終章 翼の誓い

 鉛色の雲の隙間から、澄み切った青がのぞく。薄絹のような光の帯が落ちてきて、白い大地をさらに輝かせる。つかの間注がれた金の恵みは、やわらかなぬくもりを厳冬の地にもたらした。
 その光景を窓越しに見ていたステラは、わずかに目を細めた。窓から外した視線を室内に投げかける。
 白い壁。星と草葉があしらわれた絨毯。かわいらしい内装の部屋はけれど、殺風景だ。小さな棚とテーブルに、椅子が一脚。壁には剣を引っかけるための場所が一か所。特筆すべきものは、それしかない。
 ここは、ステラの私室だ。家出して以降――今回の帰省中でさえ――一度も足を踏み入れなかった場所。今、そんな部屋で寝起きしているのは、静養を命じられたからである。
 アーノルド捜査官と広場に戻ったときには、獣たちの姿は消えていて、大人たちが事後処理に当たっていた。ステラはすぐさま医療班によってイルフォード家の屋敷へ連れ戻され、検査と治療を受けた。
 その際、家の侍医から毒の詳細を聞いた。通常であれば、少量体に入っただけでも死に至るほどの猛毒であったらしい。ステラが生きているのは、アーノルドに施された魔導術と――おそらく、『銀の魔力』のおかげだろう。毒の回りが妙に遅い、と首をひねる侍医の向かいで、ステラはひとり顔を引きつらせていた。
 そんなわけなので、完治するまで部屋から出るな、という厳しい命令に大人しく従っている。そうこうしているうちに、五日が過ぎた。最初の二日はひたすら眠っていたのだが、今は起きていられるようになったため、暇を持て余している。
「結局、大祭にも出られなかったしなあ……」
 ひとりごちて、ステラは掛け布団の上に顔を伏せる。重苦しい後悔が、今になって背中にのしかかってきた。
 しかし、大祭に出られなかったのはステラだけではない。先の戦いでひどく消耗した『調査団』と『研究部』の魔導科生たちも、三日は動けなかったと聞く。騒動の翌日と翌々日に開催された祭りを楽しむことは、叶わなかった。
 冬の大祭への参加も旅の目的のひとつだったのだ。『ミステール研究部』に至っては、それが主目的だったはずである。とにかく申し訳ない。外出許可が下りたら全力で謝りにいこう、と心に決めて、ステラは顔を上げた。
 直後、部屋の扉が叩かれる。短く、三回。軽快な音に驚いた心臓が小さく跳ねたが、ステラはすぐに心をなだめて「はい」と応じた。
「ステラ、入っても大丈夫かい?」
 扉の先から聞こえてきたのは、兄の声だ。ステラは意外に思いながらも「大丈夫です。どうぞ」と返す。
 静かに開いた扉の先から、ラキアスが顔を出す。彼は、食器が載ったトレイを両手で持っていた。
「おはよう。少し遅くなったけど、朝食を持ってきたよ。食べられそうか?」
「あ……はい。ありがとうございます」
 ほほ笑んだ兄に対し、ステラは慌てて頭を下げる。その拍子に、腹の虫が小さく鳴いた。いたたまれない気持ちになるが、兄の方は音に気づかなかったらしい。よどみのない動作でトレイをテーブルに置いて、そのテーブルを寝台へ寄せていた。
 野菜と根菜がたっぷり入ったスープの横に、ぷっくりと丸い白パンが添えられている。トレイの隅で小ぢんまりとしているカップは、黄緑色のお茶らしきもので満たされていた。ほんのりと、薬草の香りが漂ってくる。
「とりあえず、召し上がれ。ゆっくりで大丈夫だから」
「はい。いただきます」
 ラキアスの言葉にうなずいて、ステラは食事に手をつける。スープの中に小さな燻製肉ベーコンを見つけて、ちょっぴり嬉しくなった。
 ステラはしばらく無言で食事をしていたが、ある程度食べ進めたところで手を止める。静かに座っている兄を見た。
「あの、兄上。みんなは、どうしていますか」
「……ああ。ちょうど、その話をしにきたんだ」
 どうやらラキアスは、食事が一段落するのを待っていたらしい。彼女の方に顔を向けると、穏やかに目を細める。
「ご学友の皆さんは、ほとんど回復されたよ。今は諸々の事後処理を無理のない範囲で手伝っていただいている」
 明るい報告内容に、ステラは胸をなでおろす。穏やかな心地でお茶を少し飲んだとたん、口いっぱいにえもいわれぬ苦味と渋みが広がった。顔をしかめたステラを見て、ラキアスが吹き出す。しばらく笑いをこらえた彼は、なんとかそれを引っ込めると、口直しのスープをかきこんでいる妹に向き直った。
「さて、次の報告だ。おまえが一番気にしているであろう、レクシオくんの容態について」
 ステラはスープを飲み込んで、背筋を伸ばす。否が応でも緊張した。無意識のうちに握っていた拳の力を少し抜く。そんな彼女へ、青年はあくまでも穏やかに、告げた。
「今はだいぶ落ち着いているらしい。とはいえ、俺は直接様子を見られていないから、詳しくはわからないけどね。今朝、医務室に行ったら、『ようやく眠れたところだから、そっとしておいてあげて』と先生に追い返されてしまった」
 おどけたラキアスの言葉を聞いて、ステラも顔をほころばせる。「ようやく眠れた」ということは、それだけ『静まって』きたということだろう。詳しい様子はわからずとも、朗報には違いない。

