明の月八日。帝都周辺は、清々しいほどの晴天だった。その代わり、空気は痛いほどに冷えている。大きな鞄を手に歩く紳士たちも、屋根のない馬車に乗る淑女も、風が吹くたびわずかに身を縮めた。道端には、薄い氷が解けたのであろう水たまりが点在している。車がその上を通りすぎるたび、小さな波が立つ。
そんな中、レクシオ・エルデは朝早くから帝都に繰り出していた。通りを埋め尽くす音に眉ひとつ動かさず、行き交う人の波を気にするそぶりも見せず、ただ淡々と歩いていく。なじみ深い学び舎の影が遠くなったところで角を曲がり、小路へと足を踏み入れた。
細く薄暗い通りを黙々と進む。突き当りを左に曲がり、さらに何度か角を曲がると、少し道幅が広くなった。
食べ物のかすやごみが乱雑に散らばり、時折カラスや野良猫が行き来する。人の姿は見かけるが、みんなどことなく刺々しい雰囲気を漂わせている。先ほどまでと打って変わって、つきはぎだらけのシャツとズボン、あるいは裾が擦り切れた貫頭衣を着ている者がほとんどだ。表通りとは違った意味で雑然としており、暗くすさんだ空気がよどんでいる。
そんな場所でも、レクシオは動揺をあらわにしなかった。それどころか、家の近所を散歩するような気軽さと迷いのない足取りで進んでいく。彼に気づいた人々が一瞬その方を見るが、レクシオが少し視線を動かすとすぐに目を逸らした。
そうしてしばらく歩き、ひと気のない通りの終点で足を止める。レクシオから見て右側に建つ建物を見上げた。
ごちゃごちゃと並び立つ住宅や廃屋から離れたところに建つその建物は、『ぼろさ』で言えば周囲に引けを取らない。壁の塗装はあちこち剥がれ、窓は薄汚れて内側がまったく見えなかった。いつぞや吹き飛んだという雨戸にはつぎはぎのような補修だけがされており、扉もくすんで傷だらけだ。そして、扉の上に看板が打ち付けられている。看板の文字はかすれて今にも消えそうだったが、『武器屋』の部分だけはかろうじて読めた。
レクシオは苦笑をこぼし、扉の把手に指をかける。押すように開くと、蝶番が悲鳴を上げた。同時に、鈴の音がする。
店内は奥行きがあり、天井がやや高い。大小の棚が整然と並び、店の奥側にはカウンターがあって、その左右には長槍や戦斧などの長柄武器が陳列されている。物は多いが客はおらず、がらんとした印象だった。一見無人のようだが、レクシオは構わず踏み込んだ。
「チャーリー、いるか」
声を張り上げると、一拍の間の後に、ごとん、という音がする。それからカウンターの先の扉が開き、人影が現れた。
「いらっしゃい。……っと、レクか?」
「ご名答。お久しぶり」
店内が薄暗いせいで、店主の顔はよく見えない。それでもレクシオは飄々と問いに答え、店の奥まで大股で歩いていった。少年がカウンターに両手をつくと、店主は笑みをのぞかせる。
「久しぶりだな。ずいぶん背が伸びたんじゃないか?」
「そうか? まあ、最後に来たのが結構前だからなあ」
レクシオは自分の頭に手のひらを当てて首をかしげる。それから、改めて店主――チャールズと向き合った。
背の高い男だ。細身なようでいて、肩や腕の筋肉は盛り上がっている。ぎりぎり肩にかからないほどの髪は金色だが、先端だけが茶色い。染めているのか地毛なのか、実際のところをレクシオは知らなかった。顔には小じわやシミも見られる。ただ、その目もとを彩る笑みは少年のそれのようだ。
昔から変わらぬ武器屋の笑顔に、レクシオの顔もほころぶ。彼が久方ぶりに肩の力を抜いていると、チャールズは目を瞬いた。
「今日はどうした」
「ああ。ちょっと、武器の修理をお願いしたくて」
レクシオは、腰からさげた革製の鞘を叩く。本来は短剣などを入れておくためのものだが、今はそこから黒い柄がはみ出していた。それに気づいたチャールズが、訝しげに頭を傾ける。
「修理、か。ま、だいぶ長いこと使ってるもんな」
武器屋の言葉に、少年は頬を引きつらせて目を泳がせた。
「あー、うん。それもあるんだけど」
