第三章 冬の大祭(1)

 シュトラーゼの民が本格的に動き出す頃、ようやく東の端から太陽が姿を見せる。しかし、今日の陽光は殊に淡く、空には雲が多い。その色合いを見上げた誰かが、今日も雪が降るかもしれないな、とささやいた。
 そんな空に音が響く。時を告げる鐘とは違う、まるで音楽のような音色。それは、この街で大きな行事が行われることを示していた。
 冬の大祭、当日である。

「話には聞いていたが……想像以上に静かな街だな」
 宿の窓から外を見ていたアーサーは、ぽつりと呟いた。
 かたわらに控えている男が、穏やかにほほ笑んだ。色白の目もとにしわが寄る。
「これでも今日はにぎやかな方、だそうです」
「……奇妙な街だな。呑まれそうだ」
 従者を見やったアーサーは、目をすがめる。言葉の後半はささやきだったので、従者の耳にすら届かなかった。
 息を吐く。それだけで、顔のまわりがほんのりと温かい。
 今年の冬は寒さが厳しく、帝都でも頻繁に雪がちらつくほどだ。けれど、真っ白い塊がそこかしこに積み上がったシュトラーゼの街路を見ていると、帝都の寒さが生ぬるく感じる。
 アーサーがたわいもないことを考えているうち、周囲がやや慌ただしくなった。視界の端に軍服の群れを見つけ、彼は表情をひっこめた。
 軍人たちはさりげなく周辺を固める。そして、アーサーたちの前に一人の若者が現れた。短い栗色の髪。凛々しい相貌。それは彼にとって覚えのあるものだが、目の前にいる若者は彼の知る男ではない。
 亡きディオルグ・イルフォードの長男ラキアス・イルフォードは、二人の前で見事な敬礼をしてくれた。軍隊特有の角ばった声音で名を告げた彼は、そのまま続ける。
「ようこそおいで下さいました、アーサー殿下。当日の護衛は我々が務めさせていただきます」
「うむ。よろしく頼む、ラキアス殿。貴殿がそばについてくれるのならば安心だ」
 アーサーも、彼に倣って応じる。
「もったいなきお言葉」とラキアスはほほ笑んだ。彼自身がどう取っているかはわからないが、アーサーの言葉は世辞ではない。
 ラキアス・イルフォード。『北極星の一門』と謳われるイルフォード家の長男にして、最有力の後継者候補。剣の実力は父に勝るとも劣らない、政務や書類仕事の能力に関しては父をも上回るといわれている青年だ。彼がそばにいれば、まず大きな問題は起きないだろう。
 だが、気は抜けない。警護の軍人たちに導かれて街へ出ながら、アーサーは表情を引き締める。
 大きな祭典、しかもラフェイリアス教に関わる行事だ。何が起きるかわからない。秋口の事件のこともあるし、警戒するに越したことはないだろう。
 それに――おそらくラキアスの手にすら余るであろう事件の火種が、すでに報告されている。
 アーサーはラキアスに目配せする。彼は小さくうなずき、さりげない足取りでアーサーのそばまでやってきた。
「アーノルド捜査官から話は聞いている。貴殿が、我々と『彼ら』の連絡役だとな」
 そっとささやくと、ラキアスは音もなく肯定した。そして、現状『危険な輩』に動きはないこと、しかし何度か奇妙な魔力の揺らぎが報告されていること、などを教えてくれる。そして、『彼ら』の今日の配置と、役割も。
 それらを聞き、頭の隅に書き込んで、アーサーは考え込んだ。
「人ならぬ者、か」
 アーノルドの声が耳の奥によみがえる。アーサーにもたらされた情報は、おそらくすべてではない。だが、それは大して気にしていなかった。自分たちにも教会にも、それぞれ守るべき一線というものがある。それに、憲兵隊専任捜査官の報告だけでも、脅威が迫っていることを知るにはじゅうぶんだった。
 元々、冬の大祭には姉のアデレードが出向く予定だった。が、彼女に急な公務が入って、アーサーが代理で出席することとなった。これについては今も納得していない。だが、こうなってくると、ここへ来たのが自分でよかったと思ってしまう。
 あるいは、これも巡りあわせか。
 胸中で呟いたアーサーは、改めて前を向く。今日何が起きるとしても、時が来るまでは『こちら』の務めを果たさなければならない。だから彼は、皇子としての仮面をかぶり直した。

 後ろでまとめていた髪をほどく。
 丈夫な上着に袖を通し、前を閉める。
 腕や足の動きを確かめる。引っかかり少なく、良好。
 再び髪を梳かす。
 髪の一部を右耳の上でひとつにまとめる。