 ――あの日、ステラとアーノルドが広場に戻ってきたのは、ちょうどレクシオが倒れたときだった。血まみれでうずくまる幼馴染の姿に、ステラはひどく取り乱した。今思えば恥ずかしい限りだ。暴れようとしたのを一生懸命止めてくれたアーノルドには、頭が上がらない。
 幸い、傷のひとつひとつは大して深いものではなかった。倒れた原因は怪我ではなく、魔力の急増。軍の衛生兵もイルフォード家の侍医もこの事実に眉をひそめたが、ステラはかえって冷静になった。
 魔力の急増。それは間違いなく『金の選定』によって引き起こされたことだ。それが原因で倒れる、というのはステラも経験している。驚くほどのことではない。
 とはいえ、事情を知らない人々にそんな話をするわけにはいかない。彼女にできるのは、沈黙を守って体を休めることだけだった。

「魔力の方も安定してきているから、もう二、三日休めば動けるようになるだろう、とのことだ」
「そうですか……よかった」
 ステラは小さく息を吐く。彼女の反応を見たラキアスは、流れるように立ち上がった。
「最新の報告は以上だ。また何かあったら知らせるから、おまえは気にせず休みなさい」
 諭すような言葉に、ステラが顔を歪めつつもうなずくと、ラキアスは満足そうに背を向ける。そのとき、ふとあることを思い出して、ステラは口を開いた。
「あっ、兄上!」
「ん? どうした」
 振り返り、首をひねったラキアスを、ステラは軽く深呼吸してから見つめる。この三日間、胸の内で整えていた言葉を、ひとつずつ吐き出した。
「あの、以前お話ししてくださった、跡継ぎの件なのですが」
 ラキアスの目が軽く見開かれる。彼は一転して神妙な顔つきになり、ステラの前に戻ってきた。静かなまなざしを受けた少女は、泰然としてそれに応える。
「……正式に、辞退させていただきたく存じます。私は、イルフォード家の当主にはなれません」
 兄はまた、瞠目した。今度は大きな驚きが顔じゅうに表れている。しばしの沈黙の後、彼は細長く息を吐いた。
「それはまた、どうして?」
「やりたいことと、やるべきことが見つかったからです」
 ステラはきっぱりと答え、兄を見据える。
 視線が交錯したのは、さほど長い時間ではなかった。だが、その間に兄妹は数え切れぬほどの思いを交わした。少なくとも、ステラはそのつもりである。
 ふいに、ラキアスの視線が逸れた。
「そうか」
 答える声は、穏やかだ。改めて見てみれば、彼はほほ笑んでいた。なぜか、とても嬉しそうに。
 ほほ笑みの理由がわからなくて、ステラは目をしばたたく。
 彼女が問いを発する前に、兄の方が口を開いた。
「――俺はな、ステラ。おまえのそういうまっすぐなところが、好ましかったんだ。小さい頃から、ずっと」
 語る声は、やわらかい。幼い頃、彼女の頭をなでてくれたときと似た空気を感じた。
「いつも素直で、まっすぐで。祖父が怖くても一生懸命話しかけ、厳しい稽古には、弱音を吐きながらも全力でぶつかっていく。それは、俺が早々に捨て去ってしまった心の輝き、そのものだった。
 この子には、その輝きを持ち続けてほしい。そう願って、その願いはいつしか、変質していた。『その輝きを持ち続けられるこの子に、次の当主になってほしい』という願いにね」
 今度は、ステラが瞠目する。反対に、ラキアスは瞼を狭めた。
「――けれど、考えてみれば。そのまっすぐな情熱をどこに向けるかは、俺が決めることではなかったな」
 寂しそうな声を聞き、ステラは押し黙る。よい返答が、声がけが、何も思い浮かばなかった。ただただ、理由もわからず胸が締めつけられる。
 彼女が返答に窮している間に、ラキアスは先刻のさびしげな表情を消していた。代わりに、いつもの微笑を目もとに刻んでいる。
「おまえの思いはわかったよ、ステラ。おじい様には、俺から伝えておく」
「あっ――」
 青年は、立ち上がる。再び背を向けた彼に、ステラは声を投げかけた。
「ありがとう、ございます! 兄上!」
 心に浮かんだ言葉。それは、どこまでもありきたりなもので。
 けれど、それを受け取ったラキアスは、優しい兄の顔でステラを振り返った。
「こちらこそ。話してくれてありがとう、ステラ。イルフォード家は、俺たちに任せておけ」
 力強い一言。それはきっと、決別の言葉でもあるのだろう。
 それでも不思議と、悲しさや寂しさは湧いてこない。
「よろしくお願いします」
 ステラは深々と頭を下げる。それから、できる限りの敬礼をして見送った。
 扉が開く。ラキアスは見本のような敬礼を返してから、丁寧にそれを閉めた。