チャールズの頭の角度がますます急になる。レクシオは気まずげに頭をかいたのち、鞘を剣帯から外してカウンターの上に置いた。そこで慎重に愛用の武器を引っ張り出す。
出てきたものを見て、チャールズが顔をこわばらせた。
本来、レクシオの鋼線はほとんど柄だけが表に見えている状態だ。鋼線部分は、細い空洞となった柄の内側に収納されている。だが、今は糸のような金属が外に伸び切っていた。それだけでなく、ところどころがちぎれたりちぎれかけたりしており、革製の鞘の奥からさらに何本かの金属線がからまって出てきた。
乾いた沈黙が店内を満たす。ややして、沈痛な武器屋のため息がそれを破った。
「……何がどうしてこうなった?」
「理由は多分いくつかある」
レクシオはばつが悪そうに腕を組んだのち、鋼線の切れ端をつまんだ。
「ひとつは経年劣化。あんたが言った通りだ」
からまった金属の糸をほどきながら続ける。
「ふたつ、ここ数か月でかい戦いに巻き込まれていたので、短期間で酷使してしまった」
「いや淡々と語ってるけどどういうことだよ。おまえ学生だろ?」
チャールズの指摘に彼は首肯だけで答えた。ちぎれた鋼線部分を柄の横に並べて、顔を上げる。
「みっつ、色々あって俺の魔力の質と量が変化した。その魔力に耐えきれなくなって、鋼線が切れたと思われる。ちなみに切れたのは年末」
再び武器屋と目が合うと、レクシオは両手を顔の前で合わせた。
「ごめんなさい」
「…………いや、まあ、仕方ねえだろ。古くなってたんだし」
チャールズは額を押さえながらもそう言い、左手で鋼線の柄を持ち上げた。
「つまり、あれだな? ものすごーく丈夫に作り直せ、と」
「そうだな。もう戦場仕様にしてくれ」
「ほんとに何してんだよおまえは」
チャールズは黒い柄を逆手に持つと、その先でレクシオの額をぺしりと叩く。「いてっ」と彼が声を上げると同時、いかつい顔をつくった。
「あのな。危ないことはするな。おまえに何かあったら、ヴィントに合わせる顔がない」
レクシオは目を細め、口を尖らせて武器屋の男をにらんだ。しかし直後、口をゆがめる。――ほほ笑むように。
「……無理だよ」
「あ?」
「ごめんけど、無理だ。俺はきっと、これからすごく危ないことをする。……俺にしかできないことだから」
言い切ったレクシオをまじまじと見返したチャールズは、これ見よがしに大きなため息をつく。
「あれか。女か」
「なんでそういう話になるんすかね」
「まったくしょうがない奴め。そういうとこだけはヴィントそっくりだ」
「聞いてます?」
レクシオの抗議を受け流したチャールズは、柄から垂れ下がっている鋼線を手で収納する。それから、ちぎれた部分を回収した。その頃にはレクシオもあきらめて、肩をすくめた。
「修理は承った。つーか、ほぼ作り直しだな、これ」
「ああ。頼むわ」
「どのくらい時間がかかるか、まだ読めない。納期は分かり次第知らせる」
「りょーかい」
軽い調子で答えたレクシオは、あることに思い当たって顔をこわばらせる。店主の横顔を見ながら、その「あること」を恐る恐る口に出した。
「ちなみに……お代はいくらくらい……?」
「高くつくぞ」
少しだけ顔をこちらに向けたチャールズが、にやりと笑う。さすがのレクシオも青ざめた。
「と言いたいところだが、さすがに実質親無しの学生から大金ぶん取るのは邪神の所業だよなあ。どうするか」
武器屋は困ったように頭をかく。それを見たレクシオは、カウンターから身を乗り出した。
「なんとか! なんとかする!」
「あー、いい、いい。親父さんにツケとけ」
「指名手配犯に代金請求するのはおすすめしない」
そんなやり取りをしながらも、チャールズは鋼線を奥へ持っていってしまった。本気でヴィントに請求しそうだ。レクシオは頭を抱えたが、直後に声をかけられて、顔を上げた。
「ちょっと待っとけ」
「何?」
首をひねったレクシオを振り返り、チャールズは不思議そうに目を見開いた。
「何っておまえ。『魔力の質と量が変化した』んだろ?」
