第一章 大祭の前(1)

 帝国北端の都市、シュトラーゼ。冬が長い上に、その期間の大半雪に覆われているこの街は、ほの暗くも穏やかな静寂に包まれている。これが不思議で、どれほど人が多かろうと、慌ただしい時間であろうと、街の通りはひっそりとしている。外からシュトラーゼへ訪れた者の多くが、大通りですら物音がほとんどしない、と錯覚するほどだった。
 そんなシュトラーゼだが、年に数回、不似合いなにぎやかさに包まれる時がある。年末年始と夏至祭、そして冬の大祭の期間だ。

「これ、ここでいいっすかー?」
 朗らかというには棘のある、けれど明るい声が冬の街にこだました。
「そうそう、そこでお願いしますわあ」
「はいよー」
 少年の問いに応じたのは、少し離れたところにいる中年ほどの男性である。恰幅がよい彼は、自分の店の前の雪をスコップでせっせと掻いていた。店の前の石畳があらわになる代わりに、その横手に塀のごとく雪が積み上がっていく。
 白い山が標高を上げていくのを横目に見ながら、少年――トニーは旗を少し持ち上げた。彼がよろめいた拍子に、横から手が伸びて、彼と旗を支える。
「おお、すまんね、レク」
「いいって。それよりさっさと済ませよう。ここが最後だろ?」
「おうよ」
 猫目を向けられたレクシオ・エルデは、悪戯っぽくほほ笑んだ。
 それから、二人で声を掛け合って、旗を所定の位置に立てる。それが安定していることを確かめると、少年たちは一息ついた。
 額をぬぐい、帽子をかぶり直したトニーは、隣の店へ目を向ける。先の男性がこちらへ歩いてきていた。どうやら、あちらの雪かきも一段落したらしい。
「いやあ、ありがとうございます、お坊ちゃん方。わざわざお越しいただいただけでも十分なのに、準備まで手伝っていただいちまって」
「気にしないでくださいよ。俺らも、好きでやってることなんで」
 頭をかいた男性に向かって、トニーはいつもの笑顔を向けた。人懐こそうでありながら、少しだけ悪童のような色合いが混ざった笑み。それを見て、男性は何度かまばたきをしたが、すぐに愛想を取り戻した。
「お坊ちゃん方は、確か帝都の学生さんですよね? なんでまた、わざわざシュトラーゼに?」
「あー……まあ、一番の理由はステラの付き添いで」
「なるほど、お嬢様の」
 男は、大きな手のひらを同じく大きな拳で打つ。トニーとレクシオは、顔を見合わせて苦笑した。ステラ・イルフォードの名を出すだけで納得されるのだから、つくづくイルフォード家は偉大だ。
「でも、それだけじゃないんですよ? 年に一度お披露目される女神像を見たいと思って」
「女神像? 課外活動か何かで?」
「まあ、そんなとこ。女神像のまわりで不思議な現象が起きるっていうじゃないですか。あれを調べにきたんです。おじさん、何か知らないですか?」
 トニーがさりげなく問いを向ける。男性は首をかしげ、しばらく考え込んだ。それから、頬をかく。
「いやあ、毎年ちらほら目撃情報は聞きますが、詳しいことはわかりませんわ」
「そうですか。ありがとうございます」
 少し恐縮した男性に人懐っこい笑みを浮かべた少年は、楽しげにあたりを見回す。先の問いなどなかったかのようだ。二人のやり取りを外側から見守っていたレクシオは、ひとり苦笑した。

 男性と別れた少年二人は、並んでシュトラーゼの通りを歩く。ほかの仕事を探すためだった。
 二人がいるのは街の中心から少し離れた区画だが、街の様相自体は中心部と大差ない。不規則な石畳の上に、急勾配の屋根を持つ家々が立ち並ぶ。そのほとんどが今は真っ白な雪で覆われているが、通りの真ん中に走っている灰色の轍が住民たちの努力をうかがわせた。
 いつもならこの通りも、奇妙な静けさに包まれているのだろう。しかし、冬の大祭を控えた今は人で埋め尽くされ、にぎやかな声が飛び交っていた。ところどころで揺れる旗と造花の飾りが、無彩色な街にひとしずくの色を添えている。
 歩いている途中、トニーがふと足を止めた。レクシオもそれに倣う。聞き覚えのある声を拾った二人は、そちらに視線を向けた。細い路地の前、黒い長髪の陽気な少年がスコップでせっせと雪を掻いている。時折、一緒に作業をしている人々に明るい声をかけていた。
 レクシオとトニーは、顔を見合わせて苦笑する。我らが団長ジャック・レフェーブルはどこで何をしていても団長だ。端正な顔立ちながら、厚手のコートと長靴が妙に似合っている。
 気づかれないことを承知の上で、トニーがジャックに向かって手を振った。そして仕事探しを再開しようとしたとき、慌ただしい足音と別の声がこちらに近づいてくる。これもまた、なじみ深い声だった。