 戦で特に重要なのは、平常心を保つことだ。
 身心に大きな負荷がかかる状況で、いかに冷静な判断と行動ができるか。それが勝敗を、ひいては生死を分ける。

 平常心を保つ有効な方法のひとつが、『いつも通り』を取り入れることだ。
 だから、いつも通りの髪型で。
 いつもに近い格好で。
 愛用の剣を手に取り。
 彼女は、イルフォード家の令嬢としてではなく、ただのステラとして部屋を出る。
 延々と廊下を歩き、長く――他の大貴族の邸宅ほどではないにせよ――壮麗な階段を下り、一階の大広間ホールを目指す。
 窓から差し込む光は薄く、まだ夜のような暗さだ。廊下の燭台にも明かりを入れていないと、足もとが見えないほどである。それでも、大広間ホールには『クレメンツ怪奇現象調査団』の面々が集合していた。その周辺もやや慌ただしい。足音や遠く聞こえる指示の声などから、使用人や家の者たちがそれぞれに働いているのだろうとうかがえた。
 学友たちは、改めて姿を現したステラに気づくと、手を振ったり声をかけたりしてくれる。中でもことさら元気なのが団長ジャックで、これもまた『いつも通り』だった。
「ステラ、支度は済んだかい?」
「うん。待たせてごめんね」
「いやいや、僕らもさっき戻ってきたところさ」
 ジャックは陽気に片目をつぶる。まわりの団員たちもうなずいていた。全員、朝食のときに見た制服姿ではなく、より動きやすい服装になっている。『武術科』の二人は、それぞれきっちり武器も携帯していた。レクシオは一見して平時と変わらず、ミオンは少し緊張した様子だ。ステラと目が合うとやわらかな微笑を見せるが、わずかに体がそわそわと動いていた。
「で、もう出るの?」
「うん。兄上たちは後から合流するそうよ。だから先に行って陣形を整えておけ、って」
 ナタリーに尋ねられ、ステラは軽い調子で答える。剣の鞘を軽く叩いた。
 彼女たちのやり取りを聞いたジャックが、ひとつうなずく。それから、団員たちを見渡して、明るい号令をかけた。
「それじゃあ、行こうか! 目指すは開会式の会場、シュトラーゼ聖堂前広場だ!」
「おーっ!」
 団員たちは、変わらず応じて拳を突き上げる。
 学生たちの元気な様子を、数名の使用人がほほ笑ましく見守っていた。

 祭の前。街はまだ静かだ。露店らしきものもぽつぽつ見えるが、ほとんどが準備中だった。色鮮やかな屋根の下で、大人も子どもも忙しなく動き回っている。
 そんな中を、ステラたちは急ぎ足で通り抜けた。
 空は暗く、吐く息が白い。今日もまた雪が降りそうだ。ステラは、鉛色の雲を視界の端に収めて、そんなことを思った。
 道行の途中で『研究部』の四人と合流する。彼らもそれぞれ武器や符を携えていて、準備万端だった。
「アーノルド捜査官は……もう聖堂か」
「時間的にそうだろう。『上官』とのやり取りもある、と仰っていたしね」
 挨拶の後、あたりを見回して呟いたオスカーに、ジャックが答える。そうか、と呟いた少年はするりとこちらの輪に入ってくる。それにブライスが便乗し、シンシア、カーターと続いた。
 学生たちは縦に列をなし、道をゆく。聖堂付近では、夜の間に軽く降ったらしい雪が、石畳にまだら模様を作っていた。
「ミオン、大丈夫? 寒い?」
 皆を先導していたステラは、親友の声を聞き、足を止めかける。すぐに歩みを再開したが、意識の一部をさりげなく聴覚に傾けた。
「寒さも、ありますけど……それより、ドキドキしてきて。こ、これから戦いが始まるんだな、って思っちゃって……」
「あぁ……。ま、緊張はするわよね。私も『銀の選定』のとき、正直めちゃくちゃ怖かったし」
 思いがけず聞いてしまった言葉に、ステラは目をみはる。今までその気持ちを口にしなかったのは、ステラを気遣ってのことだったのだろうか。可能性の一つに思いをはせると、胸が針で刺されたように痛む。
 思えば、ミオンもこれが初陣のはずだ。緊張しないわけがない。恐怖を感じないわけがない。『金の選定』の話が出たときから、きっと思いはあっただろう。それでもシュトラーゼではほほ笑んで、いつものように振る舞っていた。
 もう少し気遣ってあげられればよかった。そんな後悔が泡のように浮き上がる。だが、感情の泡はすぐに弾けた。続けて聞こえた、声によって。
「大丈夫、とは言い切れないけど。でも、ま、その場に立てば案外なんとかなるもんよ。人間生きたいから、生き残れるように動くわけだし」
「そういうもの、でしょうか」
「そういうもん、そういうもん。ミオンは気負わずにいればいいと思うよー。みんなもいるし、『ミステール研究部』も一緒だし。今回は軍の力も借りれそうだし……それに何より、こっちには『銀の翼』がいる! ほら、心強い!」
 あっけにとられたような沈黙の後、笑声が弾ける。それは、ミオンだけのものではなかった。
「確かに心強いです。わたしの出番、ないかもしれないですね」
「うんうん。ミオンは楽観的に考えるくらいがちょうどいいな」
 少しこわばりが解けたようなミオンの声に、トニーが軽く応じている。また笑い声が起きて、それを聞いたステラの口もともほころんだ。
 そうだ。自分は一人じゃない。たとえ『翼』として先頭に立たねばならないとしても、自分一人ですべてを背負っているわけではないのだ。
 ステラは一度振り返り、自分の胸を叩いてみせた。
「ミオンがどーんと構えてられるように、あたし、頑張るね!」
「おっ、その意気! でも無茶はすんなよ!」
 ナタリーが切り返すと同時に釘を刺す。そこへレクシオが「『幽霊森』のときみたいなことしたら、さすがに怒るからなー」と便乗した。周囲から同意の声が上がり、ステラは一転、苦い顔になった。