思いがけない言葉に、レクシオは何度もまばたきした。
一度店の奥に引っ込んだチャールズは、すぐに戻ってくる。彼は全身で抱えるようにして四角い台座のようなものを持っていた。金属なのかなんなのか、銀色にも白色にも映るそれをレクシオはまじまじと見る。
チャールズが掛け声とともにそれをカウンターへ置いた。上からのぞきこんだ少年は、目を丸くする。
それは、ただの四角い板ではなかった。表面には、鏡だろうか、虹色にも見える不思議な色合いの円板が嵌め込まれている。そして、レクシオから見て手前側には、彼の手のひらより一回り小さいくらいの水晶が生えるように埋め込まれていた。
「……なにこれ」
「魔力の計測盤」
唖然としたまま問えば、武器屋は平然と答える。レクシオは、ほう、とこぼして鏡のような表面に見入った。
「初めて見た。こんな感じなのか」
「レクも触ったことあるだろ。ここに初めて来たときに」
「そんなの覚えてないっすわ」
この武器屋に初めて来たのは、父と帝都に潜伏していた頃だ。三歳か四歳くらいである。忘れていても不思議はない。チャールズもそれに思い当たったらしく「そりゃそうか」と呟いて頬をかいた。
それはともかく、二人の眼前にあるのは人の魔力の量や状態を測定するものだ。盤の端に埋め込まれている水晶は魔力をよく通す逸品で、これに触れると鏡のような部分に測定結果が映る仕組みらしい。クレメンツ帝国学院の魔導科生などは入学して最初の授業でこれを触らせられるらしいが、『武術科』のレクシオは目にしたことがなかった。
「今のおまえの魔力を測っておきたい。武器の強度や素材選びの基準になるからな」
チャールズはあっけらかんと言った。レクシオも、納得してうなずく。武器屋の指示に従って、そっと五指を水晶の上に乗せた。
冷たい感触。それが指を通して伝わってくると同時、魔力がちりちりと外へ流れだす感覚があった。レクシオは目を閉じ、意識してさらに魔力を押し出す。
瞼を突き抜けるほどの強い光があたりを覆ったのは、そのときだ。チャールズの低い悲鳴が同時に響く。
レクシオは、ほとんど反射で目を開いた。水晶の上の円板が発光しているのを見て、頭が真っ白になる。白金色の光に思考回路まで焼かれてしまったかのようだった。
「待て待て待て待て壊れる! レク、手ぇ離せ!」
心底慌てた様子のチャールズの声で我に返ったレクシオは、みずからも大慌てで腕を引く。水晶から手指が離れて、魔力の流れる感覚もぷつんと途切れた。
光がしぼむように消え、武器屋にくすんだ色彩が戻ってくる。二人はしばらく呆然としていたが、外を通り過ぎた足音を聞くと、揃って肩を落とした。
「あ、あぶなかった……」
ため息とともに吐き出した声も揃う。レクシオは、こわごわと男を見上げた。
「チャーリー、それ動くよな?」
「多分……」
答えながら、チャールズは水晶に自分の人差し指を置く。ほどなくして、夕日色の小さな渦が円板の中心に表れた。「大丈夫だ」とうなずく彼を見て、少年はようやっと心の底から安堵する。
高価な道具を壊すところだった。
人の作ったものが神の魔力に耐えられないのは道理だ。それをわかっていたからレクシオも出力を抑えたつもりでいたのだが、それでもあそこまでのことが起きるとは。『金の魔力』の恐ろしさが身に染みる。
レクシオは、かぶりを振ってからチャールズを見る。
「重ね重ねすまんね……お騒がせして……」
「気にすんなよ。触れって言ったのは俺だし」
今度、彼は朗らかに笑ってそう返した。しかし、直後に目をすがめる。
「しかしまあ、なんだ今の。あんな反応初めて見たぞ」
「俺もだよ」
「前とは別人みたいな反応だったし。何があったんだよ本当」
「あ、あはは……なんでしょうねー……」
「お? この俺に隠し事とはいい度胸じゃねえか」
「いやいや。ちょーっと企業秘密なもんで……」
『選定』のことを必要以上に口外するわけにはいかない。怪訝そうなチャールズの視線を受け止めたレクシオは、笑ってごました。そうすることしかできなかった。