「あ、レク! トニーも! お疲れ様」
「おっ、ステラ」
 帽子をかぶり直したトニーが振り返る。
 噂をすればなんとやら。先ほど名前が出た少女――ステラ・イルフォードが小走りでやってきた。右耳の上で束ねられた栗毛が、弾むように揺れる。
 彼女が足を止めたとき、レクシオが少し姿勢を崩して首をかしげた。
「おまえ、どうしたんだ? 兄貴の仕事を手伝ってたんじゃないのか?」
「その兄上が、準備の様子を見に行くって仰るから。あたしもついていくついでに、みんなに話を聞きにきたんだ。どう? 順調?」
 少女は身を乗り出し、レクシオたちに問うてくる。少年たちは視線を一瞬交わした。その言葉にいくつかの意味が含まれていることに気づいて、少し考える。最初に口を開いたのは、トニーだった。
「お手伝いの方は割と順調だよ~。さっきまでは旗立てるの手伝ってた。いや、こういうのって学院祭フェスティバルを思い出して楽しいもんだね」
 幼い少年のように歯を見せて笑ったトニーは、その表情のまま「ただ」と続ける。
「女神像の方の収穫は、いまいちだな。噂では聞いたことあるけど、直接見たことはない……って人ばっかりだ」
「うーん。そっか。でも、それはそれで妙な話ね」
 帽子の端をつまんだ少年を見て、ステラが軽く眉を寄せる。隣で話を聞いていたレクシオが、思案顔になった。形のよい顎に指を引っかける。
「本当にな。はるばる帝都にまで話が届くくらいだ。もう少し目撃者がいてもよさそうなもんだけど」
「俺たちが出会ってないだけかもよ?」
「……ま、それもそうだな。あとでほかの面子に話を聞いてみるか」
 ため息まじりなレクシオの言葉に、ステラが数度うなずいた。
 彼らが言葉を交わしている間にも、周囲では人々が忙しなく行き交っている。長々と立ち話をするのも迷惑だろう。『がたい』のいい男性が木材を担いでトニーの隣を走り抜けていったあたりでそう判断し、少年たちと少女は別れることにした。来たとき同様軽やかに走り去っていくステラを見送って、レクシオとトニーは仕事探しを再開した。

 仲間たちの元を一巡したステラは、来た道を戻るようにして街を駆けていた。足取りは軽やかで、息も上がっていない。
 別れる前の兄の言葉を思い出しながら、ステラは人々の間を縫って進む。そうしてたどり着いたのは街の西側、目抜き通りに接する路地の、集合住宅の前だった。普段から、軒先に鮮やかな緑色の旗を掲げているここは、目印に最適だ。
 ステラの予想通り、兄ラキアスはそこにいた。背の高い金髪の男性と、何やら話し込んでいる。男性は確か、集合住宅の管理人だったはずだ。
 ラキアスと管理人の話が一段落したときを見計らい、ステラは声を上げた。
「兄上、お待たせしました」
「やあ、ステラ。お疲れ様」
 ラキアス・イルフォードは振り向くと、短い栗毛の下の両目を柔らかく細める。
 この応対の早さを見るに、自分が兄を見つけた時点で、彼も彼女に気づいていたのだろう。ステラは思ったが、口には出さなかった。住宅の中に入っていく管理人に手を振る兄を、苦笑して見やる。
「ご友人の方はどうだった?」
「順調そうでした。……というより、すっかり馴染んでいましたよ」
 穏やかに向けられた問いに、ステラは笑って答える。ここへ来るまでに見た学友たちの姿を思い浮かべていると、ラキアスもまた朗らかに微笑した。
「聡明で元気のいい方たちばかりだものな。助かるよ」
 どこまでも優しい言葉と瞳に、偽りや世辞の気配はない。ステラはそのことに安堵して、うなずいた。
 冬の大祭はシュトラーゼで最も盛大な行事だ。ステラがこの街にいた頃から、大祭の時期が近づくと大人たちが慌ただしくなっていたのを覚えている。その苦労を今は、ラキアスや今の大人たちが背負っているのだろう。少しでもその助けになっているのなら、自分が学友を引き連れて押しかけた甲斐もあったかもしれない。ステラはそう、己に言い聞かせた。
「さて」
 ラキアスが、軽く手を叩く。その音と声で我に返ったステラは、改めて兄の方を見た。彼は笑みを深めると、頭を少し傾ける。
「俺の方もだいたい見回った。大きな問題もなさそうだったから、一度屋敷に戻ろうか」
「わかりました」
 ステラが迷いなく応じると、ラキアスは顎を小さく動かして、集合住宅に背を向ける。目抜き通りの方へ歩みを進める兄を、妹は軽快に追いかけた。
 街は、いつもよりもにぎやかだ。頑固な雪を踏みしめ、あるいは豪快に掻いて、人々が行き交っている。旅行者らしき大きな鞄を持った人も見かけるが、大半は祭りの準備に追われているシュトラーゼの住人だ。
