら昨夜のことに思いをはせる。
 明らかに異質な気配をまとった女。神官の首を絞める腕の力、その後振るった能力、一切の痕跡を残さず消えたこと。どれをとっても人間離れしすぎていた。
 そして、彼女がヴィントに向けて放った言葉。
『抵抗する気も起きないくらい徹底的にやって、ってお願いしたはずなのだけれど』
 忌々しい声が耳の奥によみがえる。一度瞑目したヴィントは、それから、行く先に伸びる道をにらんだ。
「調べてみるか」
 ただ自分のためだけに呟いて。ヴィントは一人の旅路を歩き続ける。
 その先で辿り着く真実のことも、自分が神々と対峙することも、このときの彼はひとつとして、知らなかった。