「ラメドは、消滅しました。『銀の翼』に討たれたようです」
聖歌のように、美しく響いた言葉。
アインはそれを呆然と聞いていた。
「……え?」
消えそうな反問の声に、応える者はいない。アイン自身、それが自分の声なのだと認識していなかった。
相も変わらず薄暗い洞窟の中。報告を聞いたギーメルとダレットが、同時に眉をひそめた。ヌンは変わらず、洞窟の隅でうずくまっている。話を聞いてはいるらしく、時折身じろぎをしていた。
けれど、いずれもアインの目には映っていなかった。それどころか、正面に立つレーシュの表情すらも、彼女には見えていなかった。
「……予想外ね。『銀の翼』がこの短期間で、ラメドを倒せるほど力をつけていたとは」
「さすがに、今まで通りとはいかないな」
苦々しげなダレットの横で、ギーメルがため息をつく。内心を隠す気もない二人に向けて、レーシュは薄く笑んだ。
「ええ。ですから、計画を見直す必要があります」
「具体的にはどうするんだ。ほかの神でも呼ぶか?」
「それも一案ではありますが、現実的ではありませんね。時間がかかりますし、あまり神が動くとラフィアの手の者に気取られてしまいます」
「となると……今とれる行動は、ひとつかしらね」
「ええ。『道』の形成を急ぎましょう」
仲間たちへ言葉を返す、レーシュの声は冷ややかだ。歌うような抑揚はついているが、そこに気遣いや真心は感じられなかった。
難しい話をする仲間たちのかたわらで、アインは身震いした。レーシュが冷たいのはいつものことだ。けれど、その声が今日はより恐ろしく感じられた。
無意識のうちに、ぬくもりにすがりつきかけて、手が空を切ったことに驚く。いつも隣にいてくれるはずの彼が、いない。
「ね……ねえ」
アインは、たまりかねて、声を上げた。
話し合っていた神族たちが、一斉に振り向く。一人が少し眉を下げ、一人が気まずげに顔を逸らす。もう一人は――少しも表情を変えなかった。
アインは、震える唇をこじ開ける。
「しょうめつ、って、どういうこと? ラメドは、どこにいるの?」
彼女が問いかけた直後、わざとらしいため息が空間の中心に落ちた。吐息の主は、ひるんだ少女に冷たい視線を注ぐ。
「ラメドはどこにもいません。先ほどもそう言ったでしょう」
レーシュは、平坦な声で語った。直後、咎めるような女の声が彼を呼ぶ。
『天と生ある獣の神』は、ああ、と呟いて口の端を持ち上げた。
「失礼。人間であったあなたに、神族の感覚はわかりませんよね」
作り物めいた笑みを浮かべた神族は、青い瞳をいびつに細める。
「ラメドは『死んだ』のです。こう言えばわかりますか、アイン?」
アインは、目をみはって固まった。
彼女を嘲るレーシュの声。その半分は、まともに聞こえていなかった。『死んだ』その一言だけが、頭の中を幾度も幾度も駆け巡る。
「う、そ」
ラメドが、死んだ。
――父や、母と、同じように。
「うそだ」
アインは、吐き出された己の声も、ろくに聞いていなかった。
ただ、自分が人であった最後の日のことを思い出す。彼女が『死』を知った、そのときの光景が目の前によみがえって――瞬間、何もかもが弾け飛んだ。
「うそ……うそだうそだ! ラメドが『死ぬ』わけない! だって――」
金切り声が、洞窟中に響き渡る。喉を焼かんばかりの叫び声を上げた幼子は、けれどすぐに口をつぐんだ。言葉が出てこなくなった。
自分を見ている少年姿の神が、にらむような目をしたことに、気づいたから。
アインは数度、口を開閉させた後、言葉にならないうめき声を漏らす。そして、洞窟の出入り口の方へと走り出した。
理由はない。そんなものは、彼女自身も知らなかった。
全身を――この命すらも押しつぶすような、熱く激しい感情だけが、彼女を急き立てていた。
※
「……今のはさすがにまずいだろ、レーシュ。俺でもわかるぞ」
少女の背中を見送ったギーメルが、ローブに覆われた肩をすくめる。レーシュは、そんな彼を振り仰いで、子どものようにまばたきした。
「あなたがそのようなことを言うとは意外ですね、ギーメル。アインのことを嫌っているのではありませんでしたか?」
「俺の好悪は関係ない。てめえの物言いがひどすぎるって話をしてんだ」
ギーメルは、レーシュをにらむ。「『親兄弟』を亡くしたガキに向ける言葉じゃねえだろうが」とうめいた。低い声を聞いても、しかし彼はまったく動じない。
「アインはもう人間ではない。神族です。彼女にはそろそろ、その自覚を持ってもらわねばなりません」