 彼らはイルフォード兄妹の姿を見つけると、少しの間こうべを垂れる。それから朗らかにほほ笑んで、手を振ってくれるのだ。中には、声を張って話しかけてくる人もいた。
「これはラキアス様。うちの区画の準備は順調ですよ。どーんと、任せてください」
「ステラ様もご一緒ですか。わざわざお手伝いに来てくださったのですね」
「若様に加えてお嬢様まで来てくださったとなっちゃあ、がぜん気合が入りますな!」
「ステラ様、学院での生活はいかがですか? よろしければ、またお話を聞かせてください」
 ……自分に向けられる声が案外多いことが、ステラとしては気になるところである。
 喧騒の間を抜け、イルフォードの屋敷を遠目に捉えたとき。ステラは思わず、息を吐いていた。直後、兄のいぶかるような視線に気づいて、形ばかりの笑みを浮かべる。
「すみません。皆さんが意外と友好的なので、少し驚いたというか、緊張したというか……」
「なんだ。失望されたとでも思っていたのかい?」
 ラキアスが目を見開いて問うてくる。そんなことを気にしていたのか、と彼の瞳が語っていた。ステラが曖昧にうなずくと、兄は軽い笑声を立てる。
「ご令嬢の家出を気にしてたのなんて、うちの大人と一部の貴族の老人くらいなものさ。住民たちはどちらかというと、おまえの身心を心配していたし、クレメンツ帝国学院に入ったと知ったら『それなら安心だ』と喜んでいたよ」
 想像もしていなかった話を聞いて、ステラは息をのむ。胸を突かれたような気がした。
 思えば、自分がいなくなってからの街の状況や民の心情を、これまで全く知らなかった。知ろうともしなかった。自分のことを見ていたのは、家の人たちばかりではなかったというのに。
 自分はなんて浅はかで、幼稚だったのだろう――先刻すれ違った人々の笑顔を思い出し、ステラは軽く唇を噛む。
 しかし、浮かんだ感傷は、兄の続く言葉によって吹き飛ばされた。
「ついでに言うと、『ついに女性領主誕生か』なんて噂も広がった」
「え、ええ……」
「まあ、あれはさすがに先走りすぎだと、俺も思う」
 そう言うラキアスはだが、妙に楽しげだ。ステラは思わず頬を引きつらせたが、ふとラキアスが真顔になったのを見て、表情を改める。
「実際のところ、ステラはどう思っているんだい?」
「どう……何が、ですか?」
「うちの跡を継ぐことについて」
 真剣に問われて、ステラは言葉に詰まった。
 今まであえて考えないようにしていた問題が、頭の中を一気に埋め尽くす。それに吞まれそうになる己を感じながら、ステラはかぶりを振った。
「……まだ、よくわかりません。それに……当主になってやっていける自信もないです。その、勉強もあまり得意ではないですし、政治的な駆け引きのこともわからないですし」
 少女がしぼり出した言葉を聞き、ラキアスは考え込むそぶりを見せる。
「まあ、確かに。交渉事は苦手そうだよな」
「大の苦手ですね」
 ステラが言い切ると、兄は乾いた笑いをこぼす。そうか、とおかしそうに言った彼は、目を細めた。それまでの微笑とは少し違う、ほんのりとした哀切を帯びた目つきだった。
「俺個人としては、ステラが跡を継いでくれると嬉しいな。もちろん、ほかにやりたいことがあるというのなら、強制しないけれどね」
 ステラは一瞬眉をひそめる。兄の言うやりたいことはすぐに思い浮かんだが、同時に例えようのない苦味と渋みもこみ上げてきた。
「宮廷騎士団に入りたい、とは思っています」
「おや、そうなのか。それなら当主の座を継ぐことも可能だね」
「そうですね。父上もそうだったわけですし」
 イルフォード家当主が軍務につくことは、なんら不自然なことではない。ラキアスの言うように、兼務することはもちろんできる。
 そんな未来もきっと悪くはない、とステラは思った。だが、ぬぐい切れない違和感と不快感も胸にこびりついている。
 自分が父と同じようになる――果たして、本当にそれでいいのだろうか。
 一度浮かんだ疑問は、頭から離れない。ステラのしかめっ面からそのあたりの葛藤を読み取ったのか、ラキアスは少し相好を崩した。いつの間にか張り詰めていた空気が弛緩する。
「まあ、ゆっくり考えればいい。後継問題にあまり猶予がないのは確かだけど、実際に次期当主を決めるのはステラが学院を卒業する頃だろうからね」
「……そうします」
 ステラの返答が消え切る前に、ラキアスは歩調を速めた。話はこれで終わり、と言わんばかりだ。大きな背中を慌てて追いかけながら、ステラはもう一つの疑問を考える。
 ――兄はなぜ、ここまで自分を推すのだろう、と。