 外出許可が出たのは、二日後の朝だった。
 さっそくステラは客間に出向き、大祭に参加できなかったことを学友たちに謝罪した。彼らはあまり気にしていない様子で、むしろステラの快復を喜んでくれた。オスカーなどは「協力すると言い出したのはこちらだしな」と淡白な返答をくれる。それを聞いたとき、ステラは妙な安心感を覚えた。
 そして、昼。簡単な昼食を済ませたのち、ステラは街に出た。なるべく人目につかぬよう道を選び、街の中心部へと向かう。目的地は、シュトラーゼ聖堂だった。
 たまたま遭遇した司教にお願いし、一時的に人払いをしてもらう。申し訳なく思ったが、司教は「お気になさらず」と笑っていた。元々、大祭直後は来客が少なく、この時間は礼拝に来る人もほとんどいないのだという。
 ステラは、広々とした聖堂をゆっくりとした足取りで進んだ。彫刻の一つひとつを目に刻みながら、一歩一歩を意識する。甲高い靴音が、高く、長く、反響した。
 一番奥、女神像の前で足を止める。ベルいわく「レプリカ」だというそれを無言で見上げた。
「そういえば、本物、見損ねたなあ」
 そんなことを思い出す。愚痴っぽく呟いてはみたが、あまり残念だとは思わなかった。
 ステラはふと、ある一点に目を留める。美しい女性の体から広がる、左右の翼。
「『翼』……か」
 手を広げる。手のひらを見る。魔力の流れを感じる。この感覚にも、すっかり慣れた。
 ずっと、遠い世界の出来事のように感じていた。女神だの『翼』だの『選定』だの、縁のなかった事柄に関わるようになって。それを自分のこととして受け入れられなかった。けれど、今は、『銀の翼』という肩書きがはっきりとのしかかってきている。
 片翼を選んだからか。それとも、この手で神の一柱を消し去ったからだろうか。
 ――靴音が、響く。ステラは弾かれたように振り返った。司教様か、ベルだろうか、という考えがよぎる。しかし、思考はすぐに霧散して、予想は裏切られた。
「よ、ステラ」
 明るい声。軽快な身のこなし。雑に切られた黒髪と、稚気と知性が同居した緑の双眸。この七日間見ることのなかった少年が、こちらへ歩いてくる。今羽織っている見慣れない外衣コートは、誰かに貸してもらったものだろうか。彼の衣服は、あちこち破けてしまったはずだから。まだ手当の痕跡が残る顔に、現れた彼はいつもの笑みを浮かべた。
「レク!」
 ステラは思わ名を叫ぶ。声が奇妙に反響し、二人の上に降りかかった。
「もう大丈夫なの? 怪我とか、魔力とか」
「ん。まあな。全快とはいかねえけど、外を歩ける程度には元気だ」
「……そう。よかった」
 ステラは意識してレクシオから視線を剥がし、女神像を見る。彼が、隣に並ぶ気配がした。
「広場の方で起きたこと、どのくらい聞いてる?」
「今朝、みんなから大体のことは聞いたわ」
「……レーシュのことも?」
「……うん」
 ためらいがちな問いにステラがうなずくと、レクシオは「そっか」と呟いて後頭部のあたりで手を組んだ。彼が何を気にしているのか、ステラもわかってはいるつもりだ。
 セシル・ウィージアが、セルフィラ神族の一角・レーシュだった。その事実にはステラも驚いたが、多分、レクシオやミオンほどには動揺しなかった。実際にその姿を見ていないせいもあるだろう。
 直接会うことになったら、自分はどういう気持ちになるのだろうか。ステラは考えかけて、やめた。ゆるくかぶりを振る。
「レクやみんなは? こっちでのこと、アーノルドさんから聞いた?」
「ああ。俺は昨日、ざっくり教えてもらった」
 答える声は、変わらず軽い。けれど、続く言葉には少しの翳りがあった。
「けど、俺はステラの話も聞きたい。また後で聞かせてくれや。話せるとこだけで、いいからさ」
 気遣いと憂いの色がにじみ出て、ステラの心に染み込んでくる。「うん」と小さくうなずいたステラは、女神像の顔を見上げた。
 ラメドの声、最期の願いが、耳の奥によみがえる。
「……ねえ、レク。『金の翼』になったこと、どう思ってる?」
 それは、ずっと考えていたことだった。療養している間じゅう、ずっと。今度会ったら聞いてみよう、聞かなければ、と思っていて。けれど、いざ口に出すと、想像以上の恐怖が襲いかかってくる。
 ステラは左手で右手を握った。どちらも、いつの間にか震えていた。きっと、寒さのせいだけではない。
 レクシオはすぐには答えなかった。女神像を見上げて、頭をかいている。困っているというよりは、言葉を選んでいるようだった。
 静謐な聖堂内に、音が落ちる。
「正直、めちゃくちゃびっくりしたよ。でも、それ以上に……ほっとしてる」
 え、とこぼして、ステラは幼馴染を振り返った。よほど変な顔をしていたのだろうか。彼はステラを見つめ返して小さく吹き出し、懸命に笑いを引っ込めていた。ステラが目をすがめると、彼は顔の前で手を振る。
「いや、悪い。……ほっとしてるっていうのは本音よ? だって、おまえを一人で戦わせなくて済むってことだろ」
 目もとから、おどけるような気配が消えて。静かな微笑が浮かび上がる。
「対等に、肩を並べて、戦える。そうわかって、すげー安心したし、嬉しかった」
 噛みしめるように語った少年を、ステラはまた、凝視する。今度は彼も笑わなかった。彼女の中にも、言葉が実感を伴って、入りこんできた。
 目頭が熱くなる。視界がうるんで、ぼやける。
 ステラは唇を噛んで、感情がこぼれるのをこらえた。軽く目もとをぬぐって、透明な雫を飛ばす。
 そして――その場にひざまずいた。