歌うような、けれど何の感情もこもっていない声。それを聞き、ギーメルはわざとらしくため息をついた。三白眼を隣へ向ける。にらむように見られたもう一人、つまりダレットは、無言でかぶりを振った。
彼女から目を逸らして、ギーメルは両手を挙げる。
「あーあーそうだった。おまえはそういう奴だったよ」
「納得していただけたのなら結構。話を進めましょう」
刺々しい言葉をぶつけられてなお、レーシュは涼やかな表情を崩さない。仲間の舌打ちなど聞こえていないかのようにほほ笑んで、話を軌道修正した。
お世辞にも和やかとは言えぬ空気の中、うずくまっていた大男が緩慢に立ち上がる。彼は仲間たちを振り返りもせず、洞窟の出入口の方へ歩いていった。
※
洞窟の上には、満天の星空が広がっていた。冷たい静けさに支配された洞窟の周辺に人の営みの気配はなく、野草が点々と生えて、細長い木が無秩序に枝葉を伸ばしている。植物を求めるうさぎや鹿などが時たまやってくるが、彼らも洞窟には近づくことなく去っていく。そのため、この場所に音はほとんどない。気まぐれに吹く風が、草木を揺らしていくだけだ。
無我夢中で飛び出してきたアインには、そんな風景も見えていなかった。情動のままにうずくまるやいなや、悲鳴にも似た嗚咽を漏らす。
「うそつき……ラメドの、うそつき」
涙と一緒に膝の隙間からこぼれる声は、弱々しい。
「しなない、って言ったじゃん」
アインは、同じ言葉を幾度も繰り返した。まるで、それ以外の言語を忘れてしまったかのように。
言葉の切れ間に、ふと目を瞬く。小さな雫が弾け、瞼にとどめきれなかった涙の粒が筋となって頬を流れた。
「はやく、あやまればよかった」
ラメドと一緒にいた、最後の日。シュトラーゼに連れていってもらえないことを怒って、彼にひどいことを言ってしまった。そのままふてくされて、見送りもしなかった。
「しんじゃうなら……きえちゃうなら……あんなこと、いわなかったのに……」
ただの言い訳だ。アイン自身も、わかっていた。それでも、言わずにはいられなかった。言わなければ、耐えられなかった。
どれだけ悔いたところで、時間は静かに流れ続ける。疲れ切ったアインが膝の間により深く顔をうずめたとき、彼女の上に大きな影が差した。少し遅れてそれに気づいた彼女は、のろのろと顔を上げ、こぼれんばかりに両目を見開く。
「……ヌン?」
名を呼ばれた大男はうなずきもしない。黒い布の隙間からわずかに見える目を、ただ童女に向けていた。
しばらく無言で見つめ合った。その後、ヌンがのっそりと座り込む。その場に――アインの隣に。
アインは、彼の横顔をまんじりと見つめた。横顔といっても、黒い布とつくりものの黒髪しか見えないのだけれど。黒に飽きてため息をついてからは、正面に顔を向ける。けれど、夜にまぎれる草木を見ているわけではなかった。
「ねえ、ヌン」
呼んでもいらえはない。いつものことだ。少女は、気にせず続ける。
「ヌンは、ラメドがどうなったか、わかるの?」
言葉の終わりがわずかに震えた。身心がすくむのをなんとかこらえて、アインはヌンを見上げる。彼は最初と変わらぬ姿勢でそこにいたが、少し経ってからゆるやかに首を振った。セルフィラ神族の中では落ち着きのあるラメドと比べても、その動作は重くて遅い。
「そっか、わかんないか」
アインは再び、膝の間に顔を半分隠した。
「そうだよね。ヌンが見守ってたのは、生き物のたましいだもんね。かみさまのたましいのことは、わかんないよね」
――そもそも、神族に魂はあるのだろうか。
ふいに、そんな考えがよぎる。アインは、ぶるりと全身を震わせた。
落ち着く間もなく、先ほどのレーシュの言葉を思い出した。
ラメドは消えた。『銀の翼』に倒されて。
もう、戻ってこない。消えてしまったら二度と会えない。
それだけは人間と同じだ。悲しいほどに、同じなのだ。
「……『銀の翼』」
空気がまだ暖かくて、すべての草木が色づいていた季節の出来事を思い出す。
そこで見た、人間たちのことを。忌々しい銀色の光に選ばれた、年上の少女のことを。
「あいつが、ラメドをころしたんだ」
アインは呟いて、唇を噛んだ。
自分で言葉にした途端、痛いほどの実感がわいてくる。同時に、腹の底がふつふつと熱くなってきた。
この痛みを、熱を、彼女は知っている。
「ぜったいに、許さない……こんどは、アタシがおまえをころしてやる……!」
アインは、うめくように声を、憎悪を吐き出した。人間だった最後の日と同じように。
大男の頭が動く。布の奥の瞳が少女を見つめる。その事実にも、瞳の奥にある揺らぎにも、彼女はまったく気づいていなかった。