「我が友にして、我が唯一の王――『金の翼』よ」

 息をのむ音がする。
 それでも構わず、ステラは低頭した。
 いつかどこかで聞いた言葉を紡ぐ。彼女なりの、形で。
「あなたの唯一の騎士として、戦友ともとして、この命の終わりまであなたと共に在り続けると誓います」
 それは、『翼』たちの誓いだ。
 これまで幾度も繰り返された、『選定』の終わりと戦いの始まりを告げる儀式。
 けれど、同じ誓いはひとつもない。
 例え同じ言葉でも、繰り返されたものだとしても。この宣誓は、この想いは、彼女と彼だけのものだ。
「――ステラ」
 名を呼ぶ声が、降ってくる。
「『銀の翼』よ」
 それは、いつになく厳かに、優しく響いた。
「あなたの誓い、確かに受け取った。そして、私も誓おう。あなたの戦友ともとして、片割れとして、唯一の王として――あなたと共に歩むことを」
 宣誓は、聖堂全体に染み渡ってから、ゆっくりと消えていく。余韻がなくなった頃、ステラの上に影が差した。そこでようやく頭を上げた彼女は――差し出された手と、悪戯っぽく笑う幼馴染の顔を見る。
 ステラも口もとをほころばせ、その手を取った。立ち上がり、改めて彼と顔を見合わせる。
 だんだんおかしさがこみ上げてきた。二人はすぐにこらえきれなくなり、揃って笑声を立てる。
 日常のひと時のように笑いあう二人を、窓から差し込む陽光が、あわく照らしていた。

(Ⅴ 翼の誓い・終)